閑話 乃恵と乃々、池田邸へ行く
犬山池田邸。
この屋敷の門の前に二人の少女が立っている。門の横に立つ門番は既に戸板を動かし、彼女らを迎え入れようとしている。しかし、少女達は感慨深そうに屋敷の門を眺めている。そう、今日からその少女達、乃恵と乃々の新しい日常が始まるのだから。
「とうとう、この日が来たね、乃々」
「そうだね、お姉ちゃん」
「私達の新しい一歩が始まるんだよ」
乃恵は新しい日々がここから始まると目を輝かせて、後ろにいる妹の乃々に語る。彼女らは今日から池田邸で秀子の世話をする事になっている。
最近、彼女らの主である筒井順慶は料理開発に夢中になっている。暇さえあれば、風土古都から助さんや角さんを呼んで、何やら研究している様だ。乃恵や乃々は些細な手伝いしか出来ないので、かなり暇を持て余す様になってしまったのだ。なので、早々に池田邸に行って、秀子の世話と勉強をする事になった。
乃恵は拳を握り、フンと鼻息荒く気合いを入れている。しかし足は一歩も進んでいない。その状況に、乃恵の後ろにいる乃々は焦れてきた。門番の「何をしているんだ?」という視線が痛いのだ。
「そうだね、お姉ちゃん。……早く進んでよ、門番の人も困ってるから」
「いざとなったら、心の踏ん切りがー!?」
「いいから入ってよ、もう!」
どうやら乃恵は緊張で足が動かない様だ。心の踏ん切りがつかない様で、足がプルプルしているだけだった。いや、門番がジロジロ見てるし、中の人も待っている。業を煮やした乃々は怖気付く姉を後ろから思い切り押して、何とか池田邸の門をくぐる。
「大丈夫?何か時間掛かってたみたいだけど」
「すみません、愚図な姉で」
「私のせい!?」
門をくぐると玄関前に一人の女性が居た。年齢の頃は乃恵と同年代くらいだ。彼女は時間が掛かった事を心配していたが、乃々は姉のせいにしておいた。
「アハハ、そんなに緊張する事ないって。私は野崎芳よ。養徳院様から貴女達の案内を仰せつかっているの」
「初めまして、乃恵です」
「妹の乃々です。よろしくお願いします」
「じゃ、こっちよ」
玄関前で二人を待っていた女性は野崎芳。快活な印象の人物で、養徳院桂昌から二人の案内を任されたという。芳は二人を玄関ではなく、少し奥にある勝手口へと誘導する。基本的に玄関は主人と家族が使う物で、他には来客用に使う。従者や雑色、女中達はいつも勝手口を使う様だ。乃恵と乃々もこちらという訳だ。
「芳様は」
「様とか止めてよ。そんなに身分が高い訳じゃないわ」
「でも、お殿様の養女なのでは?」
「一応ね。でも実家は大した事ないの。私のお父さんは親衛隊員でね。戦場で負ったキズが悪化した訳で……」
乃々は野崎芳を様を付けて呼ぶ。芳は若い女性なので池田家の養女だと思ったからだ。対して彼女は様付けされる程ではないと笑う。
芳は池田家親衛隊員の娘だという。彼女の父親が戦場で負傷したのが切っ掛けの様だ。それを聞いた乃恵は悲しそうな顔をする。
「ご、ごめんなさい。ツライ事を聞いてしまって」
「え、別にいいけど?」
「いいの!?お父さん死んだのに!?」
「誰のお父さんが死んだのよ?生きてるってば」
乃恵は芳の父親が死んだと思い、辛い事を聞いてしまったと詫びた。しかし、芳は何も感じていない様だ。驚愕する乃恵に芳は父親は死んでないと反論した。
「お姉ちゃん、誰も死んだとか言ってないの」
「ま、流石に親衛隊引退を考えた訳。でも、言った通り実家は大した事なくてね。家族で帰農しようかって話してたくらい」
「はあ」
「それをお義父様に報告したら、「許さん、お前はニャーの従者になるんだ」って言われてね。お父さんは池田家従者に、お母さんは池田家女中に、私は池田家の養女になったって訳」
野崎芳の父親は戦場で負ったキズが原因で除隊する事にした。歩くのは問題無いが、戦場で走ったりするのは付いていけなくなったのだ。しかし、彼の実家の武家はかなり小さい規模で、頼るのも難しい。そこで彼は縁の有る村で帰農しようと家族に相談した。今なら富農くらいには落ち着けると。
芳の父親はその事を主である池田恒興に報告した。しかし恒興は彼の決断を拒否した。恒興としては親衛隊を除隊するなら、自分の従者にすると決めていたのだ。
池田家では女性は女中になる。芳の母親は池田家女中の一人となった。男性なら従者と雑色になれる。従者と雑色の違いは身分の違いがある。雑色には身分制限が無く、池田家の雑用に従事している。従者は雑用もするが基本的には主や家族の随伴になる。これは護衛という意味だ。当たり前で彼等は帯刀している。つまり武士身分のままだ。戦場にまでは行かないが、恒興の上洛などには何人か付いて行っている。他は養徳院や美代、藤が出掛ける際に護衛をする。
