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戦国異聞 池田さん  作者: べくのすけ
一時の平穏編
224/239

お母さんは誤魔化せない

 池田恒興は筒井順慶の説得を完了して帰宅した。何となく疲れたので部屋で休もうかと考える。幸鶴丸やせんと遊ぶのもいいとも思う。とりあえずは自分の部屋に行ってから考えようと、恒興は玄関の引き戸を開けた。そこには恒興を待ち構える様に立っている彼の母親・養徳院桂昌が居た。


「おかえりなさい、恒興。それで小麦粉の件はどうなりますか?」


「……」

(信長様、しっかり母上に告げ口して(チクって)行ったニャー)


 開口一番、これである。何故、養徳院が小麦粉の件を知っているのか?可能性は織田信長が彼女に告げ口したからだろう。いや、それ以外は無い。おそらくは恒興が積極的に動かない恐れがあったので、養徳院からも促して貰おうと信長が依頼したのだと思われる。恒興は自分の退路が悉く潰されていく焦燥感に駆られる。


「恒興?」


「まあ、手段が無い訳ではありませんがニャ」


(もしかして母上は何で小麦粉が高いのか知らないのかニャー?これは母上を上回る機会か!)


 恒興はピーンと閃く。もしかしたら養徳院は小麦粉価格が高い理由を知らないのではないかと。まあ、普通は知らない筈だ。これは母親を上回るチャンスと恒興はほくそ笑んだ。


「母上は小麦粉が高い理由をご存知ですかニャー?」


「主に寺社荘園でしか大量に作らないからです。ほぼ寺社の専売品となっています故、高価なのです。恒興、母を試す真似はお止めなさい」


「これは失礼致しましたニャー」(知ってたか)


 養徳院はキッチリ知っていた。小麦粉とはほぼ寺社勢力の専売品となっている。小麦粉の製法は弘法大師・空海により民間にも知られている。しかし民間で小麦粉を製造する事は現実的ではなかった。民間は組織として脆弱で一村単位では量を作る事が困難だ。そして治安、小麦粉の様な儲かる品物を作れたなら、必ず強盗が来る。武家ならマシだが、山賊だったら村が壊滅する。結局、大規模寺社の様な組織力と防衛力が無ければ出来なかったのだ。


「しかし、この母にも理解出来ない事は有ります。何故、農民達は麦を積極的に育てないのでしょうか。高価なのは知っている筈です」


「母上が理解出来ないのも仕方がありませんニャ。その答えは『流通』だからです」


「流通ですか……」


「今の農民が生活雑貨や生活必需品を手に入れるには、決まった日に開かれる『市』以外にはありません。その市で農民は持ち物を銭に換金して買い物をするのですニャ。この『換金』が問題で『米』以外はしっかりとした価値を認められません」


 米が通貨の役割をしている理由がこの『市』に有る。農民は通常、『銭貨』を持っていない。稼ぐ手段も乏しい。しかし、市で買い物をする際には、必ず銭貨が必要になる。では、どうするのか?市には必ず両替商が居るので、農民がそこに物を持ち込んで銭貨に替えて貰うのだ。この両替商が曲者で、『米』以外は大した値を付けない。だから農民にとって『米』は通貨だと認識されているのだ。日の本中の農民が米ばかり作っているのは、『お金』を作っているに等しいからだ。


「米のみなのは何故ですか?」


「何でも買ってくれる商人が来る訳ではないからですニャ。普通、扱っていない物品の商路を持っている商人など居ません。だから麦を扱っていない商人にとって、麦はただのゴミです。二束三文でも不思議ではないですニャー。しかし、『米』の商路を持っていない商人は存在しません。そこらに米問屋が居るので、そこに持ち込めば解決です。相場で変動はするものの、米は安定した買取値がつく訳です」


「成る程、世の中はままなりませんね」


 両替商があらゆる物に値を付けない理由は『扱ってない物を持って来られても困る』である。一人二人くらいなら良いが、それが農民全てになったら面倒くさいの極致である。いったい何人の商人が価値判別に必要となるのか、想像を絶するだろう。それで市を開いていられるかという話だ。

