大樹が朽ち果てる日 其の壱
近江国某所料亭。
この日、近江各所で商売をする者達の会合が行われた。上座に仰祇屋仁兵衛が座り、その両側に並ぶ様に近江商人の大店が6人、下座には30人くらいの中小商人が座っている。これは近江商人の仰祇屋派閥の会合である。ここで近々の課題や対応を話し合う。そして大方針を決めて、全ての近江商人が方針に沿って動く事になる。
仰祇屋派閥は近江商人の中でも最大派閥だった。現在は唯一無二の派閥となってしまった。つまり近江商人は仰祇屋派閥だけとなっている訳だ。
仰祇屋仁兵衛は近江商人を完全支配している……のなら良かったのだが、現実は違う。近江商人の他派閥は全て『織田信長』の下に収まっているからだ。織田信長は安土で楽市楽座を始めた。楽座という程、自由ではないが、出店許可自体は簡単に出る。それでいて楽市は本当で、織田家への税金は無税である。これに近江商人他派閥の中小商人は飛び付いた。派閥構成員を引き抜かれた大店達は派閥自体を保てなくなった。そこに声を掛けたのが天王寺屋助五郎らが中心となっている堺会合衆だ。彼等は繋がりのある近江商人に「織田信長に紹介する」と言って誘った。結果、近江商人は仰祇屋派閥を除いて織田信長傘下に入ってしまったのだ。織田信長は近江商人他派閥を支配し近江国各所に影響力を拡大した。なので現在の近江商人は『仰祇屋派閥VS織田信長派閥+堺会合衆(援護)』という状況になっている。
この状況だけでも十分に苦しい仰祇屋派閥だが、更に状況が悪化する要因が現れた。その対策を話し合う為に今回の会合が開かれた。
「織田家は安土の楽市楽座で積極的に永楽銭を放出している様だ」
「マズイのではないか?都商人達が喜んで安土に来ていると聞く」
「安土は近江国だぞ!都商人が何故商えるんだ!」
「織田信長が許可を出しているからだ。ヤツは商人の慣習など、まるで無視してくる。我等の大敵たる都商人と織田信長が結びつくのか。おのれぇ……」
仰祇屋派閥の大店の主人達が喧々諤々と騒ぐ。織田信長と都商人を目の敵にして非難している。彼等の状況を更に悪化させる要因。それは『都商人の参戦』である。彼等が盛んに織田信長への接近を強めているのだ。
発端は本願寺による米大量売却であった。山城国、近江国、摂津国を中心に起こった事件で、都商人、近江商人、堺会合衆が直接の被害者となった。この事態に近江商人と堺会合衆は周辺国に米を売り捌く事で損害を減らせた。しかし都商人には売り捌ける場所が無かった。このままでは破産だ、多くの都商人は絶体絶命の危機に陥った。そこに織田信長が米を通常相場の8割で無制限に買うと触れを出した。これなら損は出るが致命傷にはならないと、都商人は飛び付いた。ここから都商人は織田信長に注目し始めた。
そして信長は最近になって、安土の楽市楽座を中心に永楽銭を放出している。市場では永楽銭不足が表面化して、全ての商人が頭を悩ませている時にコレである。もちろん都商人は飛び付いた。彼等は盛んに楽市楽座への進出を図っている。
「都商人が織田信長に接近しているのは目に見えている。織田信長は幕臣ではないが朝臣ではある。故に幕府への献金が減って、朝廷への献金が増えている。これは都商人が織田信長に働き掛けるなら幕臣より公家の方が有効と見たからだ」
「つまり都商人は織田信長を背景に力を伸ばすつもりか。そして織田信長も都商人と結び、力を付けるのか、くっ……」
「都商人共めっ!どこまでも我らの邪魔をしてくれる!」
