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戦国異聞 池田さん  作者: べくのすけ
一時の平穏編
220/239

立太子の儀式

 京の都。

 この日、織田信長は禁裏に参内した。用件は御禁料を誤って制圧した事を謝罪する為だ。家臣がした事とはいえ、主君である信長にも責任は有るからだ。池田恒興は信長の伴として一緒に参内した。恒興は官位も低い従六位上である為、正親町帝の前までは出ない。という訳で、主君である織田信長を見送った後、恒興はある部屋に向かった。せっかくなので、恒興の上司に当たる上野守に会う事にしたのだ。既に予約は入れてある。

 その上野守とは正親町帝の嫡男である誠仁親王。上野国、常陸国、上総国は親王任国である為、最高位の守には皇族しかなれない規則がある。なので恒興は上野守の下にある上野介に任官した。恒興は上野守である誠仁親王の家臣となる。役職上だが。

 許可を得て部屋に入ると、上座に整った装束を身に纏った少年が座っている。その少年、誠仁親王は恒興を見ると嬉しそうな顔をした。恒興は深々と礼を取り、誠仁親王に挨拶した。


「池田上野介恒興、罷り越しました。御久振りに御座いますニャー、殿下」


「おお、上野介。よく来てくれた」


 誠仁親王は恒興の挨拶が終わるのを待ってから応える。主君は家臣に対して、家臣からの挨拶が終わるまで待つのが暗黙の了解である。主君から話を始めるのははしたないと考えられているからだ。主従でない場合でも身分の上下はあるので気を付ける必要がある。対等な関係である場合は気にする必要はない。これで刃傷沙汰が有り得るので気を付けられたし。

 誠仁親王の上には正親町帝しか居ない為、どんな高位の公卿でも恒興と同じ様に挨拶している筈だ。


「此度は織田宰相の参内を説得してくれたと聞いた。ご苦労であった」


「はっ、勿体ない御言葉、忝のう御座いますニャ」


 誠仁親王は織田信長が御禁料押領について謝罪に来た事を喜んでいる。彼としても朝廷と信長の関係はかなり気になる案件なのだろう。


「公家の間で、今回の件は宰相の叛意ではないか、などと噂する者も居た。その様な者達は私から叱り付けておいたから安心するがよい」


「御心遣い、有難き幸せに御座いますニャ」


 今回の御禁料押領問題は織田信長の朝廷に対する叛意を示している、などと面白おかしく脚色して噂を流布する公家が居た様だ。それを聞き付けるや、誠仁親王はその公家達を叱りに行った模様。たぶん、木っ端公家なので問題は無いだろうが、火中の栗を拾う真似は控えて欲しいと思う恒興である。

 それはさておき、誠仁親王は信長に心を寄せている様なので、少し安心する。熊野旅行がそんなに嬉しかったのか、と予想する。恒興としては熊野別当の堀内氏虎を表へ出す為に誠仁親王を利用した訳で、少し申し訳ない気持ちになる。実際は熊野旅行の際に織田家の実力の一端を目の当たりにしたからなのだが。


「そなたの尽力もあり、新たな油税が朝廷に納められている。上手く機能している様で安心している」


「はっ、此方も不正などが無き様、監視を強化していきますニャー」


(ちゃんと国庫に納まってるのか。ニャんか意外に感じるニャー。そういえば朝廷って不正撲滅には(いにしえ)から取り組んでたっけ)


 人が集まる組織には必ず不正が起こる。それを蔓延させない事が重要となる訳で、0には出来ないが減らす努力はしなければならない。

 朝廷の不正防止が始まったのは中大兄皇子による『乙巳の変(いっしのへん)』からだ。中大兄皇子は蘇我入鹿を討ち、母親の皇極天皇を廃位とした。次代の天皇となったのは、皇極天皇の弟で中大兄皇子の叔父である孝徳天皇だ。

 中大兄皇子が天皇にならなかったのは2つの問題があるからだ。一つは年齢、天皇位は30歳以上でなければ就けないという暗黙の了解が存在していた。中大兄皇子は乙巳の変時点で20歳だった。もう一つの問題は皇太子。天皇は即位と同時に皇太子を設定しなければならなかった。しかし中大兄皇子に皇太子になれる息子は居なかった。このまま即位すると皇太子には弟や親戚を置かなければならない。兄弟親族相続を止めたかった中大兄皇子は時間稼ぎの為に、叔父に皇位を渡して自身は皇太子となった。