 だが『米』は日の本古来からの主食であり、全土で生産されている。だからこそ価値換算が容易であり、重さで簡単に両替出来る。この利便性こそ『米は通貨』足らしめている。

 そして農民は基本的に銭貨を持ち帰らない。持って帰っても何も出来ないからだ。寧ろ、盗難強盗の危険だけが増える。なので、大半の農民は市での買い物が終わると銭貨を物に替える。これも米以外だと面倒くさい。例えば農民が大きな鹿肉を持ち込んだとする。帰りには買い物分を引いて返すという事になる。……両替商は肉を捌かねばならないのか?捌けない物はどうすればいいのか?これが米なら重さだけで判別出来る。買い物分だけを減らすなど余裕だ。だから両替商は基本的に『米』しか扱わないのである。米問屋は必ず町にあるので、米を扱っていない商人でも簡単に売り捌く事が可能という訳だ。

 一応ではあるが、米以外でも両替商が積極的に買い取る物は存在する。それは『布』である。古来から布はお金としても扱われた経緯があり、反物や着物はちゃんとした値段が付く。しかも価格の変動値が少ない優れ物で、絹はその最上位となる。恒興が犬山織に力を入れているのも、この評価額があるからだ。ただ布を作るには特殊な原料と技量と機材が必要なので農民が簡単に作れる訳ではない。だが、人間が着る服は必ず必要なので、大量生産出来ない戦国時代では布の価値は安定して高いという事だ。昭和時代頃まではその名残が残っていた。嫁に行く娘に着物を持たせるという風習。これは「困ったらお金に替えなさい」という意味だ。因みに恒興の正室である美代も結婚に際して西陣織の着物を持って来ている。


「『米』以外を買って貰うなら、特定の商人に来て貰う必要がありますニャー。例えば『熊野』です。彼の地では蜜柑栽培が盛んである為、信長様は津島の商人・大橋清兵衛殿に売買許可を与えました。特権ではありますが、彼なら蜜柑を活かせるし、卸売りの基盤を持っている為、蜜柑にしっかりとした価値を認める商人だからですニャ。特産品を作る村や漁村、猟師はそういう商人と契約している訳です。農民が麦を作って商人と交渉しろというのは、明らかに荷が勝ち過ぎています。だから農民にとって麦は片手間に作る救荒作物でしかない訳ですニャ」


 米以外を両替するなら特定の商人に来てもらう必要がある。特産品を生産する村はそういう特定の商人と契約して、その商人に市を開いてもらう訳だ。熊野はその典型例となる。恒興は誠仁親王を連れて熊野に赴いた際に、熊野が蜜柑の産地である事を知った。その売買契約を取り付けて、津島の商人・大橋清兵衛に任せ、織田信長も認めた。それは大橋清兵衛が蜜柑を活用し、行き渡らせる商路を持ち、卸売りを仕切れる大店だからだ。そして織田信長の従兄弟でもある。その彼が織田家からの認可状を持って熊野で市を開く。そして蜜柑や海産物を買い取り、熊野の民衆は日の本の品を手に入れられる訳だ。まあ、それで熊野に大量の永楽銭が有る事を発見してしてしまったのだが。熊野での一番人気商品は米と絹織物である。

 農民は麦を作っていない訳ではない。ほぼ、全ての農村で麦は作られている。何故か?それは麦が粟と並ぶ『救荒作物』だからだ。麦の生命力は雑草並みで、米とは収穫時期も違う。その為、天候不順や災害などで米が不作でも、麦や粟で生き延びる事が可能になる。また、農民は米を消費する事を嫌がる傾向にある。なので、米より粒の大きい麦で嵩増しして食事量を確保する事も頻繁にある。

 麦の他の利用方法としては『脱税』である。米が年貢(税)となっている農村では米俵に米を詰めて納める。この米俵の中の外側、又は口の部分にだけ米を詰めて、残りには麦を詰めるのだ。こうすると米を出さないで済むし、麦は大粒なので嵩増しにもピッタリという訳だ。まあ、悪知恵の働くヤツは何処にでも居るものだ。

 だからと言って、武士もやられっぱなしではない。中に麦が詰められていないか探る為に『米刺』という道具で中身を抜き取る検査をする様になった。ランダムに米俵を選んで、細長いスコップの様な金具(又は竹製)を直接突き刺す。引き抜くと米俵の中心部分くらいの米を取り出せる訳だ。これで米の品質を検査する。麦が出て来た際には、やらかした農民に罰を与える事になる。


「では、どうして寺社荘園では麦を専業で作る所があるのですか?」


「寺社の本山本社が独自の流通経路を持っているからですニャ。寺社それぞれでお抱えの商人が居て、ちゃんとした価値で取引している筈です。末寺が本山に看板料を払うのは、この寺社流通を使う為ですニャ。母上の尼寺も同じだと思いますが」