「池田家に仕えてなければ、私は農民の娘になってた訳。だからそんなに差なんてないから安心して」
父親は池田家従者となったので、芳は未だに武士の娘という身分になる。しかし、芳は大して身分の違いは無いと二人に言う。
「でも本当に気を払わないといけない方が池田邸に居らっしゃるから気を付けてね」
「養徳院様ですよね」
「そうよ。養徳院様は織田家御当主様の乳母を務められ、今でも御当主様から贈り物が届くんだから。一番気を付けてね」
「「ゴクリ」」
芳は池田邸に住まう気を払わねばならない人々について説明をする。まずは池田家当主・池田恒興の母親である養徳院桂昌だ。織田家前当主・織田信秀の側室であり、織田家現当主・織田信長の乳母を務めた経歴を持つ。正室である織田信長の実母・土田御前はあまり他家の者と交流はしていなかった。その代わり的に養徳院は他家の妻や娘達と積極的に関わっていた。故に織田家内で広い人脈を持っている、女性限定ではあるが。
養徳院の説明を聞いて乃恵と乃々は息を飲む。説明にさらりと濃尾勢の支配者・織田信長の名前が出て来たからだ。
「そして養徳院様のご長女の栄様。織田家御当主様の妹君でもあるから気を付けて。私達、養女とも接する機会が多いから」
「多いんですか?」
「そりゃ、養徳院様に学問を教わってるもの。私もだけど、貴女達もそうでしょ。普通に顔を合わせるって訳」
「き、緊張ががが」
「お姉ちゃん、しっかり」
次は池田栄。父親は織田信秀、母親は養徳院桂昌。池田恒興の妹にして織田信長の妹である。織田家の姫君で池田家の姫君でもあり、最近に武田勝頼に嫁ぐ事が決まった。とはいえ、勝頼は領地が無いので、嫁ぐのは先送りになっている。なので未だに実家住みである。
「大丈夫だってば。池田家正室の美代様と側室の藤様。今は美代様が身重なので、藤様が奥の仕事を代行しているわね」
池田家正室の美代と側室の藤。池田邸の家女房は正室の指揮下にある。一応、乃恵と乃々は池田邸の家女房の名目にしてあるので、美代は上司という事にはなる。現在は美代が身重なので、正室の仕事は藤が代行している。二人が池田邸で分からない事があれば、藤に尋ねる事になる。乃恵と乃々は順慶の用事で藤と何回も話しているので問題は無いだろう。
「それから池田家嫡男の幸鶴様と大姫のせん様。幸鶴様には森家のお勝様が付いているし、せん様にも専属の女中が付いているから、今のところ関わる機会は多分無いかな」
それから池田恒興の嫡男である幸鶴丸と池田家大姫のせん。幸鶴丸には森勝が付いているし、せんには専属女中である小雪が付いている。なので、今は関わる事も少ないだろう。
「今、名前を挙げた方々には気を払ってね。あとはー、前田慶様かな。この方は武家の当主で池田家臣なんだけど、何故かここに住んでいるのよ」
あとは何故か池田邸に住み続けている前田慶。一応、彼女は武家の当主で池田家臣である。犬山前田家の屋敷もあるのに、何故か池田邸に居続けていると芳は話す。
「最後に、私達がお仕えする秀子様。そのご母堂の牧の方様。こんな感じかな」
「芳さんも秀子様に仕えるのですか?」
「そうよ。だから貴女達を案内する様に言われたって訳。まずは牧の方様に挨拶しましょ」
「「はい」」
そして乃恵と乃々が世話をする予定の秀子、その母親の牧の方だ。とうやら芳も牧の方と秀子に仕えるようで、二人の案内役になった様だ。これから二人と密接に関わるのは芳という事だ。
二人は芳の案内で牧の方の部屋に着く。部屋の中には一人の女性が赤ん坊を抱いてあやしていた。彼女が乃恵と乃々が仕える事になる牧の方だ。牧の方の歳の頃は20代前半で鮮やかな着物を着ている。ただ、少し疲れた顔をしていた。
乃恵と乃々は牧の方の前に正座し、深々と挨拶をした。
「は、初めまして、乃恵です」
「初めまして、妹の乃々です」
「貴女達が順慶様の側仕えですね。養徳院様から話は聞いているわ……て、ちょっ」
「ああう〜」
「ちょっと秀子、大人しくして」
牧の方も挨拶しようとしているのだが、抱かれている秀子が暴れて阻止されている。秀子は牧の方の顔を触れる、髪を引っ張るなどして元気に妨害している。どうも体力が余っている感じだ。
「大丈夫ですか、牧様」
「寝て欲しいんですけど、何故かむずがってしまって」
「あらら、眠るまで待つしかないですね」
芳が心配そうに聞くと、牧の方は寝かしつけに失敗したと嘆く。この様な事はよくあるようで、芳は諦めた感じで返す。秀子は結構、元気が余っている系赤ん坊の様だ。その時、乃恵はぱっと閃いた顔をして提案した。