 孝徳天皇は理想高く潔癖な人物であったという。その彼は不正に勤しむ蘇我一族や官吏達を忌ま忌ましく思っていた。だから乙巳の変で中大兄皇子を支援していた。彼は天皇に即位すると早速、不正官吏達を処罰した。また、民衆の中に不正をする者がいると聞けば処罰した。蘇我氏時代まで当たり前の様に不正が出来たのに、いきなり出来なくなった。官吏や民衆は殊の外、孝徳天皇を恨んだという。江戸時代における田沼時代から松平時代への移り変わりに似ている。これを冷ややかに見ていたのが中大兄皇子で、人々は皇太子の彼に期待を寄せる様になった。中大兄皇子も不正撲滅は賛成だったが、急激な改革は軋轢(あつれき)しか生まないと学んだ。

 その後、中大兄皇子が難波京から去ると、全ての官吏役人も続き、孝徳天皇は一人残されたという。

 次の天皇は斉明天皇。中大兄皇子の母親で皇極天皇の重祚となる。中大兄皇子はまたも皇太子となった。30歳問題はクリアしたのだが、皇太子問題がクリア出来ていなかった。

 斉明天皇時代は無意味な公共事業を乱発した事が判っている。その工事跡が現代で発掘されており、何の意味がある工事なんだ?と専門家が首を捻っている。これは実験であると推測される。これまでは有力豪族の同意無しに権力を振るう事が出来なかった天皇が、初めて天皇というだけで権力を振るう事が出来る。日本の『絶対王権』の確立である。おそらくは天皇の意思だけで事を進めるとどうなるかを、中大兄皇子が見たかったのだろう。結果として、不満は有るものの中大兄皇子の母親という事で、彼の武力が使える斉明天皇に逆らう者は皆無だった。こうして中大兄皇子は武力の重要性を学んだ。

 そして斉明天皇が崩御し中大兄皇子が『天智天皇』として即位した。彼は百済国の法を参考にし、大和朝廷を改革していった。不正撲滅は緩やかに、武力は前面に押し出して。こうして天智天皇は盤石な朝廷を築き上げたのだ。……のなら良かったのだが、皇太子問題はまったく解決しなかった。こんな時だけ、神は彼を嘲笑う。産まれど産まれど、子供は女の子ばかり。男の子が産まれても、母親の格が低い為に天皇不適格。ようやく天皇適格な男子が一人だけ産まれたが、3歳で夭折してしまった。結果として、天智天皇は弟の大海人皇子を皇太子にせざるを得ず、これが『壬申の乱(じんしんのらん)』へと繋がる。

 因みに天智天皇がかなり気にしていた即位30歳問題と皇太子問題だが、その彼の娘がブッ壊した。「次の天皇は私の孫!はい、決定。異論は認めないわ!若いって?誰かが補佐すればいいでしょうが!とりあえず藤原不比等で。皇太子?14歳に子供が居ると思うの!?常識で考えなさい!保留よ、保留!」……以上、持統天皇の有り難い御言葉でした。


「私はそなたに詫びねばならない」


「はい?何故ですかニャー?」


 突然、誠仁親王は申し訳なさそうな顔をする。これには恒興の方が焦る。何か重大事があったのかと、彼の話を待つ。


「そなたに連れられ、私は熊野に行く事が出来た。その際に熊野の名所を巡り、沢山の詩を詠んだ」


「見事な詩の数々で御座いましたニャー」


 誠仁親王は恒興に連れられ、海路から熊野へと入った。熊野神宮の湊で堀内氏虎に迎えられた誠仁親王は熊野三山の速玉大社、本宮大社、那智大社と巡った。移動日→予備日→大社で儀式→休息日→移動日と、こんな感じのスケジュールだった。予備日は儀式の予習復習で自由ではないが、休息日は完全に自由だった。この休息日に誠仁親王は熊野の名所を巡って詩を詠んでいた様だ。


