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戦国異聞 池田さん  作者: べくのすけ
激戦と慟哭編
239/239

一領具足

 尾張国犬山。

 藤堂高虎と脇坂安治は池田家の家老である土居宗珊の屋敷に赴く。今日は都合良く、土居宗珊は在宅していた。

 二人は宗珊に話があると持ち掛け、奥の間で話す事になった。

 そこで二人は浅井家に所属している親族達から、北近江で始まった徴兵について報告する。宗珊は二人が話し終えるまで黙って聞いていた。


「成る程な。浅井家の徴兵を親族が報せて来た、と」


「はっ、急ぎ対策を講じる必要があるかと」


「うむ、長浜や佐和山に警戒を促すとしよう」


 話を聞き終えた宗珊は最前線となる長浜や佐和山に警戒を促す事にした。

 流石に長浜は浅井家の領地と隣接しているので、気付いていると思うが。それでなくとも、長浜には竹中半兵衛という男が居るので、独自に情報収集している筈だ。羽柴家に隙は無いと考えている。


「しかし、小豪族や土豪といった者達が報せてくるとは、浅井家内部もかなり揺らいでいる様だな」


「はい、姉川の一戦は相当、効いたかと」


 これは調略の成果でもある。姉川の戦いでの勝利、その後の調略によって、浅井家の豪族達の態度が軟化してきている。織田家なら交渉も有りではないか?と考え始める者が出ているのだ。正に『長い物には巻かれろ』という心理状態だ。


「加えるならば、江北の民衆は織田家に何の悪感情も持っていません。これが六角家なら烈火の如く、敵意剥き出しでしたが」


「そういう側面もあるのか。人の恨みは積み重なるものだな」


 そして大きな要素となるのが、江北の民衆の感情である。源姓佐々木氏は鎌倉時代から長きに渡って近江国を支配している。良い当主も居れば悪い当主も居る。だが、決まって残るのは悪名の方である。

 特に応仁の乱以降の京極家は後継ぎ問題でのゴタゴタばかりで民衆はうんざりしていた。それに合わせて、六角家もいろいろ手出ししていたので、更にうんざりだ。だからこそ浅井亮政による下剋上の動きは民衆から歓迎されていたと言える。

 故に京極家にはあまり、六角家なら絶対に交渉など持たないという豪族が多い。それが北近江の心情なのだが、ここに織田家は関係が無いのである。


「その点で言えば、姉川の戦いでは軍勢同士のぶつかり合いですし、殿は周辺の村や田畑を焼いていません。なので、豪族も民衆も織田家に対して敵意を持たず、今回の様に離反とも取れる行動に出たものと思われます」


「刈り働きや焼き働きを禁止している信長様の理想が通じた形やも知れぬな」


 更に言えば、姉川の戦いは軍勢同士の正面からのぶつかり合いだ。これに勝った池田恒興は称賛こそすれ、恨みに思うなどお門違いだ。それが武家の倣いというものだ。少なくとも豪族や民衆はそう考えている。

 その上で恒興は農村に被害を与えていない。織田信長の刈り働き焼き働き禁止令を厳守している。

 この刈り働き焼き働きは他国の軍勢が嫌われる一番の要素となっている。酷い地域になると『乱取り』という、人を捕まえて売り払う行為もある。当然、売り払われた者は『奴隷』となる。日の本ではその奴隷を『小作人』と呼んでいる。

『乱取り』を行うには売り先を確保しておく必要がある。そう、人買い商人の事だ。犬山に居る元小作人は圧倒的に関東民が多い。特に北関東出身者だ。なので池田恒興は北関東に人身売買組織の大本が居るのではないかと睨んでいる。

 織田家は此等の悪行が無いので、江北の民衆から織田信長は割とマシな大名だな、と見られている。つまり浅井長政への忠義と織田家の威勢が天秤に掛けられている訳だ。


「それで特殊な徴兵とは?」


「兄・高則が記したものになりますが、こちらの書面に」


「ふむ……」


 宗珊は高虎から書面を受け取り開く。そこに記された内容に目を見開く。


「こ、これはまさか!?」


(この徴兵方法は長宗我部家が試していたという『一領具足』か!?)