都商人は主に京の都で朝廷や幕府を取引相手にしている商人達の総称である。彼等は公家や幕臣に賄賂を出す事で政治的な影響力がある。自分達の権益を犯す者あらば、法令という武器を出させる事で対抗する。これでよく煮え湯を飲まされるのが近江商人である。まあ、隣という立地が原因なのだが。堺会合衆も隣ではあるが、彼等は元が都商人なので割と上手く付き合っている。都商人が公家と幕臣の何方を重視するかは時の情勢による。少し前までは公家に賄賂を出す者は居らず、幕臣にばかり贈っていた。朝廷には何の力も無く、幕府の力が有効だったからだ。しかし、織田信長が上洛してからというもの、朝廷が力を盛り返してきた。信長が段々と朝廷寄りの姿勢を顕わにしてきたからだ。自分に正直な都商人達は幕臣から公家にあっさりと乗り換えた。公家から信長に取り成して貰うのが有効と見たからだ。
これまで近江商人は都商人に対し、かなりの優勢だった。何しろ、幕府は応仁の乱以降は内部分裂ばかりで力が減退していたし、京の都もかなりの壊滅状態だった。朝廷は存在しているのが奇跡と言える程だ。近江商人は好機と言わんばかりに都商人に対して圧迫を強めた。これまでのお返しだとばかりに。直近の話だ、流石に彼等は忘れてなどいない筈だ。その都商人は織田信長の力を背景に反撃してくる事は容易に想像出来る。安土進出はその一環だろう。そして安土が賑わえば、織田信長の近江国に対する影響力が増すという悪夢だ。仰祇屋派閥の商人にとっては。
「仰祇屋さん、如何しますか?」
「うむ、織田信長がここまで厄介な相手だとはな。しかし安土における永楽銭の放出は見栄だろう。そのうち尽きる筈だ」
「そうでしょうな。既に五千貫近くの永楽銭をばら撒いたそうですが。よくもまあ、あれだけの永楽銭を隠し持っていたものですな」
彼等は知らない。熊野に三万貫を超える永楽銭が存在している事を。それ故、池田恒興は織田信長の許可の下、熊野別当・堀内氏虎に様々な公共事業を提案した。神宮湊を交易しやすく、船の発着しやすくする改修工事。蜜柑を湊に運びやすくする為の大幹道の工事。神宮川、那智川、太田川、古座川に対する堤防工事と灌漑水路工事など、多岐に渡る。これに対し、堀内氏虎は永楽銭で支払いを早々に済ませてしまった。……織田家は代金を既に貰ったので、何が何でも工事をやり遂げる義務が発生した。現在、織田信長の家臣である大谷作太郎長泰を監督として計画が進行している。大谷作太郎は大谷休伯の庶長子であり、信長から一字を貰って長泰と名乗っている。池田家から貸し出されたまま、とうとう信長の直臣となってしまった。父親である大谷休伯は出世したと喜んでいるが。それはさておき、信長の下には堀内氏虎が支払った代金と熊野の民衆から回収した資金、永楽銭二万貫近くが届いた。流石の信長でも良質な永楽銭二万貫は圧倒されたという。これを安土の楽市楽座に投入しているのだ。
「故に永楽銭集めは継続せねばなるまい。すべてはあの織田信長を倒す為だ。皆のより一層の努力を期待している」
「「「はい」」」
仰祇屋仁兵衛は安土の楽市楽座における永楽銭放出は信長の見栄だと決め付けた。信長も青色吐息で無理をしているに違いないと。ならば、何方が先に根を上げるかの我慢比べであると。彼は引き続き永楽銭を集める様に全員に指示を出す。
(まだ集めるのか、永楽銭を)
(もう全員、限界に近いのだが)
(いったい、いつまで続けるのか……)
しかし、ここに居並ぶ者達の胸中は複雑だった。これまでに仰祇屋派閥全体で一万貫近い永楽銭を集めた。しかし、この永楽銭は使わずに保管されているだけだった。織田信長を倒す為とはいえ、永楽銭を保管しているだけでは何の商売にもならないし、利益どころか永楽銭分の損しかない。故に全商家が限界に近かった。返事とは裏腹に、彼等の顔に明るさは無かった。
その時、下座の奥に座っていた一人が立ち上がる。
「い、いい加減にしてくれ!」
「東屋?」