「その詩を帝にも聞いて貰ったのだがな」


「はっ、陛下も御堪能あそばした事でしょうニャ」


「……し過ぎたやも知れぬ。詩を聞いた後、帝は凄い形相になっていてな。次の日には近臣らと『立太子の儀式』について話していたのだ」


「気のお早い事ですニャー……」


 誠仁親王が熊野で詠んだ詩の数々を聞いて、正親町帝は物凄い形相になっていたという。正親町帝自身、旅行した事が無い。誠仁親王の詩は熊野の情景が頭の中に映る程に見事な物。(恒興も聴いた)息子には良い家臣が付いて、熊野旅行まで企画してくれる。何故、自分には何も無いのか?天皇だからだ。天皇だから浮いた話の一つも出て来ない。早く上皇になりたい!という感情が爆発したらしい。

 いや、立太子の儀式をやったとしても、上皇になれるのは10年くらい先の話なんだが。出来る事は前倒しでやりたい気分にでもなったのだろうか。


「私としては、もう少し朝廷の財政を立て直してからだと考えていたのだが。現段階では織田宰相の援助が無ければ不可能だ」


「成る程。それで殿下は乗り気ではないのですニャ?」


「うむ、その通りだ。他の公家達は織田宰相が資金を出すのは当たり前と言うが、それで良いのかと、な」


 誠仁親王は渋い顔をしている。公家達は織田信長の都合は無視して資金を出させるべきと言う。果たして、それが人として正しいのか?と誠仁親王は疑問に思うのだ。そんな事を繰り返していれば、織田信長に朝廷が見捨てられる日が来るのではないかと、彼は危惧している。


(殿下は信長様の事を(おもんぱか)っておられるのニャー。有り難い事だニャ。金ばかりせびり取ろうとする公家共に、殿下の爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだ)


 誠仁親王が大半の公家達と違う感性を持っている事に感心する恒興。人は成長の過程で、周りと思考を合わせるものだ。しかし誠仁親王は周りの思考を理解した上で、自分の意見をしっかり持っている。周りに流されない意志の持ち主だと言える。他の公家達は誠仁親王の爪の垢を飲めと、恒興は強く思う。


(しかし、今回の話はマズイ。立太子の儀式は早かれ遅かれ、やらねばならない。それは織田家主導(・・・・・)でなければ困るニャー。うかうかしてると、他の大名が出て来る可能性も生じる。織田家と朝廷の関係を正親町帝だけで終わらす訳にはいかニャい。殿下もしっかりとお世話させて頂かないと)


 とはいえ、今回は問題が有る。それは誠仁親王の世話は織田家が一手に引き受けたい、独占したいという事なのだ。誠仁親王が織田信長に気を遣うのは有り難いとして、このまま行くと立太子の儀式は先送りになる。時間を置いてしまうと、他の大名が入る余地が生まれてしまう。そうなると誠仁親王は織田家だけの負担とならずに済むと安堵するかも知れない。それでは織田家が独占(・・・・・・)出来ないから、恒興が困るのだ。


(殿下、我々は資金を出してはいますが、別の場所から別の利益をちゃんと持って行ってますニャー。なので要らぬ気遣いという事だが、それを素直に伝えても不快になるかもニャー。しかして、織田家主導でやって貰わねば、こちらが困る。ふーむ、どう説得したものかニャー。よし、こうしよう)


 織田家は朝廷から貰った物でキッチリ利益を出している。朝廷とは別の場所で別の形で。『油税』などその最たる例だ。油場銭を朝廷から廃止させる事で、織田家は新しい油税を仕切れる事になった。油税の利益の2割は朝廷に税金として納めているが、8割は織田信長の懐に入っている訳だ。その信長から家臣の給料や諸経費が出ているが、それでも彼はウハウハに儲けている。こういう権利を独占したいから、朝廷との関係は重要事項である。

 という訳で、恒興は考える。誠仁親王が納得した上で、織田家が立太子の儀式を独占する説得を。


「殿下は織田宰相にばかり資金負担をさせるのは気が引ける、とお言いなのですニャ。ならば、立太子の儀式の費用、この池田上野介にお任せ下さいニャー」


「……いや、それは結局、織田家が負担する事に変わりないのだが」


「実質はそうでありましょうニャー。しかし『建前』は違うのです。殿下は『上野守』であり、ニャーはその部下である『上野介』です。つまりはこの池田上野介恒興は殿下の家臣の一人に御座います。家臣が主君の為に尽くすなど当たり前ではないですかニャ」