『一領具足』とは一領(一揃え)の具足(鎧兜)を持っているという意味である。内容は農作業をしない武士と農作業に励む農民の間に、半武士半農民という者達を作った事だ。この半武士半農民は農作業の傍らに一領具足を持ち、徴兵に対し迅速に応える事が可能である。

 これを活用していたのが四国の大名である長宗我部元親で、彼の父親で先代の長宗我部国親が考案したと言われている。長宗我部家ではこの一領具足を徐々に増やす事で、徴兵の迅速化を図り、素早く戦場に到達する事でアドバンテージを得ようと計画している。


(一条家でも一領具足は議論されていた。しかし、実現不可能と一蹴された。某もそう考えたし、寧ろ危険があると見ていた)


 この一領具足には厳しい達成条件がある。その最大のものが『民衆の忠誠』である。一領具足はその性質上、武器防具を予め民衆に渡しておく事になる。そうなると金に困っている民衆は武器防具を売ってしまうし、私的に流用して略奪行為に走る事もあるだろう。そして何より、一領具足は一村単位で行う為、反乱を起こす温床になるし、村ごと山賊化するかも知れない。以上の事から一条家では不可能と結論付けられた。宗珊もこの結論に異論は無かったし、彼の考えとしても一領具足は危険だと判断していた。それは民衆の間に優等劣等を作ってしまうと見たからだ。

 しかし、長宗我部元親は一領具足を実現させる為、あらゆる優遇措置を講じて、一領具足民衆の忠誠心を高めた。村への優遇はもちろん、代表者は長宗我部家内での発言力も与え、内政参加も可能だった。税率の優遇により、その辺の農民より余程裕福であった。こうして民衆の忠誠心を高めて、長宗我部元親は一領具足を実現させたのである。

 ここで話が終われば、『長宗我部元親は英雄』という評価で良いのだが、そうはいかない。一領具足とはいろいろな優遇措置を貰える存在『特権階級』となる。農作業に従事する者達なのだから、元は普通の農民である。その彼等が優遇措置を受ける訳で、一般的な農民とは格別の存在となる。そして迅速な徴兵に応え、戦場で力を発揮する。だが、それは『戦時下』において有効という事だ。

 では『戦時下』でなければ、どうなるのか、だ。それは特権を貪るだけの集団と化す。それを防ぐには特権を削らなければならないが、これが難しい。家臣など、個人に与えた特権なら剥奪は容易だ。個人と話し合い妥協点を見出せば良い。酷いと罪を被せて排除という方法になる。

 しかし集団になるとかなり難易度が上がる。満場一致で特権を手放すと決める集団など、ほぼ居ないからだ。現代においても一緒だ、権利を取り上げられて抗議し続ける宗教団体の話をよく耳にするのではないだろうか。

 一領具足は集団に『武力』を付け加えた存在である。こういう連中は必ず『武力』を行使する。つまり反乱を起こすのである。

 当然だが、長宗我部元親もその事には気付いている。後年の話にはなるのだが、彼は対策をしていた。要は一領具足衆から尊敬され、纏められる人物が居ればいいのだ。元親はその人物を丹念に育て、その人物も才能を開花させ、一領具足衆をも纏め上げていた。その人物を『長宗我部信親』という。長宗我部元親の嫡男である。

 元親は信親に多大な期待を掛け、信親も父親が満足するくらいに一領具足衆から支持を受けた。これで長宗我部家の将来も安泰だ、元親はそう思った。

 しかし、長宗我部家には悲運が襲い掛かる。戸次川(へつぎがわ)の戦いにて、長宗我部信親は討ち死に。享年22歳。この戦いは元親と共に豊臣軍に参加して、島津家と戦っていた。しかし前衛に居た主将の仙石秀久が島津家久の攻撃で敗退。残りの味方も島津軍に囲まれていた。そう、島津家の十八番『釣り野伏』に掛かっていたのだ。この時、元親は撤退を決断したが、信親とは途中で離ればなれなってしまった。元親は何とか島津軍の追跡を振り切り、四国に戻る船まで辿り着いた。しかし、待てど待てど信親は戻って来ない。そう、この時にはもう信親は島津軍により討ち死にしていたのだ。