「その通りです。母は貴方がそこまで知っている事に驚いていますが」


 何故、寺社荘園では麦を専門で作る場所が存在しているのか?この理由は寺社の本社本山が独自にお抱え商人と契約しており、いろいろな品物の商路を持っているからだ。だから寺社荘園で麦を作って、それを大規模寺社に集めて小麦粉に製粉、それから商人に卸売りする事が可能なのである。つまり寺社は小麦粉という商品になるまで自分達で製造しているのである。大規模寺社は工場の側面も持っているという事だ。これは小麦粉に限った話ではない。末寺や尼寺が宗派を名乗るには本山に高い看板料を支払わなければならない。だが看板料を支払えば本山が持つ商路や工場を使えるという特典が付いてくる訳だ。これが末寺や尼寺の経営基盤にもなるので、宗旨変えがあまり起こらない要因でもある。


「そんな硬直化した流通に一石を投じる大名が現れました。織田信長様ですニャ。信長様は商人の動きを活発化させる為に様々な施策を打っています。街道整備、水軍川並衆の優遇、楽市楽座。農民が特産品を作ってもちゃんとした価値で買い取りしてもらえる、又は自分で売り捌ける環境を作ろうと模索しているのですニャ。こうする事で商業の更なる活発化を促し取引量を増大させようという訳ですニャ」


「信長様から始まったのですね。母が知らないのも当たり前でしたか」


「問題はまだまだ山積みですが、少しづつでも進んではいますニャ」


 こと流通という観点から見た大名はただの原料集荷業者に過ぎない。農民から年貢を取り立てて商人に渡しているだけだ。つまり流通は商人と国人衆の努力のみとなっていた。戦国時代までは。

 戦国時代からは流通に気を遣う大名が現れ始めた。まずは武田信玄である。甲斐国信濃国で大規模な街道工事を行い、行軍路の整備を行った。この道は流通にも大きな恩恵をもたらしたが、場所が山国だった為に効果は限定的となった。まあ、上杉軍が北信濃に侵攻して来ても、武田軍の方が先に到着しているのだが。因みに川中島まで武田軍の方が上杉軍より倍の距離がある。

 そして織田信長である。彼は流通が多大な利益を上げる事を父親である織田信秀からとことん学んだ。信秀は津島、熱田の商人と連携し、正室の土田御前を迎えた事で萱場の舟流通を支配した。これにより織田家はかなりの金持ちとなり、傭兵と武器を買う事で尾張国の第一人者となった。信長はこれを踏襲する事が出来た。木曽三川川並衆を味方に付け、東山道と尾張国を結ぶ為に大規模な街道工事をした。流通の為にまずは道を整備したのだ。

 次は流通そのものへのアプローチだ。商人を優遇し、関所を悉く叩き壊した。水軍衆を優遇し、海商路も開拓した。楽市楽座を整備して小商人でも商売をし易くした。

 そして治安。戦に際して兵士達の暴虐、所謂『乱取り』を厳しく禁じ、行った者は死罪とした。占領地の産業を破壊されるのをとことんまで嫌った結果だ。また池田恒興の重臣である飯尾敏宗の治安維持能力を高く評価し、一宮に新しい城を与える事にした。これは一宮を拠点に周辺の治安を維持せよという事で、範囲はかなりエグイ。岐阜、津島、清須、熱田、犬山と南美濃から西尾張という範囲で、飯尾敏宗は頭を抱えたいだろう。

 今の大名で流通に気を遣っているこの二者のみとなる。ネックとなるのはやはり街道工事で巨額の投資を必要とするからだ。他は昔からある水運頼りとなっている。


「それで小麦粉の件はどうするのですか?」


「小麦粉の問題は需要が高く供給が少ないから、価格高騰している訳ですニャ。なら、供給量を増やせばいいのです。丁度、小牧の開発がありますので、麦を専業で作る村を造る予定を立てます。その麦を全て、ニャーが買い取り小麦粉に製粉してから市場に投入しますニャー」


 小麦粉の話は簡単だ。需要を供給が満たしていないだけなのだから、供給量を増やせばいい。だから恒興はコレを小牧の開発と絡める事を考えている。麦を専業で作る村を造る。麦は恒興が相場に応じて買い取り、犬山で小麦粉に製粉する。一部を風土古都に安価で卸し、残りは商人に卸す。これで順慶はラーメンを風土古都に出せるし、小麦粉の市場相場も下がっていくだろう。年数は少々、掛かる見込みではあるが。