 恒興は信長に代わり、自分が儀式の費用を出すと進言する。織田家当主の信長ではなく、織田家臣の恒興が負担する。それは織田家負担と何が変わるのか?と誠仁親王は首を傾げる。

 確かに織田家が資金を負担する事に変わりはない。しかし、信長と恒興では立場が違う。一番重要なのは、誠仁親王の家臣か否か。これにおいて、信長と恒興の立場はまったく違う。誠仁親王は上野守であり、池田恒興はその部下である上野介なのだ。つまり建前上、恒興は誠仁親王の家臣の一人となっている。少なくとも、周りはそう見ている。


「それは確かにそうなのだが、しかし」


「『建前』がそうである以上、庶人はそう思うものですニャー。庶人は当たり前を求めるものです。当たり前の人生、当たり前の生活、当たり前の世の中。そして庶人は殿下に当たり前の主君を求めるのですニャ。つまり、殿下は人々から『当たり前の主君たれ』と願われている訳です」


「……」


「では『当たり前の主君』とは?それは自分の意志をハッキリと持ち、家臣を良く用いて実現する者。それが民衆の為にもなれば『名君』と呼ばれるでしょうニャ。『名君』が『帝』になった、これに庶人は安堵を覚える事でしょう。ならば、まずはこの池田上野介を用いて下さいニャー」


 こうして恒興は少しづつ話題の中心をすり替える。立太子の儀式の費用をどうするのかという問題を、誠仁親王の主君としての資質問題へと移して行った。主君は家臣を使いこなす事が求められるという論調で、自分を用いよと恒興は主張する。

 この少年主君は理解力が高い。恒興はそう見ている。ならば今、自分に求められているのが、朝廷の財政問題より主君としての資質問題だと理解出来る筈だ。誠仁親王は途中から黙り、視線を恒興に向けている。そして少し考え込んでから言葉を発する。


「私に必要なのは主君としての評価か。返す言葉も無い。流石は上野介だ」


「はっ、恐縮で御座いますニャ」


「ならば、立太子の儀式については、そなたに任せよう。仕切るのは山科権大納言卿故、彼と話し合って欲しい。もちろんだが、私に出来る事なら言うが良いだろう」


「はい、承りましたニャー。山科卿と協力し、滞り無く進めます」


 誠仁親王は理解した。自分が考えなければならないのは、資金の事ではない。その様な些事は自分に任せよと恒興は言うのだ。

 そもそも誠仁親王一人で資金を稼ぐ事は出来ない。結局、恒興の様なありとあらゆる家臣を抱え、世間に広い影響力が有る人物にやらせる事となる。ならば、そのまま恒興に任せるのが早いし理由もある、という結論になる。そして恒興が立太子の儀式に掛かる資金を工面したならば、それを命じた誠仁親王の主君としての評価も上がるという算段だ。

 儀式を仕切るのは山科権大納言言継となる様だ。これは話が早いと恒興はほくそ笑む。


(よしよし、これで立太子の儀式も織田家主導になったニャー。時間を置くと、別の大名が出てくるかも知れんし、早目にやるが吉だ。ニャハハ、ニャーに掛かれば殿下の説得もこんなもんよ。……ん?)


 上手く行った、恒興の心の中は欲望全開だ。誠仁親王と恒興では人生経験が圧倒的に違う。誠仁親王は聡明なれど、やはり11歳の少年だ。それに比べれば、恒興には前世を含めて50年以上の人生経験が有る。前世の若い恒興なら自分の主張を駄々っ子の如く繰り返しただろうが、今世の恒興は他人の主張を受け入れた上で、自分の主張に近付けていく手法を取る。その為に論点をずらしていく訳だ。これも謀略力の発現である。