 信親も撤退しようとしていた。その途中で味方を逃がそうと踏ん張る十河存保(そごうまさやす)を見付けた。信親は存保を救う為に島津軍へ突撃を慣行。結果として二人共に討ち死にとなった。

 長宗我部元親は愛息子の死で悲嘆に暮れ、重度の鬱を患ったという。それ以降の彼は名君の面影も無い、ただ生きているだけの人形の様になってしまった。

 もう長宗我部家は終わりだ、そう元親は諦めてしまったのだ。一領具足衆は農民でも武士でもない特殊な存在だ。彼等を統べるにはいろいろな条件が必要だ。でなければ、一領具足衆は主家を滅ぼすだろう。それだけの武力と影響力を持ってしまっているからだ。それを元親が与えてしまった。彼等は長宗我部家に忠誠を誓っているのではない。元親が与えた特権を貪っていたいだけだ。

 戦時下であれば、富は他国から奪えば良かった。しかし平時では一領具足衆はただの金食い虫と化す。だからといって、彼等の特権を一つでも削れば、一領具足衆は烈火の如く怒り出す。俺達のこれまでの貢献を何だと思っているのか、と。そして反乱、当主暗殺、強盗略奪など主家を滅ぼす勢いで行うだろう。


(一領具足はマズイ。アレは朝廷を脅す悪僧の群れや国主を攻め殺した一向一揆と同質の存在を生み出す。まさか浅井長政の理想は『百姓が持ちたる国』なのか?その指導者になろうというのか?……殿が『必ず殺す』と言う訳だ)


 長宗我部家は一領具足衆によって滅ぶ。という未来は来なかった。その前に徳川家康によって潰されたからだ。代わりに、その負債を背負ったのが土佐国に赴任した『山内一豊』である。

 戦国時代を生き抜いた彼は一領具足衆がどんな存在か、直ぐに理解した。比叡山や一向一揆と戦ってきた彼だからだ。一豊は考える。この一領具足衆が暴れ出した場合、子孫達は対応出来るのか?関ケ原の戦いも終わって、戦も大して無い筈だ。戦慣れしていない者が一向一揆レベルに対応出来る訳がない。これは戦国を生き抜いた自分がやり遂げなければならない。山内一豊は心を鬼にして、一領具足衆を殲滅したのである。

 この事で山内一豊は非難される事が多いが、それは一領具足衆をまったく理解していないとしか言い様が無い。彼を非難するなら、加賀一向一揆を殲滅した柴田勝家も非難されるべきだし、比叡山を焼いた織田信長も非難され……されてましたねw。……と、とにかく一領具足衆は暴発する事が確定していたので、山内一豊は己の寿命も考えて、手段を選ばず殲滅したのである。

 貴方は隣に『反政府武装ゲリラ村』があって安穏と暮らせるのか?それは一つ二つでは済まない数が存在している。そして毎日の様に「金持ってんだろ?出せよ」と言ってくる輩が来る日常となる。そこを考えて欲しい。


 世界的にも例がある。イェニチェリをご存知だろうか。イェニチェリはオスマン帝国の外国人部隊で親衛隊である。

 オスマン帝国では奴隷制度があった。我々がよく耳にする酷い奴隷制度は西欧の物で、イスラム世界の奴隷制度とは別物である。

 オスマン帝国の奴隷は金銭で売買される。それは変わらないが、奴隷にも権利が有り、彼等を守る法律が存在する。奴隷であっても働いた分の給料は保障されている。それで自分を買って自由奴隷となる事も出来る。暴力を振るう主人は訴える事も可能。宗教の制限もなく、生活の基本をイスラム教に合わせればいいだけだ。出世も可能で、オスマン帝国の将軍や大宰相になった奴隷も居るくらいだ。禁止されているのは結婚、相続、出国(武官は条件付き可)となる。

 最初の奴隷は戦争捕虜であった。しかし増え続ける奴隷需要に戦争捕虜だけでは埋めきれなかった。

 その頃の東欧は貧困の極致にあった。だいたい十字軍のせいと言っておく。その為、自らを売る者、子供を売る者が後を絶たなかった。奴隷は最低でも生きてはいける、殺すよりはマシだったからだ。それが奴隷売買の需要と供給を満たしたのである。