「……フム」


(考えてみれば、小麦粉の価格を下げる事でいろいろな効果が見込めるニャー。特に言えば寺社への更なる攻撃手段として。今の小麦粉価格で寺社は暴利を貪っている訳だ。これが通常価格まで落ちれば、油場銭とまではいかなくとも、かなりの打撃になる。比叡山延暦寺や石山本願寺に痛手となる筈だニャー。少しヤル気が出た、真面目に計画を練るか)


 ふと、恒興は思う。小麦粉の市場相場を下げる事は寺社への更なる攻撃に使えるのではないか、と。そう、あの油場銭と同じ様に。

 大規模寺社は全国の末寺から麦を集めて小麦粉にしてから売る事で多大な利益を出している。小麦粉価格が落ちれば、その様な暴利は貪れなくなる訳だ。つまり比叡山延暦寺や石山本願寺を更に困窮させる事が可能になる。

 順慶が小麦粉を欲しがったせいで、恒興が小麦粉価格を下げなければならなくなった。しかし、災い転じて福と為す。これを利用して寺社への更なる一撃にすればよい。恒興はニヤリと悪い顔になる。それを養徳院はジッと見ていた。


「何か思い付きましたか、恒興?」


「いえ、小麦粉でいろいろと出来る事があると思っただけでしてニャー」


「当ててあげましょうか?」


「いや、いくら母上でも無理ではニャいですか?」


「小麦粉の価格を下げる効果は風土古都での利用、小麦粉料理技術の発展と風土古都への転用、信長様の風評、商人の流通促進、そして寺社の暴利剥奪。こんなところかしら」


「……母上、ニャーの思考を読むの止めて貰ってもいいですかニャー……」


「貴方はいったい何兎を狙っているのかしら。困った子ね、うふふ」


 養徳院は小麦粉の価格を下げる効果を的確に指摘した。風土古都での利用は今回の本題となるので当たり前だ。それに小麦粉は身近な食材の地位を確立し、これから民間での料理開発が進むだろう。もし良い物が出来たのなら、それも風土古都に活かせる。そして小麦粉価格を民間レベルにした織田信長は民衆から評価される筈だ。それは民衆の暮らしが良くなっている証左になるからだ。やはり『食』に対して民衆はかなり敏感なのだから。商人も小麦粉が安くなれば取引量が増える。価格が落ちた分だけ取引量が増える為、利益的には変わらない。しかし流通量は増えていくので、取引量の方が爆増して利益も増える事が予想出来る。小麦粉は民衆が使いたいのに使える状態ではなかったのだから、需要はかなり高いだろう。

 最後に『寺社による暴利剥奪』だ。小麦粉価格が高止まりしている事を利用して、寺社はかなりの利益を上乗せして商人に売っている。彼等に相場を下げて適正価格にしよう、などという心積もりは欠片も無い。利益はギリギリまで取る主義であり、「嫌なら買わなくていい」という態度である。だから商人は小麦粉を薄利で高額販売しなければならない状況だ。小麦粉価格引き下げは寺社の小麦粉が一切売れなくなる事を意味している。こうなると彼等は小麦粉の値下げをせねばならない。つまり利益分が削られていくのだ。暴利はどんどん消えていく。

 養徳院は恒興の考えを完全に看破していた。恒興の背筋がうすら寒くなるくらいに。養徳院は何羽の兎を狙っているのかと微笑んでいる。


「でも小麦粉の相場下落は困っちゃう(・・・・・)わね。尼寺の荘園で麦を作っている所もありますから」


 養徳院にしては珍しく『困っちゃう』などと可愛らしい表現を使う。これに恒興はビクッとしてしまう。普段とは違う口調、これは養徳院がわざと言葉を強調する時に発するからだ。今回、彼女が強調したいのは『尼寺の荘園で麦を作っている』となる。

 これで恒興は気付かされる。小麦粉は油場銭とは違う事に。油場銭は取り立ての際にかなりの人手を要する。油場銭を自ら納めに来る者など居ないので、多人数の取立人を確保する必要がある。その取立人が比叡山延暦寺では『悪僧』だった訳だ。したがって油場銭は大規模寺社でしか扱えなかった。だから恒興はその最大手だった比叡山延暦寺を狙い撃ちに出来た。