 正親町帝は早くも上皇に登る準備を始めた様だが、これは織田信長にしてみれば有り難い話なのだ。何故なら、前世において織田信長は正親町帝の退位に失敗した。それは立太子、退位、新天皇即位、上皇即位、他多数と、正親町帝が上皇になる為の儀式を纏めて行おうとしたのが原因で、織田家の資金が途中でショートしてしまったのだ。しかも、その頃の織田家は多方面に敵を抱えており、北陸地方や中国地方に居る軍団に資金を割かなければならなかった。この失敗は信長のショックが大きく、右大臣を辞めてしまったくらいだ。

 だから必要な儀式を小分けにしてくれるのは、恒興にとって望む所だ。更に他大名の影響も完全に排除出来る約束も取り付けた。この機、逃すまい。そう恒興は気合いを入れた。無意識に恒興は何か面白い表情になっていた。

 それを誠仁親王はジッと見ていた。


「……」


「あ、あの、殿下、何か御座いましたかニャー?」


「ん?いや、上野介の表情がいろいろ変わるので面白いな、と思ったまでだ」


「……また、お見苦しいものを失礼致しましたニャー」


 誠仁親王の視線に気付いた恒興は少し焦る。彼は恒興の怪しさには気付かず、ただ面白いと思うだけの様だ。


(悪い事を考えると顔に出る癖、直さないとニャー)


 前にも同じ事があったなと、恒興は反省する。この悪い事を考えると、表情に出る癖は直さないといけない。そう恒興は思った。


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 誠仁親王の部屋を後にした恒興は、同じく正親町帝への拝謁を終えた織田信長と合流する。


「お疲れ様で御座いましたニャー、信長様」


「おう、滞り無く終わったぜ。親王殿下は元気だったか?」


「はい、お元気でしたニャー。しかし一つ有りまして」


「ん?何だ?」


 信長と合流した恒興は誠仁親王との会見の報告を行う。そこで一つ、問題が有った事も。


「実は立太子の儀式の費用の話が出ましてニャー」


「立太子の儀式か。もちろん、費用は出すぜ」


 織田信長に驚いた様子は無い。誠仁親王は七五三を越えているし、正親町帝に皇太子として相応しい他の皇子は居ない。ならば、誠仁親王の立太子は時間の問題だ。既に宮中では皇太子扱いされている訳だし。


「それなのですが、殿下が織田家にだけ負担させる事に難色を示されておりましてニャー」


「んな事、気にする必要も無いんだがな。で、お前は何と返したんだ?」


 恒興から誠仁親王が織田家だけに資金負担させる事を気に病んでいると報告される。それに対して、信長は少し困った顔をする。そんな事で遠慮して欲しくない、というのが信長の本音な訳だ。


「はい、ニャーが儀式費用を負担する事で殿下の了承を得ました」


「……それは織田家負担と何が違うんだ?」


「違うのですニャー。建前上、ニャーは殿下の家臣。家臣が主君の為に尽くすのは当然です。これで儀式は殿下の家臣団でのみ行うと見せて、実質は織田家主導という訳ですニャー」


 恒興は話し合いの結果、池田恒興のみで資金負担をするという決定を伝えた。それを聞いて信長は何も変わってないとツッコミを入れた。恒興の所属は間違い無く織田家であるし、結局の所は織田家負担でしかない。間に池田恒興の名前が挟まっただけだ。ただの言葉遊びじゃないか、と。

 だが、恒興は自分が上野介である事が重要なのだと言う。誠仁親王が上野守だから、上野介の恒興は家臣の位置に居るのだ。そこが織田信長と池田恒興の違いだ。だから恒興が立太子の儀式の資金を工面する事は、誠仁親王が自分の家臣団のみで儀式を行う。という事になる。つまり、他人は一切、この儀式に干渉する事は出来ない。もちろん織田信長も、だ。その実は織田家出資100%の独占状態な訳である。