 戦争捕虜はオスマン帝国を恨んでいたが、生きる為に奴隷になった者はオスマン帝国で生きる意志が強かった。そこに目を付けたのがオスマン帝国のスルタン(国王、最高権力者の意味)である。ムラト1世が最初だとされている。

 スルタンは自分直轄の親衛部隊イェニチェリを創設。初期は勇敢に戦うセルビア人奴隷から選抜されたという。彼等を高給を約束し、宮殿内に兵舎を造って住まわせた。そして最新装備などは彼等に優先で渡され、さながら新装備実験部隊の様相だった。イェニチェリは待遇に満足し、オスマン帝国最強部隊になり、その力でスルタンをあらゆる危難から守った。

 しかしイェニチェリが高給を貰っても使い道が無かった。財産を得ても結婚出来なければ、相続も出来ない。最終的には帝国に没収されるだけだ。なのでイェニチェリは熱心に奴隷市場へ通い、『男の子』を買い求めた。男の子を強く育てて、イェニチェリに入れて、自分の地位を引き継がせる事に執心したのだ。財産は相続出来なくても、地位は活躍させれば引き継げる。よって、オスマン帝国では男の子の値段が暴騰したという。

 しかしイェニチェリは段々と増長していった。『特権は人を腐らす毒』である。イェニチェリは拡大の一途を辿り、各都市にも配備される様になる。そこでイェニチェリは裏社会の支配者の様な行動を取り、武力で人々を脅し、国民や商工ギルドから富を巻き上げる存在となっていく。当たり前だが、オスマン帝国の財政はイェニチェリが増える程に悪化した。

 しかし彼等はオスマン帝国の財政状況などお構いなし、給料の支払いが遅れればストライキした。彼等の権利を一つでも削ったり減らしたりすれば反乱を起こす。スルタンの宮殿内で。極めつけに、気に入らないスルタンが登極すると脅して退位させる。受け入れないスルタンは殺した。

 イェニチェリは結局、殲滅するしか解決策が無かった。イェニチェリは4世紀に渡って存在し、最終的にオスマン帝国を『瀕死の重病人』と諸国から言われるまでに追い込んだのである。


(これが野良田の戦いに使われた徴兵方法か)


 浅井長政はこの徴兵方法を野良田の戦いに使用した。

 普通の徴兵方法は対象者を城ないし広い場所に集める。武器防具腰兵糧の受け渡しをして、部隊を編成する。その後、隊列を組んで順番に行軍を始める。と、手順がいろいろあって、都合一週間程掛かる。

 飯尾家は部隊を編成して周辺で治安維持任務に就いている為、約半数近くは武装と腰兵糧の追加だけで出撃可能である。それでも集結と受け渡しで3日掛かる計算だ。

 これを浅井長政はたったの一日にして見せた。武器防具は予め配布し、日時と集合場所だけ決める。そして集まった軍勢を編成もせず、そのまま突撃した。結果として、六角軍は城包囲中に突如として現れた浅井長政率いる8千に敗れた。

 宗珊は考える。この一領具足に似た徴兵方法は一朝一夕で出来るものではない。しかし、浅井長政が当主となってから野良田の戦いまで、大して時間は経過していない筈だ。ならば、どうやって民衆を手懐けたのか?予想となってしまうが、やはり浅井長政の理想に民衆が惹き付けられたのか、と思う。

 しかしかなりリスクを伴う徴兵方法だと思う。これは民衆が『自発的』に日時と集合場所を守る事に期待しなくてはならない。


(浅井長政はこんな賭けで戦うのか?いや、野良田の戦いは彼にとって試金石となったのか)


 浅井長政は試したのだ、江北の民衆を。本当に自分の理想に付いて来てくれるのかを。

 もし、失敗に終わったのなら、長政は六角承禎に土下座したであろう。その後は覇気を失い、理想を封印し、浅井家を繋ぐだけの存在となったかも知れない。

 しかし、そうはならなかった。江北の民衆はこれ以上なく、長政に応えた。それが長政の理想実現の後押しとなり、彼の自信と拘りとなった。

 そう、野良田の戦いとは浅井長政にとって理想実現の試金石となっていたのである。これが無ければ、今頃の長政は織田家に擦り寄り、浅井家の存続だけを考える人物になっていた可能性すらある。


(救いなのは、長政が戦いの後に武器を回収している事か。まだ理性があると言えるな)


