順慶、織田信長と邂逅す 其の壱
犬山池田邸。
池田恒興は織田信長の伴として犬山に帰還した。今回の帰還は短期的なもので、名目上は濃尾勢の現状把握となっている。その為、家老の林佐渡が岐阜城に来て信長に報告する事になっている。信長はその目的地である岐阜城をスルーして犬山へと足を運んだ。信長の真の目的、『筒井順慶と面会する』を果たす為に。一回、岐阜城に顔を見せた方が良くないかな?と思いつつも、恒興は池田邸に信長を招き入れる。池田邸では恒興の母親である養徳院桂昌が待っていて、信長に挨拶をする。
「ようこそお越し下さいました、信長様」
「おう、邪魔するぜ、養徳院」
「急の御来訪、何か御座いましたのでしょうか?」
「何、筒井殿に会いに来たんだ。オレの婿になるんだし、顔合わせを早くしたいと思ってな」
「それは良う御座いました。報せは出しておきましたので、順慶殿も待っている事でしょう」
「流石は養徳院、話が早いぜ。早速、行ってくるか」
養徳院は信長の来訪理由を予め把握していた。当然だ、息子である恒興が伝馬宿を使って早馬を出したからだ。報せを受けた養徳院は信長が来るタイミングで乃恵と乃々を順慶屋敷に向かわせていた。普通なら事前に報せるべきだが、そうすると順慶は逃げるかも知れないと養徳院は見ていた。なので抜き打ち気味に報せた。
早速、順慶との会見に赴く信長。その後ろを付いて行く恒興。その恒興を養徳院は呼び止める。
「恒興」
「はい。何かありましたかニャー、母上?」
「順慶殿の従者である乃恵と乃々を私の手習い子としました。二人には秀子のお世話係もやって貰います」
養徳院は順慶の従者として働いている乃恵と乃々の姉妹を自分の生徒にしたと恒興に報告した。普段から養徳院は誰かを生徒にした場合、恒興に報告などしない。それは養徳院の一存のみで決まる。なのに今回に限って、養徳院は恒興に報告した。ここに恒興は強烈な違和感を感じる。
(あの二人に手習いを?秀子様のお世話も?何故……そうか!母上は順慶の逃げ道を完全に塞ぐつもりか。そこに手を打つとは、流石は母上だニャー)
恒興は養徳院の考えを一瞬で看破した。それは攻城戦に似たり。養徳院は順慶という本丸を一気に制圧するのではなく、外堀を徐々に埋めていく手法を選択したのだ。本丸をいきなり狙うと逃げられる可能性が高くなる。というか、順慶は逃走する。マジで。恒興も危うく順慶に逃げられる所だった。先行した飯尾敏宗が捕捉したので、何とか逃さずに済んだくらいだ。順慶が逃げれる場所は筒井家か興福寺か。筒井家は信長が手を回した筈なので論外だが、興福寺はマズイ。しかし犬山に居る順慶が大和国興福寺まで行くには、結構な旅路になる。となれば、順慶が逃げる条件には乃恵や乃々の家族を連れて行く事が入る。順慶に生活力が無いからだ。
だから養徳院は乃恵と乃々を生徒にしたのだ。現在の学の無い彼女達は、順慶が逃げるとなれば盲目的に付いて行く。だが、知識教養を身に付けると、順慶の行動が道理に反したものだと理解する様になる。ならば彼女達は順慶を止める側になる事が期待出来る。養徳院に通報も有るだろう。
そして二人は秀子のお世話もする。となれば、二人は秀子に対してかなり親身になるだろう。順慶の逃走は秀子を不幸にする事くらい、直ぐに理解る様になる筈だ。仲が深まれば、二人は秀子を不幸にしない様に動いてくれると思われる。
つまり養徳院は順慶の逃走の絶対条件となっている乃恵と乃々を教育して、逆に足枷にしようという謀略を仕掛けているのだ。この謀略の利点は順慶が逃走しない限り、露見する事が無い所だ。
「了解しましたニャー。家中に周知します」
(ニャーのやるべき事は順慶を説得して時間を稼ぐ事か。母上が二人の教育を完了するまで。そもそもアイツが逃げなきゃいいんだが、母上が手を打ったって事は可能性が有ると見たのかニャー)