「成る程な。殿下が自分の家臣でやるってんなら、他の大名は入れねぇな。その実、織田家で独占って訳か。山科卿がお前に上野介を斡旋したのは、コレを考えてたんかね」


「そうかも知れませんニャ。ホント、あの方の謀略力はどうなってるんですかニャー。怖いくらいなんですけど」


 山科権大納言言継は当初、池田恒興が取次になると思って官位の斡旋を申し出たのだろう。結局、恒興は取次にはならなかったが、言継は彼に注目した。その武力と集金力に。山科言継は正親町帝に織田信長を金蔓として当てるのは当然として、誠仁親王にも相応しい金蔓を当てたいと考えていた。そこに恒興を当てる為、上野介を斡旋した。誠仁親王は上野守より高い官位を持っているので兼任という事になる。上野守は皇族専用なので、公家の誰も誠仁親王の邪魔は出来ないというのも好都合だった。これで池田恒興を使える者は、朝廷内において誠仁親王だけとなった。この山科言継が主君の為を考えて行った謀略が今に繋がっている。ここまで理解していたなら、山科言継の謀略力が凄まじいなと、恒興はゲンナリする。実際、考えていそうだから。行動一つで織田家と比叡山延暦寺を振り回せる人物だから。


「山科卿の目的は確実に『朝廷の存続』だろ。その為なら、どの大名が主導権を取ろうが構わないんだろうな」


「朝廷の為にならないなら、アッサリ切り捨てるんでしょうニャ。しかし朝廷の弱点は資金なので、これからもしっかり稼ぎましょう。その為の立太子の儀式、朝廷権威です」


 山科言継の目的はどう考えても『朝廷の存続』以外にはない。その為なら、権力を握る大名は誰でも構わない。産まれも出自もどうでも良い。武家ではなかなか受け入れ難い考え方だが、公家では割と受け入れる者は居る。山科言継の他は今出川晴季も有名だろう。何故なら、武家がいくら成り上がろうが、日の本最高位に座するのは天皇なのだから。天皇の役に立つなら、そこまで拘らない訳だ。例え、守護大名の家臣の家臣であろうが、更にその家臣であろうが、農民からの成り上がりだろうが。


「おうよ。足りなきゃオレも出すから、ちゃんと報告しろよ」


「立太子の儀式だけですし、ニャーだけでも十分かと。風土古都で買い込んだ米の資金化が進んでますニャー」


「風土古都か。まさか米大量売却の危機を逆手に取っちまうとはな。それを考案した筒井順慶は大した男だぜ」


 恒興が立太子の儀式の資金を工面する予定ではあるが、キツイなら信長から恒興に資金を渡すつもりだ。しかし恒興は買い込んだ米が風土古都で順調に現金化出来ているので大丈夫だと話す。

 民衆は米を炊いて食べる事をかなり厭う。自分が所有する米を。それは米が通貨の役割を持っているからだ。だから、なるべく米を消費しない様に雑穀を大半にして食べるのだ。現代人でいえば、お金そのものを食べている様なものだ。だが、風土古都では既に炊かれた米が出るので容赦なく食べる。食べなきゃ損と食べまくる。これが民衆の働く意欲に繋がっている。町で働いて金を稼ぐ→その金で風土古都で飯を食う→活力を得て働き金を稼ぐ→風土古都で美味い物を食う、というサイクル。この『お金を稼いで美味い物を食う』という欲望で、犬山の産業生産力は恐ろしい伸びを見せている。そして池田家の財政はみるみる内に回復、過去最高を更新し続けているのだ。岐阜の風土古都も軌道に乗り出した様で、あらゆる生産力が上がっているという。これから安土や長浜にも風土古都を造る訳で、織田家の基幹産業になりつつある。

 織田信長は風土古都を考案した筒井順慶の事をかなり評価している。自分の娘婿に相応しいと。


「はあ、そうですニャー……」(本人は美味い物を食いたいだけニャんだけど)


 この風土古都がたった一人の人間が「美味い物食いたい」という欲望だけで始まった事に、恒興は今更唖然となる。たった一人の欲望でここまで世の中が動いてしまうとは。恒興としては、順慶は犬山で自由に過ごせばいい、としか考えてなかった。それがこうなるとは、世の中の動きとは読めないものだと、恒興は思う。


「よし、犬山に行くぞ。恒興、先導しろ」


「はっ、親衛隊に集合を掛けますニャー」


 織田信長は犬山に行く事を決意する。自分の娘婿となる筒井順慶に会う為に。恒興も池田家親衛隊に集合を掛け、信長の伴として犬山に帰還するのだった。

 この小説を読んでいると「僧兵ってザコなんでしょ」と思うかも知れませんニャー。べくのすけがそう書いたじゃん、と。ですが、それは京都周辺の僧兵(悪僧)限定です。地方の僧兵はちゃんと強いです。興福寺の六方衆は強いので、恒興くんは直ぐに説得に動きましたニャ。そして特に強い僧兵の溜まり場が『中国地方』なんです。