その一人は東屋という仰祇屋派閥に属する商人だった。彼はその場に居る全員の注目を集め、捲し立てる。
「私は!商いがしたいんだ!商いたいんだ!戦争がしたいんじゃない!!織田信長と戦争なんて、アンタ一人でやってくれ!私はもうたくさんだ!!」
東屋は自分の心境を暴露した。商いがしたい、と。織田信長を倒す気など無い。そんなにやりたいなら自分だけでやれと、彼は言う。涙ながらに訴える、自分はもう付き合い切れないと。
それを聞いた仰祇屋仁兵衛は険しい表情になって、東屋を睨む。
「東屋。貴様ぁ……」
「東屋、何たる無礼な!」
「何が無礼だ!柳屋さんだって、もう限界だって愚痴ってたじゃないか!永楽銭を貯め込んだって、何の商売にもならんて!」
「そ、それは……」
仰祇屋仁兵衛が不機嫌になっているのに気付いた仰祇屋派閥の幹部といえる柳屋は東屋を咎める。しかし東屋は止まらない。柳屋が愚痴っていた事も暴露する。柳屋という大店でも、永楽銭を貯め込む行為はかなりキツかった。何しろ永楽銭を獲得するには当たり前だがお金が掛かる。というか、永楽銭自体がお金なのだが。だが貯め込んだ永楽銭は使えない。つまり稼いだお金を使えない様な状態に陥っている。商売はどんどんと細るばかりで、店の体力はガリガリと削られていく。この状況は仰祇屋派閥の商人全員が同じだ。
「私はもう嫌なんだ!織田家とは敵対するより、手を取って商売した方が絶対にいい!何でアンタの我儘に、私達まで付き合わされるんだ!」
この東屋の発言は全員が心の中に秘めている事だ。織田信長を倒す必要が何処にある?仰祇屋派閥以外の近江商人は彼の下に行って、この上なく商えている。かつては仰祇屋派閥の邪魔にならない様にこそこそと商うしか出来なかった彼等は今、織田信長の下でこの世の春と言わんばかりに商えている。羨ましい。自分もそうしたいんだ、と。何故、仰祇屋仁兵衛一人の考えで織田信長と敵対しなければならないのかと、東屋は主張している。
東屋はそこまで捲し立てて黙る。決死の覚悟での暴露に会場は静寂に包まれた。そして全員が固唾を飲んで、仰祇屋仁兵衛を見る。
「東屋、どうなるか分かっているんだろうな?」
「うう……」
仰祇屋仁兵衛は凄味を利かせて東屋を睨む。その迫力に東屋は呻いて後ずさる。彼は自分に逆らう者に容赦はしない。ありとあらゆる手段で相手を始末する。だから誰も彼に逆らえないのだ。昔から彼はそうやって近江商人の中でのし上がってきた。逆らった者達の末路は皆、悲惨なものだった。その記憶が有るから誰も彼に逆らえなかった。
その時、会場の襖がスパーンと開いて、男が一人入って来た。
「よう言うた、東屋はん」
「だ、誰だ!?」
「お前は……天王寺屋助五郎。何故、ここに居る!?」
「何故って、東屋はんに連れて来てもろただけやで」
入って来たのは天王寺屋助五郎。池田恒興を娘婿としている堺会合衆と津島会合衆に名前を連ねる男だ。助五郎は東屋と繋がりが有り、彼が仰祇屋仁兵衛から離れたいと相談してきたので、今回の会合に道案内して貰った訳だ。東屋の暴露は助五郎の後押しあってのものだった。つまり仰祇屋仁兵衛との手切れの決意表明という事だ。
仰祇屋仁兵衛は天王寺屋助五郎を仇敵の如く睨み付ける。
「こんな所に来て、ただで帰れると思っているのか?」
「出来るもんならやってみいや。なあ、甲賀衆の皆はん?」
ただでは帰さないと脅す仰祇屋仁兵衛だが、助五郎は微塵も揺るがない。やれるものならやってみろ、と冷静に返す。そして彼の後ろから三人の男が現れる。大柄で屈強そうな壮年の男が二人、老齢だが不気味な程の威圧感を放つ老人が一人。
「悪いが天王寺屋さんへの手出しは我々がさせんぞ」
「お前達は……」