 一領具足と違う点は、浅井長政が戦いの後に武器防具を回収しているところだ。彼はここでも民衆を見ていた。民衆がただ利益を得たいだけなのか、本気で自分の理想に付いて来るのか。そして浅井家は民衆から八割近い武器防具を回収出来た。この八割という数字は浅井長政を大いに満足させた。戦場で失った分を考えれば、九割以上と言えるからだ。

 だからこそ、浅井長政は確信に到った。江北の民衆は自分の理想に付いて来てくれるのだと。これが長政が恒興に敗けても頑なな理由でもある。


「よく報せてくれた、二人共。直ぐに対策を取ろう」


「「ははっ」」


 宗珊は二人を労い、対策をすると約束した。二人には宗珊から評価を加点しておかねばとも思う。もちろん藤堂高則の事も恒興に報告しておく。

 宗珊は少しだけ浅井長政を憐れに思う。若過ぎたのだ、才能を発揮し出すのが早い。それが不幸と言える。宗珊自身、昔の自分は馬鹿だったと思う事はよくある。たとえ突出した才能を持って産まれたとしても、他の育っていない部分に隙がある事が多いのだ。故に平均的に才能を育てていく事が重要となる。人、それを『経験』と言う。

 人の心は移ろうものだ。長政も頭では分かっているだろうが、理解は出来ていない。江北の民衆は彼から離れ始めている。小豪族達の動きはその始まりだからだ。

 オスマン帝国が出たので、あまり知られていないかも知れない人物のご紹介ニャ。その人はロクサーヌという女性です。ロクサーヌとは名前ではなく、『ルーシ地方の女性』という意味の愛称です。ルーシ地方はだいたいロシア西部を指します。ロシアという国家はビザンツ帝国滅亡後に成立しますので、この頃はまだモスクワ大公国ですニャ。彼女の元の名前はアレクサンドラらしいのですが、オスマン帝国での名前は分かっていませんニャー。ロクセラーナ(ヒュッレム・スルタン)も同じ意味となります。


 15世紀のオスマン帝国。ロクサーヌ、彼女は奴隷身分であったという。類稀な美貌の持ち主だったと言われる。オスマン帝国の人々は言う、「ロクサーヌは我儘だ」と。オスマン帝国スルタン・メフメト2世の妻の一人となり、ロクサーヌは早速にも『我儘』を言った。

「水浴びがしたい」

「宮殿にハマム(浴場)があるんだから、すればいいじゃないか」

「違うの。町中でも水浴びしたいの」

「何で?」

「私、北方の生まれだから暑さに弱いの。だから直ぐに汗まみれになっちゃう。それで町でも直ぐに汗が流せる様にって」

「宮殿に帰ってくればいいだろ」

「それまで汗まみれで居ろっての?まさか、そういう性癖持ちな訳?」

「んな訳ない!」

「ハマム(浴場)造ってくれなきゃ、スルタンは汗臭い人が好きって言いふらしちゃう」

「ちょっと待て!俺に変な性癖を付けるな!分かった、造ってやるから。で、何処に造ればいいんだ?」

「いっぱい」

「は?」

「私が行きそうな場所に全部」

「幾つ造れと言ってるんだ、お前は?」

「何よ、スルタンでしょ。出来るでしょ」

「くっ、分かったよ。ラーラ(先生)に頼んでみるよ」

 ロクサーヌの我儘を聞いたメフメト2世はこの事をハリル・パシャに相談する事にした。ハリル・パシャはオスマン帝国の大宰相でメフメト2世からラーラ(先生)と呼ばれる存在だった。その実、オスマン帝国の実質的支配者と言っても過言ではない勢力を誇っていた。

「それで、スルタンはロクサーヌの要求を受け入れた訳ですか」

「済まない、ラーラ。引き受けてくれないか?」

「承りました。しかし、ロクサーヌに我儘を控える様にお伝えください」

「分かった。言っておく」

 メフメト2世はハリル・パシャに頭が上がらなかった。というのも、彼自身、スルタン位に就くのは2回目で、1回目はハリル・パシャの讒言で引きずり降ろされていた。そんな事をされてもメフメト2世はハリル・パシャを排除出来ないし、ラーラと呼ばなければならなかった。