養徳院がこの様な対策を打ったという事は、順慶に逃走の可能性が有ると見たからなのだ。織田家の強制力、筒井家の強制力を以てしても、順慶は逃走に及ぶ。この見解は正しい。恒興も逃げられかけたのだから。戦国時代の常識が備わっていない為か、順慶は時折、こちらの想定を越えてくる事がある。大和国攻略戦で順慶は家臣も兵士も置き去りにして、単身で興福寺に逃げ込もうとした。普通の大名は家臣や兵士を護衛に引き連れて移動するものだ。これは恒興も予想外で、飯尾敏宗が捕捉出来たのは奇跡に近い。
とりあえずは順慶を逃さない為に、恒興から彼を説得する事だ。嘘さえ無ければ、何を言っても良いだろう。結果として、順慶が逃げずに秀子と結婚まで行けば最上。最悪でも、乃恵と乃々の二人が教養を身に付けるまで、時間を稼ぐ事が求められる。養徳院は言外に、ここまでの意味を含ませている。今の恒興なら読めると思っているからだ。
「よろしくお願いしますね。信長様、犬山でゆっくりしていって下さい」
「そうしたいのは山々だが、忙しくてよ。筒井殿と会ったら京の都にとんぼ返りだぜ」
「そうなのですか。それは残念ですね」
「すまねぇな。京の都に戻る前に、岐阜城で佐渡にも会わにゃならんし。時間が無いから、筒井殿と会ってくるぜ」
「はい、行ってらっしゃいませ」
信長はまだまだ忙しい。何とか予定を前倒しにこなして犬山まで来たが、それでも自由に出来る時間には限りがある。濃尾勢の内政状況を確認するという名目で出て来たので、岐阜城に行かねばならない。報告の為に家老の林佐渡が来るからだ。
そう言って信長は順慶屋敷に赴く。恒興は後ろに続き、養徳院は信長を見送った。
「何の話だったんだ?さっきのは?」
「母上が新しい手習い子を引き受けたって話ですニャー」
「はー、相変わらず手広くやってんな、養徳院は。ま、女に学は要らねぇとか言うアホが多いからな、武士ってヤツは。妻に教養があった方が話が面白いだろうに」
「ですニャー」
順慶屋敷に行く途中、信長は恒興に質問した。先程の養徳院の言葉が気になったからだ。恒興は養徳院が新しい生徒を引き受けた、とだけ説明した。その根底に有る謀略は伏せて。謀略は知る人間が少なければ少ない程に良いからだ。
養徳院が女子に教育を施すのは昔からだ。故に信長も特に気にしない。それは養徳院の趣味の様なものだし、信長自身、女性が教養を身に着けるのは好ましいと考えている。武士の中には女性が学問など生意気だと憤る者が多い。これも戦国時代の男尊女卑なのだろう。信長はそういう武士を見て、損な生き方をしているなと思うのみだ。近しい人ならいろんな話が出来た方が為になるだろうにと。考えてみれば、信長の妻達は全員、養徳院の生徒だったりする。帰蝶の様に嫁いでから生徒になった者、牧の方の様に元々生徒だった者も居る。全ての生徒が池田邸に来れる訳ではないので、養徳院は尾張国各地の尼寺を支援して、場所を借りているのだ。ここで織田家における礼儀作法を学ぶ為、養徳院が教える学問は織田家女性陣のスタンダードになっている。これが強固な『奥様ネットワーク』となり、織田家のあらゆる情報が養徳院に集まるようになった。いつの間にこうなったのかと、恒興は戦慄を感じる。
「養徳院に文句言うヤツがいるなら、オレに言え。面白い事にしてやるぜ」
「母上に面と向かって文句言える輩なんて居ませんニャー。というか、ニャーがただでは置きませんから」
「ハハハ、そらそーか」
(今世の母上はニャんか前世より出娑張りな感じがする。前世と何が違うのか。そうか、違うのはニャーか)
養徳院自体は何も変わってはいない筈だ。しかし、今世の彼女は盛んに前に出てきている感じがある。とはいえ、織田家全体ではなく、あくまで池田家のみの話である。それ以外(羽柴家など)の場合は必ず事前に恒興が呼び出される。