「おやおや、ワシらの顔に覚えがありますかな?まあ、ワシらは甲賀の中でも手練れじゃからのう。ふぉふぉふぉ」
「昔は我らに山賊働きをさせとったからなぁ。こちらも忘れてなどおらんぞ、仰祇屋」
「ぐっ……」
彼等は甲賀衆でも名うての猛者で、仰祇屋仁兵衛でも顔を見知っている程の者達だ。その実力も把握している、そこら辺のゴロツキで勝てる訳がない。何しろ、仰祇屋仁兵衛自身が彼等を使って敵対者を始末していたのだから。自分とは無関係な山賊を装わせて。甲賀の物流を握られていた彼等は仰祇屋仁兵衛に逆らう事は死に直結していた。仰祇屋仁兵衛の鎖で雁字搦めにされていた甲賀は、ある猫男によって鎖を一刀両断され自由になった。そして今回、天王寺屋助五郎の護衛に雇われて、ここに来た訳だ。仕事は護衛なので、こちらからは手を出さないが、仕掛けられれば反撃する気満々である。
「外にもぎょうさん居るで。ワテが一人で来る訳あらへん。やる気ならやったるで?」
「……」
助五郎は用心深い。甲賀衆で雇った護衛は手練れ三人だけではない。この料亭の外には50人くらいの甲賀衆が配備されている。流石に近江商人の会合に行くのは虎口に飛び込む行為だ。しかし池田恒興によって甲賀衆は解放され、比叡山の悪僧は雲散霧消した。つまり仰祇屋仁兵衛にはもう使える武力があまり無いのである。雇えてもゴロツキ程度だ。甲賀衆が集まって来たので危険を感じて逃げたと思うが。
「皆はん、これで分かったやろ?この男に付いて行くのは破滅やで。そないなつまらん人生歩む為に商人になったんか?ちゃうやろ?商売を存分に楽しまんで何が商人や。東屋はんが勇気を見せた様に、皆はんも少しは勇気を出しなはれ」
助五郎は全員に呼び掛ける様に話す。これが彼の目的なのだ。恒興が仰祇屋仁兵衛から甲賀衆と悪僧を引き剝がした。そして会合の時を待っていたのだ。彼は仰祇屋仁兵衛への仕上げとして、仰祇屋派閥の商人を引き剥がしに来たのだ。
「見なはれ、仰祇屋には甲賀衆も叡山の悪僧も居らん。いったい何が怖いんや?今やったら、ワテが皆はんを信長様に紹介したるで。信長様から許可が出れば安土の楽市楽座で存分に商えるんや。安土で商いと永楽銭集め、皆はんはどっちがお好みや?」
助五郎は強調する。仰祇屋仁兵衛には甲賀を動かす力も無いし、比叡山の悪僧も消えた。ならば、いったい何が怖いのか?と。この男の言う事を聞く理由が何処にあるのか。全員に問い掛ける。商人達はそれぞれの顔を見合わす。かなり揺れている様だ。
助五郎はトドメを刺しに掛かる。安土で商売がしたいなら、自分が織田信長に紹介すると自信満々に約束する、と。このまま何の利益も無い永楽銭集めと安土の楽市楽座で商い、何方を選択するのかを突き付ける。
「本当に織田信長、あ、いや、信長様に紹介して貰えるので?」
「当然や。この天王寺屋助五郎、商売で嘘はあらへんで。信長様も安土で商う者がもっと欲しいんや。織田家の法令を守れば、許可なんて直ぐに出るわ」
「安土で……商売……」
「さ、皆はん行くで。この天王寺屋助五郎に付いて来なはれ」
助五郎に付いて行く事を選択した者は立ち上がった。下座に居た中小商人は全員、幹部の大店は三人だった。つまり仰祇屋仁兵衛の下に残ると決めたのは大店の三人となる。助五郎はその三人の顔を見る。それで理解した。その者達は前に天王寺屋と商売で争った者達だ。その中でも柳屋は最も梃子摺らされた。おそらく彼等は助五郎に許されないと思っているのだ。やれやれと思いながら、助五郎は柳屋に声を掛ける。
「……」
「柳屋はんは来んのか?」
「わ、私は前に天王寺屋さんと、その」
「それは別の商売の話や。今は関係あらへん。それにや、ワテを相手に出来るくらいの実力があらへんと、信長様に胸張って紹介でけへんわ。ええから来いや」