 そこから有名な僧兵団を紹介しましょう。『大山寺僧兵団』です。大山寺は伯耆国(鳥取県西部)の大山に居を構えるお寺さんで修行場としても有名です。ここの僧兵団はとんでもなく強く、鎌倉幕府軍を鎧袖一触で追い返した実績持ちです。歴史にもちゃんと出てくる戦いです。それが『船上山の戦い』ですニャー。


 1333年、後醍醐天皇は隠岐島から脱出した。しかし迎えに来る大名は皆無。来たのは伯耆国の土豪・名和長年一人だった。長年の屋敷で身体を休めた後醍醐天皇は挙兵を諦めて隠岐島に帰ろうとさえしたという。しかし名和長年は言う。

「陛下は勝ちの目が残っておりますのに、諦めると仰せですか?」

「大名は誰も来なかった。これが結果ではないか」

「御言葉ですが間違っております。塩冶高貞などの有力大名は兵を集めているのに動いておりません。これは勝ち馬に乗ろうと状況を見ているからです。つまり陛下が鎌倉幕府と戦える事を示せば、この者らは全て錦の御旗の下に集いましょう」

「しかし如何すれば良いのか、朕には判らぬのだ」

「この名和長年に秘策が御座います。お任せ下さい」

 名和長年は伯耆国の沿岸で船事業を営んでいた。彼は財産を全て食糧と交換し、大山の山頂に近い『船上山』へと運び込んだ。そして幕府方の軍が迫ると、名和長年は運び切れなかった食糧を自分の屋敷と共に焼いた。これは自焼没落という行為で武士が決死の覚悟を決めた時に行われる。「不利な戦いに赴く。生きては帰らぬ覚悟だ。敵の物として使われるくらいなら焼き払う」と、こんな意味が込められている。

 こうして船上山に立て籠もった後醍醐天皇と名和長年。その数100〜200。対する幕府軍は3000〜5000。勝負は直ぐに決着するかと思われたが、幕府軍は船上山を攻略する事が出来なかった。理由の一つは名和家郎党の必死の抵抗。老若男女に関係無く、彼等は戦った。彼等に帰る場所はもう無い。ここで負ければ生き残れる可能性は一欠片も無い。普段は可愛らしい娘が、鬼の形相と「死ね!!」と烈帛の気合いで岩を投げ落としてくる戦場である。もう一つの理由は船上山が断崖絶壁過ぎた事。船上山は三方を崖に囲まれ、並の修験者では登れない難所。梯子は長さがまったく足りないし、兵士が武器を持って登るなど出来なかった。

 進退窮まる幕府軍は策を閃いた。三方が崖ならもう一方の斜面から行けば良くね?と。そして、その一方の斜面に入る場所に鎮座していたのが『大山寺』である。幕府軍は大山寺と交渉した。

「あの〜鎌倉幕府軍なんですけど、船上山の裏手に行きたいんで、寺の中を通りますよ〜」

「断る」

「あれれ〜?聞こえませんでした〜?我々はか・ま・く・ら・幕府軍なんですよ。もちろん通っていいですよね?」

「断る」

「……下手に出てりゃ、つけ上がりやがって!ザコ弱僧兵のクセしやがってよ!こっちは六波羅(京都)で僧兵と戦い慣れてんだ。37564にしてやんよ!」

「受けて立つ!!」

 こうして幕府軍vs大山寺僧兵団が開戦……したんだけど、直ぐに決着。幕府軍退却、大山から追い出された。というか、大山寺僧兵団はかなり強い。京の都周辺で食っちゃ寝している悪僧とは比べ物にならない。大山の周りは裕福ではない。その為、大山寺僧兵団は素食で倹約生活をしている。周りに遊べる場所や娯楽など存在しないので、年がら年中、大山という天然の修行場で己を鍛えている。この小説でいうと、『池田家親衛隊』レベルの強さは持っている。だいたい農村の雜兵でしかない幕府軍が相手に出来る存在ではなかった。こうして幕府軍は船上山を遠巻きにして見ているしか出来なくなった。