前世との違いは池田恒興の立場だ。前世の恒興が犬山城主になったのは、姉川の戦いの後で1570年の事だ。それに比べて、今世で恒興は10年程早く犬山城主となった。だから養徳院は母親として、恒興の権力をある程度行使出来る様になった。また恒興が10年を短縮する程に名声と功績を獲得した事も大きい。これにより恒興は実力的に織田家第二位と見做される程になった。誰も彼も恒興を無視は出来ない、そんな存在に成長した。故に織田家の隅々まで、恒興は手を伸ばす事が可能になった。これを利用して恒興はいろいろな家臣に手を貸して、織田信長の覇業達成の時間短縮に取り組んでいる。
恒興にとっては全て信長の為だけに行っている。しかし手伝って貰った他の家臣からしてみれば、恒興は誰もやりたがらない事を率先してやる有難い人物に見えるだろう。そして、そこには確かな『縁』が結ばれる。この『縁』を養徳院は使える位置に居る。前世の恒興には無かった『縁』、これが最大の違いではないのかと恒興は思う。
(前世の若いニャーは母上の忠告を殆ど聞かなかったから。たぶん呆れたんだろうニャ、母上は次第に何も言わなくなった)
前世の池田恒興は完全な武士であり、武功で主君の役に立つべきと考えていた。それ以外は些事、と言い切る程に。実際はそれ以外の方が大事であり、恒興の考え方は明らかに一兵卒のそれだ。そんな若き恒興に養徳院は何回も諭したが、恒興は自分が正しいと意固地になって聞き入れる事はなかった。自分が池田家当主なのだから、母親が口を出すべきではないとさえ。そして次第に養徳院は恒興に忠告する事も少なくなっていった。
(結局、母上の言う事は正しかったんだよニャ。若いニャーはそれを聞かず失敗して七転八倒し藻掻き足搔き、信長様にも呆れられつつ手伝って貰って、城持ちになって漸く家臣の有難さを知った。はあ、昔の自分が嫌になるニャー)
若き日の恒興は失敗ばかりだった。養徳院に忠告されていたのに、意固地になって突き進んだ結果だ。失敗を繰り返しては信長が呆れつつも助けて何とかする。養徳院にも信長にも何度、溜め息をつかれたか。恒興はそれを挽回するためには武功しかないと考えた。そして繰り返すのだ。
そんな恒興が変わったのは犬山城主になってからだ。犬山10万石、信長がかなり整備してから城主になったので楽勝、という事はなく、やる事が煩雑で多い。直ぐに恒興はパンク状態になってしまった。それを家臣達は仕事を分けて、それぞれで仕事をこなしていく事で、犬山の内政を保持した。ここに来て漸くにも恒興は家臣の有難さを思い知った。年齢にして40代になろうとしていた彼は『良将・池田恒興』の道を辿り始めたのだ。ただ、この頃には羽柴秀吉、明智光秀、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益辺りとはかなり水を空けられた状態であった。恒興が転んでいる間に彼等はどんどん進んで行ったからだ。
今世の恒興はこの記憶を全て持ち越した。そもそも池田恒興は織田信長の乳兄弟であり、信長の信頼は最初からMAX。とんでもないロケットスタートを切れる位置に居る。新参者の羽柴秀吉、明智光秀、滝川一益、信長に嫌われていた柴田勝家、しがらみの多い丹羽長秀より余程有利だったのだ。その状態で前世の記憶、50年の人生経験、発現した謀略力を合わせれば織田家第二位の実力者にもなろうというものだ。
発現した謀略力によって、母親である養徳院がかなりの謀略力を有している事も理解した。養徳院は元々、いろいろと言う性格だったが、恒興が話を聞かないので失望して言わない様になっていったのだ。今世の恒興は話を聞くし、意図も直ぐに理解する力が有る。だから養徳院がかなり出れる地盤があるという事なのだ、と恒興は考える。人生経験とは大きな武器なのだなと、今更の様に恒興は感じた。
この一連の話の後に『宇佐山城の戦い』を始める予定ですニャー。戦争の時間だニャー。