「……行く!私も連れてってくれ!」
「……」
天王寺屋と柳屋の争いは激しいもので、商人の間では有名だった。助五郎がブチギレていたと言われる程。その柳屋でさえ許される、その事で柳屋と一緒に残っていた大店の二人も立ち上がった。これで仰祇屋仁兵衛の下には誰も残っていない。助五郎はこれで目的達成だと、仰祇屋仁兵衛に振り返りニヤリと笑った。
「それじゃ、これでお暇しますよって、仰祇屋はん。せいぜい孤独の玉座に座っとったらええ」
「……」
仰祇屋仁兵衛は終始、無言だった。派閥に属する商人達を引き止める事も無く。無反応な仰祇屋仁兵衛の様を見て助五郎は勝負あったと感じた。漸く長きに渡る仰祇屋による近江商人の支配が終わり、織田信長の下で新しい近江商人が生まれるのだ。
あとは敦賀を押さえれば仰祇屋仁兵衛は終わる。そこは織田信長がやる事になるだろう。彼が敦賀を見逃すなど有り得ない。それ程、儲かる湊なのだから。
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天王寺屋助五郎は京の都の織田信長邸に来ていた。近江国から連れて来た商人達を信長に紹介していたのだ。それが終わって帰ろうとした時に、助五郎を待っている様に佇んでいる男を見掛ける。助五郎はその男に挨拶する。
「宗久はん、ご苦労様やな」
「助五郎はんも上手く行ったか。こっちは仰祇屋の番頭しか居らんかったで。顔真っ赤にして帰ったけどな」
待っていたのは堺会合衆のメンバーである納屋の主人、今井宗久であった。彼も今回の会合で別の場所に乗り込んで、仰祇屋派閥の商人を全て連れて来ていた。そこには仰祇屋の番頭しか居なかった様だ。まあ、当然だ。仰祇屋仁兵衛本人は助五郎の方に居たのだから。
「本命はワテの方やったわ。盛大にかましたったで。あ~、気持ちええ。これで仰祇屋仁兵衛も終わりやな」
「……うーん。どやろな」
「何や、宗久はん、歯切れ悪いなぁ」
これで仰祇屋仁兵衛も終わりだ、と笑う助五郎に対し、宗久はあまり賛同出来ない様だ。難しい顔をする宗久、助五郎はこれ以上何があるのかと不思議に思う。武力を失い、派閥も失った。あとは敦賀にある本店を押さえればトドメとなる。大した事はもう出来ない筈だ。
「あの仰祇屋仁兵衛には謎の部分があるんや。ワイでも調べ切れへんものが」
「宗久はんでも?何やそれ?」
「まずはあの男は仰祇屋の他にも商家を持っとるんや。近江国以外でも商う為やったり、非合法取引の隠れ蓑にしとると思うんやが、規模が不明や。何処まで手を延ばしとるのか判らへん」
「マジなんか。ワテはてっきり敦賀と近江国だけやと」
「仰祇屋本店と繋がりが無うてな。独立した商売をしとるみたいや。せやで追いきれへんのや」
「意味が分からへん。本店との繋がりが無いって、何の為に存在しとるんや」
仰祇屋仁兵衛が所有している商家は仰祇屋だけではないらしい。おそらくは近江国周辺以外で商う為にある。他には非合法な取引をする時の隠れ蓑として使っているのだろう。ただ、その規模が分かっていない。普通は仰祇屋本店の傘下にしておく物だが、どうやら繋がりが無く、今井宗久でも追えないらしい。繋がりが無いという事は、本店の利益に貢献していないという事だ。ならば何故、そんな商家を持っているのかという話になる。そして、その商家の規模と何処に食い込んでいるのかも不明だ。
「それともう一つ。仰祇屋仁兵衛には嫁が居らんのや。居た事も無い」
「それが謎なんか?」
「嫁が居らんちゅう事は子供も居らん。養子も貰うてない。つまり、仰祇屋に後継者が居らんのや」
「は?え?せやったらヤツは何の為に商売しとるんや?後継者問題なんぞ真っ先に解決せなあかんやろ」