 しかし小麦粉は違う。これはただの市場相場価格だ。寺社が吊り上げている訳ではなく、供給量が足りないから高止まりしているだけだ。それを利用して寺社が儲けているのは事実ではあるが。これは麦を生産して本山に送るだけなので、地方の末寺や尼寺でも麦を作る所は有る。寺社流通を使う為、宗派本山への看板料と手数料が発生する。なので地方の末寺や尼寺は暴利が貪れる訳ではないが、この利益で何とか存続している所は多いだろう。

 つまり恒興が小麦粉価格を下げる事は養徳院が世話をしている尼寺を幾つか潰す事になるだろう。孤児になった女児達を恒興が尼寺に預けたにも関わらず、だ。それを笑顔で引き受けてくれた尼さんも預けた女児達も飢え殺す事になる。

 女児の引き取り先は本当に少ない。いや、無い。男児は割と多い。商人は幼少から教育をするので丁稚に欲しがるし、武家も雑色として欲しがる。例えば、飯尾敏宗も前に何人かの男児を引き取った。この子らを育てて、将来的に嫡男・茂助の雑色にする為だ。才能があるなら従者(武士)に取り立てる事も視野に入れている。しかし女児は雑色にも従者にも丁稚にもなれないので、需要が極端に少ない。女中枠が空いている事も少ないし、それなら成人女性を雇った方が良い。女児を育てる必要は無い。

 女児を積極的に引き取るといえば『歩き巫女』が該当する。彼女らは仲間を増やす為、そして『売る』為に女児を引き取って育てる。おい、待てと思うかも知れない。遊郭に売るとかではなく、歩き巫女は子供に恵まれない武家に斡旋するのだ。これは『白拍子』がやっていた事だ。そもそも白拍子は歩き巫女が前身とされている。

 だが、そんな都合良く歩き巫女が居る訳ではない。だから恒興は女児の引き取り先に困った。その引き取り先となったのが尼寺である。つまり恒興は自分が頼った尼寺を自らの手で潰そうとしていた訳だ。

 恒興は恐る恐る、養徳院の顔を見る。そこにはいつもの柔らかい笑みを浮かべた彼女が居る。しかし、目が笑っていない。あと、黒いオーラが漏れ出ている。


(あ、コレ、返答を間違うと爆発するヤツだニャー。どうしよう)


 恒興の背筋がビリビリ震えている。絶えず危険信号を送り続けている。それはそうだろう。養徳院は自分が世話している尼寺を自分の息子に潰されようとしているのだから。しかし彼女も小麦粉価格引き下げは順慶の為にも必須であると理解している。だから反対まではしないし、怒りも抑えている。養徳院が言いたいのは「後の影響をちゃんと考えましたか?」という事だ。

 恒興は過去にも同じ様な失敗をしている。それは『人買い商人の取り締まり』である。取り締まり自体は織田信長の命令でもあるし、恒興も刺青隊を組織して徹底的に取り締まった。だが、その影響までは考えて無かった。その為、人買い商人に子供を売れなくなった困窮した農村が養えない子供を捨てたのだ。それが小牧山城で浮浪児となっていた。小牧山城に来る前に国人衆などに拾われた子供もいるだろうが、かなりの数の子供達が山の中で死んだだろう。これは後の影響を考えていなかった恒興の罪である。それを繰り返そうとしているのかと、養徳院は指摘しているのだ。

 恒興は頭をフル回転させる。小麦粉価格を下げても尼寺が困窮しない様にする方法を。

 大規模寺社は自分達で何とかするから良いとして。末寺は本山から優遇されているし、門前市を持っている事が多いのでそれなりに大丈夫だろう。問題はやはり尼寺だ。荘園も少ないし、門前市もほぼ無い。女性僧兵は怖がられないので門前市を維持出来ないからだ。そして男尊女卑の考えも有り、本山も尼寺より末寺を優先しがちである。つまり尼寺に麦以外の稼ぎを与える必要がある。女性でも出来る稼ぎを。恒興は自分の中で考えを構築していく。


「あ、あのですね、母上。実は、ニャーはですね、アレですよ、アレ!桃や栗の苗木を買って来ようと思っていてですニャー!」


「桃や栗、ですか?」


「そうなんです。小牧で育てようかニャー、と思っていたのですが、どうですかニャ?母上の尼寺で麦の代わりに桃や栗を育てるというのは?」


 恒興が辿り着いた答え。それは尼寺の荘園で麦ではなく桃や栗を育てるという案だ。小麦粉の価格が下がれば、麦の価格も落ちて行く。麦を本山に買い取って貰っても利益が減った分、麦の利益も減る。いや、本山が少しでも利益を取る為に原料価格を大幅に下げる可能性がある。こうなると麦は作るだけ赤字状態に陥る。ならば麦の生産を止めて他の作物を作れば良い。しかし、ただ麦の生産を止めて新しい作物を育てよ、だけでは尼寺が困る。というか、そんな資金力がある訳がない。