 一方の有力大名である塩冶高貞の所には先んじて後醍醐天皇の使者として佐々木義綱が説得に来ていた。佐々木義綱は幕府方で後醍醐天皇の監視役だったが、鎌倉幕府が後醍醐天皇を殺せと命令してきた為、反抗して後醍醐天皇の脱出の手配をした人物だった。彼は有力大名の塩冶高貞の説得を行ったが、塩冶高貞は態度を保留にし、佐々木義綱を軟禁していた。いざとなれば、彼を反逆者として幕府に突き出す為だ。しかし後醍醐天皇は船上山で幕府軍相手に粘り、更に大山寺まで味方に着いた。佐々木義綱は言う。

「この期に及んで態度を決めないなら、私はお前を反逆者として陛下に報告する!それが嫌なら、今直ぐ全軍で陛下の下に参集せよ!」

 これで塩冶高貞は心を決めた。全軍を駆り出して船上山周辺に居る幕府軍との戦闘を始めた。この塩冶高貞の行動で周りの有力大名達も一斉に動いた。瞬く間に後醍醐天皇の勢力は数万規模に膨れ上がった。

 幕府軍は大山からは一旦、撤退するしかなかった。しかし、彼等は勝てる算段があったのだ。それは援軍の存在である。

「今に見てろよ、後醍醐天皇、名和長年、大山の僧兵共。こちらには幕府軍の切り札、勇将知将を揃えた幕府最強の足利高氏殿が援軍として向かって来ているのだ!ハハハ、ざ・ん・ね・ん・だったな!」

「申し上げます!足利高氏、後醍醐天皇側に付く意志を鮮明にし、六波羅に攻め掛かっております!」

「……鎌倉幕府、オワタ!」\(^o^)/

 この船上山の戦いの後、足利高氏、新田義貞が後醍醐天皇側に付き、各地の反幕府勢力も後醍醐天皇の味方となった。こうして鎌倉幕府は滅亡へと向かう。


 中国地方の僧兵さん達はだいたい大山寺僧兵団と同じ強さを持っていると見てよいかと思いますニャー。戦国時代でも。これが瀬戸内海からいろいろな仏教宗派が入り込み、軒を連ねた結果かと思います。お隣さんが別宗派だと油断も出来ませんから。何処もとんでもなく強いので、元春さんと隆景さんは仏教勢力を刺激したくない訳です。

 僧兵団は基本的に寺に敵対行動を取らない限りは動きません。俗世間の争いには関わらないからですニャー。仏教理の否定に対しては動きます。キリスト教と仏教は世界、自然、命、魂に対する解釈がまるで違うので、仏教理の否定に繋がる訳です。

 一応の例

 法華宗徒「日蓮上人の言っている事が真実!お前ら偽物!m9(^Д^)プギャー」

 比叡山延暦寺「調子に乗るな。全国の僧兵集結!法華宗を撃滅せよ!」

 僧兵「15万人参集。殲滅する!」(15万人は諸説有り)

 結果→天文の乱・洛中法華二十一ケ山寺焼き討ちで壊滅。ついでに京の都も灰燼と帰す。死者は法華宗徒だけでも1万人をはるかに超え、被害は応仁の乱を上回ると言われています。

 中国地方の僧兵団が目立たないという事は、毛利家が彼等と上手く交渉していた証拠でもありますニャ。

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郭隗ですねぇ 誠仁親王にとってもニャー様にとっても 殿下にとっては故事そのままで ニャー様にとってはことわざ 遠大な謀略は先ずは身近な・・・ 身近?殿下が? 山科卿こわっ 流石この時代の朝廷を支えた(…
最近の色んな歴史の本読んでると、応仁の乱で下剋上広まったんじゃなくて、チョットしたことでタガが外れたりなんか都から偉い人きてる→「すわ!戦や」てなかんじのイカレ具合のスーパー戦闘民族日本人が平常運転な…
僧兵は強い 光栄のチンギス・ハーンでもそこそこ強かった 専属兵士のようなものだから、訓練だけでも食べれるだろうから、まあ、ごろつき僧兵は弱いだろうけど 大変だろうけど、寺社への行幸をすれば、少しは気…
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