更に仰祇屋仁兵衛には嫁が居ない。居た事も無い。実子も居ない。そして養子も居ない。つまり現在の仰祇屋には後継ぎが居ないのだ。ならば彼が仰祇屋の勢力を拡大する理由とは何か?という話になる。究極的な話だが、人が財産を築くのは全て、後の人の為だ。どれ程の巨万の富も死んだ人には無意味となる。だからそれを受け継ぐ子供を欲しがるものだ。
宗久と助五郎にも息子が居る。立派に育てようと思うし、出来る限りの富と勢力を引き継がせたいと願っている。だが仰祇屋仁兵衛は40代なのに後継者に興味がない。このままでは彼が死んだ後、仰祇屋はバラバラになって消えていく事になる。ならば今、彼が頑張っている理由とは何か?それがまったく読めないのだ。
「それが不気味なんや。ヤツは先の事をどう考えとんのか、まるで読めへん。警戒は怠るべきやないで」
「分かったで。婿殿にも伝えとくわ」
宗久の話に助五郎は少し身震いがした。仰祇屋仁兵衛は商人として有り得ない思考をしている。いや、大半の人々と違う思考といえる。こういう人間は別の思考ベクトルを持っている事がある。大半の人間に迎合しない、共感しない、受け入れない。所謂、マイノリティ(少数派)の持ち主だ。常識とは大半の人々が認めて、初めて常識となる。これを認めないので常識外れの手段も躊躇わない。世に『確信犯』と呼ばれる人物はこの傾向がある。自分こそ正義と信じて犯罪も厭わない人の事だ。彼等は自分が犯罪をしている等とは思っていない。常に自分が正義だと信じて何万人でも殺せる。それが『確信犯』である。
『確信犯』の代表といえばフランスのロベスピエールだ。彼は自分が正義であると信じて、人々を断頭台に送り続けた。女性も子供も。ロベスピエールの批判をちょっとでもすれば断頭台、生活が苦しいと口にすれば断頭台、王政を懐かしんでも断頭台である。政府を脅かす可能性がある言論に対し、ロベスピエールは断頭台で応えた。これでも彼は自分は正義であり、犯罪行為などしていないと胸を張っていたという。そのロベスピエールは権力者になる前は弁護士で、弱者貧者救済に全力を尽くし格安で弁護を引き受けていたという。18世紀では少数派で珍しい考え方の持ち主だった訳だ。
助五郎は仰祇屋仁兵衛が何をしでかすか、警戒する様に恒興に伝えようと思った。
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仰祇屋仁兵衛は夜になっても料亭の一室に居た。ずっと考えていたのだ。
「私から奪うのか。織田信長、天王寺屋助五郎、池田恒興」
彼は敵の名前をはっきりと口にする。近江国を奪おうとしている織田信長、近江商人を奪っていった天王寺屋助五郎、甲賀衆と悪僧を奪った池田恒興。
「させん。奪うのは私だ。これまでもそうしてきた。仰祇屋も敦賀も近江も」
仰祇屋仁兵衛は奪うのは敵ではなく自分だと言い聞かせる。これまでもそうしてきたのだから。仰祇屋を奪い、敦賀を奪い、近江国を奪ってみせた。
「ならば奪うのみだ。織田家も天王寺屋も犬山も。それだけの事だ」
これからもそうするだけだ。奪おうとする相手から全てを奪ってやる。信長からは織田家を、助五郎からは天王寺屋を、恒興からは犬山を。仰祇屋仁兵衛は料亭を出ると闇夜の中に消えた。
「大樹が朽ち果てる日」は基本的に敵側の動きとして、恒興くんの動きとは別に書きます。なので話の合間にちょいちょい挟まってきますニャー。仰祇屋仁兵衛さんが何を考えているのか?それは「大樹が朽ち果てる日 其の終わり」で明かす予定ですニャー。敦賀が信長さんに占領されて、朝倉家と浅井家が無くなった後になると思います。た、辿り着くまで長くなりそうだニャー……。