 そこで恒興が桃や栗の苗木を買って来て、尼寺に寄進するという手法を取る。あとは尼寺で世話して実を収穫するという事だ。


「それは良い考えですね。しかし、本山が桃や栗を扱っている話は聞きませんね」


「そこは大橋清兵衛殿に直接買い取って貰いましょう。大橋殿は最近、桃や栗が手に入らないと嘆いていましたので。ニャーとしましても風土古都の甘味事業を強化しようと思っていまして」


 問題は桃や栗が稼ぎになるのか?だろう。これは津島の大店である大橋清兵衛に買い取って貰う。尾張国の果実甘味と言えば彼だ。恒興は彼と茶会をした際に、話を聞いていた。大橋清兵衛は結構遠くまで桃や栗を買い付けに行っている。しかし戦乱の影響で桃や栗の収穫量が落ち続けている。終いには、村ごと消滅しているパターンすらあるという。嘆く清兵衛を見て、恒興は大変だニャーとしか、その時は思わなかった。

 恒興はこれを利用した。怒られない為に。尼寺は桃や栗を育てて稼ぎを得る。大橋清兵衛は遠くに行かなくても桃や栗が手に入る。輸送費などを考えれば、買い取り価格に上乗せも容易だろう。そこは恒興からお願いする予定だ。あとは恒興が苗木を買ってくれば完了となる。


「大橋殿傘下の甘味処は風土古都でも人気ですものね。桃や栗が実を付けるまではどうしましょうか?」


「桃栗三年と言いますし、足りないのならニャーが支援しますニャー。あとは尼寺の今年の麦はニャーが全部買います」


 桃栗三年柿八年という言葉がある。この言葉が示す通り、桃と栗は実を付けるまで三年程掛かるとされている。その間の尼寺は如何にして生活するのか?という事だが、これは恒興が支援する。麦畑を潰して桃栗園にするので、実が成るまでは稼ぎが0な訳だ。流石に支援無しに存続不可能である。一応、尼寺が今年育てる麦は恒興が高値で買い取る予定だが、それでも三年は無理だと見ている。


「そこまでして貰っても良いのかしら?」


「もちろんですニャー。織田家の基幹産業となりつつある風土古都の一角を担って頂く訳ですし。支援しなければニャーが信長様から怒られちゃいますよ。ニャーも頑張りますから!」


 風土古都は織田家の基幹産業となりつつある。これは恒興も認めざるを得ない。順慶が考案した天麩羅蕎麦や天丼、親子丼だけではない。津島会合衆の商人達も加わり、甘味処から味噌田楽の様な串焼きなど、一品物はだいぶ増えている。今後も店舗品数を増やす必要がある訳で、主食、一品物、甘味、どれも強化していく必要がある。

 もし今、風土古都が廃れていく気配など見せたら、恒興は信長から何れ程怒られるか。想像するだに怖い。だからこそ、恒興は最大限、努力すると養徳院に力強く宣言する。


「そういう事なら喜んで引き受けましょう。尼寺の説得は母に任せて貰いますよ。風土古都事業に絡めるのですから、喜ぶとは思いますが」


「はい、よろしくお願いしますニャー」(何とか正解を選べたかニャー。あ、危ニャかった)


 養徳院は満面の笑みとなって、尼寺への説得は任せて欲しいと言う。この表情を見た恒興は、自分が薄氷を割らずに進めた事を安堵した。どうやら自分は正解を選び取ったのだと。直ぐに大橋清兵衛に話を通して、苗木を手に入れる算段を付けなければと恒興は思った。

自分が大切にしている物を壊されたら、そりゃ怒りますよニャー。養徳院さんもちゃんとした人間ですからニャー。


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― 新着の感想 ―
ネコ侍が尼寺の麦を買い取るって半分はママンが怖いからだニャー!?
特定の層に影響のでる経済政策は、どこまで影響があるのか、保証をどこまでするのかの見極めがとっても重要。領地の統治者として母上様はニャー様よりも格上ですよね〜。間髪入れずにクギを刺しにくるという。 この…
>今の世で流通に気を遣っている大名 この世界線の武田さんはもう壊滅してたような……
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