 このオスマン帝国はもう衰退期に入っており、スルタンに力が無い斜陽の時代に入っていた。これを支えているのがハリル・パシャと言える為、彼を排除出来ないでいた。やろうとすれば、排除されるのはメフメト2世の方なのは明白だったのだ。

 あのオスマン帝国が斜陽期に入っている訳がないと思うかも知れないが、メフメト2世の曽祖父であるバヤズィト1世のやらかしが大きいのだ。このバヤズィト1世は自分の武力を誇り、あのティムールにケンカを売ったのである。結果、バヤズィト1世は完膚無きまでにボコボコにされた上に、ティムールに捕えられた。そして捕虜のまま、死去するとか役満クラスの退場をかました。その後のオスマン帝国は4分割して骨肉の争いに発展するなど、混乱に次ぐ混乱だったのだ。その中で頭角を現したのがハリル・パシャという訳だ。

 こうしてハリル・パシャは大臣達とメフメト2世の前から退席した。そして溜め息をつく。

「ロクサーヌ、あの頭の軽いバカ女め。余計な仕事を」

「まったくですな。全部手抜き工事で造りますかな?」

「やめい。そんな事をしたら、あのバカ女がギャンギャン吠えて来るわ。五月蠅いったらないぞ」

「では全力で造るので?」

「調度品や装飾品の類は一切無しだ。数を造るのだから贅沢言うなと言ってやる。その代わり、設備はキッチリ造る。これで文句は言わせん」

「成程、それなら費用は抑えられますな」

 こうしてオスマン帝国のあちらこちらでハマム建設が始まった。それはロクサーヌが水浴びする為の施設であると、民衆に周知されていた。人々は嘆息した。オスマン帝国が上手くいっていないのに、こんな無駄な建築を大量にするとは。我々はあのロクサーヌの贅沢に滅ぼされるのかも知れないとまで。

 そしてロクサーヌのハマムが出来上がると人々は驚愕する事になる。そこには『女性専用浴場』の看板がある。いや、浴場の前に文字が付け足されていた。『公衆』と。そう、このハマムは『女性専用公衆浴場』だったのだ。この事を知ったオスマン帝国の全女性は歓喜した。女性なら誰でも利用出来る事を意味しているからだ。しかも利用料金まで安く、庶民でも気軽に使える値段であった。もちろん、料金設定したのはロクサーヌだ。

 オスマン帝国の入浴事情はかなり悪かった。ハマム自体はイスラム世界に昔から存在する。公衆浴場もある。これらをローマ帝国から受け継いでいるからだ。だが、オスマン帝国はイスラム諸国からはかなり遅れた新興国であり、キリスト教国家と接しているので武装等を優先し、ハマムなどの文化施設の導入は富裕層に限られていた。だから、一般女性の水浴び状況がかなり悪い。夫以外の男性に肌を見せる事を宗教的に忌避しているため、男性の居ない場所で水浴びせねばならない。そんな場所は限られるし、混雑するのは必至。人気のない森などで泉を探して入浴し、病気になる女性が後を絶たない。着の身着のまま水を被って風邪をひく。もう身体を洗わないという女性まで出る始末。こんな状況の中、ロクサーヌは『女性専用公衆浴場』をアホではないかと思える程、各地に建てたのだ。その数は1000を超えたという。オスマン帝国の全女性が歓喜するのも仕方がない話なのだ。(次のスルタンの頃になると公衆浴場の数は1万を超えたらしい)

 ロクサーヌは知っていたのだ。当たり前だ。彼女は奴隷からスタートして這い上がって来た人物なのだから。オスマン帝国の女性入浴事情が劣悪な事くらい体験済だ。

 そしてハマムはある者達も救う事になる。それは少女奴隷だ。少年奴隷がいるのなら少女奴隷もいる。しかし、少年奴隷の価格が暴騰する中、少女奴隷は最低値でしか取引されなかった。使い道が無いのだ。奴隷商人すら渋い顔をするのだ。売れ残り、『処分』までいってしまう少女も居たという。奴隷市場の衛生環境の悪さから、だいたいはその前に病死したらしい。

 だが、ロクサーヌのハマムは男子禁制。従業員も女性でなければならない。という訳で、ロクサーヌは売れ残りの少女奴隷を大人数で買い、ハマムに配置した。ハマムには年端のいかない少女でも出来る仕事が多いからだ。ハマムは指導員一人、少女4、5人で十分に運営出来たという。因みに一つのハマムの客数定員は10名以下となっている。待機所は広いので、そこが婦人達の歓談の場となった。

 ロクサーヌのハマムは連日賑わった。そこには不定期にロクサーヌも普通にやって来たという。婦人達は皆、ロクサーヌに礼を言う。すると彼女はいつもこう返すのだ。

「このハマムはスルタンがみんなの為に建てたの」と。

 この言葉に婦人達は皆、涙を流してメフメト2世に感謝したという。スルタンは私達の事も考えてくれる優しい人だと。設備がしっかりとしているハマムは富裕層の女性達も通う様になり、身分の上下のない女性の憩いの場になっていく。そして井戸端の様に女性達は世間話に花を咲かせたという。これが恐ろしい効果を生み出した。

 ハマムが出来てから数か月経過した宮殿にて。

 ハリル・パシャは追い詰められていた。もう宮殿の何処もかしこも彼に対する敵意で満たされていた。宮殿の兵士、親衛隊、官吏、将軍に至るまでほとんどの者がメフメト2世派閥になっていたのだ。何故だ?メフメト2世は派閥作りなどしていなかった。そんな動きがあれば、自分が直ぐに分かる。もうハリル・パシャは何が起こっているのか理解出来なかった。

 答えはロクサーヌのハマムだった。ロクサーヌはハマヌを建て、彼女自身が通う事でメフメト2世の評判を上げていた。ハリル・パシャの密偵もハマムの内部まではノーマークだった。家に帰った婦人達はメフメト2世の事を夫や子供に伝えていた。これが恐ろしい程に広がっていた。

 多くの家臣達もハリル・パシャは専横はどうにかしたい案件だった。しかし、メフメト2世はスルタン即位に際して、競合相手になりそうな兄弟を殺していた。その為、多くの家臣から敬遠されていたのだ。

 しかし、妻や母があまりにもメフメト2世を推すので、信じてみようと家臣達から近付いて行った。その結果、メフメト2世派閥はあっという間に出来上がり、ハリル・パシャを追い詰めたのだ。

 ハリル・パシャは『あの頭の軽いバカ女』に知らぬ間に追い詰められていたのだ。彼は最期までソレに気付く事は出来なかった。

 こうしてメフメト2世はスルタンの絶対権力を確立し、後にコンスタンティノープルを攻略。ビザンツ帝国にトドメを刺し、オスマン帝国の最盛期を導く『征服王』となった。

 ロクサーヌは宝石や装飾品には大して興味を示さなかったという。だが、彼女は我儘を言ってはいろいろな施設をスルタンに建てさせた。そしていつも『公衆』と付け加えるのだ。

 その様子を見てオスマン帝国の人々は笑う「ロクサーヌは我儘だ」と。


 あくまで逸話となりますニャー。でもおかしい、メフメト2世にはイェニチェリが付いている筈だ。と思った貴方、甘いですニャ。そのイェニチェリの給料を管轄しているのはハリル・パシャです。当然、ハリル・パシャが給料を止め、イェニチェリはメフメト2世の命令を聞かずストライキ。「若いスルタンではイェニチェリを従えるのは無理です」とハリル・パシャが父親で先代スルタンのムラト2世に讒言しました。それでメフメト2世は一度退位させられた訳ですニャ。

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― 新着の感想 ―
長宗我部の代名詞の一領具足がこんな実態だったとは(汗) なんとなく屯田兵みたいなものか〜ぐらいの認識だったよ。そりゃ江戸期を通して徹底的に下士として締めつけるよな。 ニャー様の浅井対策は順調だったよう…
メフメト2世の話を知りませんでした。何時の世も洋の東西変わらず家庭に入り妻や母になった女性は強い。 長政くん、残念ながら、織田家の方が豊かになれるという即物的な利益があるんだ。 何時の世も理想は利益…
イェニチェリに似てるなーと思ったら案の定出てきた マムルークも同じくだったよねえ 実は徳川政権下の武士階級も時が過ぎるにつれてそれに近くなってくるんだけど
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