「そういう時はアレをやりましょう!」
「アレって何、お姉ちゃん?」
キョトンとしている牧の方、芳、そして乃々に乃恵は自信満々で説明する。秀子がなかなか眠らないのなら、運動により疲れて眠る様にすれば良いのだ。乃恵は村の幼児達を預かってやっていた事。それをやろうと牧の方に提案したのだ。秀子に寝て欲しい牧の方は乃恵の提案を受け入れる事にした。
その方法はまず赤ん坊を部屋の真ん中に置く。その周りを牧の方、乃恵、乃々、芳で囲み、ぐるぐると秀子を中心に回る。そして止まって座り、秀子に自分の所に来るようにと呼び掛けるものだ。順当に行けば、秀子は母親である牧の方の下に行くだろう。しかし……。
「4回連続でお姉ちゃん!?」
「な、何故、秀子は乃恵の所にばかり……。秀子、お母さんはここですよ、ぐすん」
「ど、どうなってる訳?」
何故か秀子は4回連続で乃恵の所にハイハイして行った。そして乃恵の膝の上を占領している。その様子に乃々と芳は驚愕し、牧の方はガクリと項垂れた。
その時、乃々は思い出した。それは乃々が乃恵と一緒に村の幼児達の面倒を任された時だ。
「実は村でお姉ちゃんと幼児の世話をしていましたが、みんなもお姉ちゃんの所にばかり行くんですよ。それを順慶様に言ったら、『はいぱー姉力』だと言っていました」
乃々の村では男女共に大人は畑仕事をするのが一般的だ。となると、世話が必要な赤ん坊や幼児はどうするのか。それは村の6〜10代前半の少女が面倒を見るのだ。母親が必要な場合は呼ぶ事で対応するので複数人で行う。6〜10代前半の少年は親の手伝いか家畜の世話となる。
以前に乃々は乃恵と複数人の少女達と幼児達の世話をしていた。そこで彼女は驚愕の光景を目の当たりにする。何と、幼児達は一斉に乃恵の方に行き、赤ん坊も乃恵が抱けば泣き止む始末。「あれ?私、何か悪い事したっけ?」と乃々は自問自答してしまった。村娘の先輩に聞いても、乃恵は前々からそうだったと言う。先輩達はもう乃恵だけでいいんじゃね?とすら思ったという。
その事を乃々は筒井順慶に聞いた事がある。状況を細かく伝えて、順慶から返って来た答えは『はいぱー姉力』という特殊能力だった。順慶曰く、幼い子供達はこの『はいぱー姉力』に惹かれるものなのだと言う。……この男はテキトーに言っているだけだが。
「まさかの特殊能力持ちな訳!?順慶様公認の!?」
「そんな……私達では勝てないの?ああ、もう生きてはいけないわ」
順慶公認のスキルを乃恵が持っている事に、芳は更に驚愕する。牧の方は勝てる訳がないとフラフラと横たわる。何か死にそうな脱力感と共に。
「牧様、お気を確かに!」
「芳、乃々、秀子の事をお願いね……」
「牧様ーっ!?」
母親の牧の方は乃恵の『はいぱー姉力』の前に敗北した。母親なのに我が子に相手にされない。メンタルにダメージを負い過ぎた牧の方は芳と乃々に秀子の事を託す。乃々は牧の方の側に寄り、彼女を呼びながら祈る。誰か、牧の方に救いを、と。
その時、部屋の襖が開いて一人の女性が現れる。
「励んでいますね、乃恵、乃々」
「「「養徳院様!」」」
現れたのは池田恒興の母親である養徳院桂昌だった。僧侶の袈裟姿に白い尼僧頭巾を被っている女性は優しい笑みと共に乃恵と乃々に声を掛ける。
すると秀子は養徳院に気付いた様で、乃恵の膝を降りてハイハイで養徳院に向かって行く。
「あう〜」
「あらあら、秀子も遊んで貰ってご機嫌の様ですね。よしよし」
秀子は養徳院に抱き上げられ、ご満悦の様だ。乃々は思った、乃恵の『はいぱー姉力』を超える物を養徳院は持っている。それが養徳院の『はいぱー母力』なのだと。
乃々、芳、そして牧の方は養徳院が乃恵に完全勝利した様を見て、表情がニヨニヨしていた。まるで「やーい、負けてやんの」とでも言いた気だ。三人共になかなか良い根性をしている。まあ、彼女らは乃恵の一人勝ち状態が面白くなかっただけである。一方の乃恵は特に気にしていない。
(養徳院様、凛としてて格好良い。届かないけど憧れちゃうなあ)
乃恵は惚けた様に憧れの眼差しで養徳院を見る。まるで自分の理想を見ているかの様に。養徳院は秀子を抱きかかえ、背中をトントンと優しく叩きながら秀子を寝かしつける。
「あら、秀子が寝てしまいましたね」
既に秀子は気持ちよく寝息を立てていた。上手い事、体力が消費された様で、秀子は直ぐに寝てしまった。
「乃恵、乃々。今日はひらがなの書き取りから始めましょう」
「「は、はい」」
「芳、道具の用意をお願いします。彼女等にも教えてあげて下さいね」
「はい、お任せ下さい」
「では、秀子を寝かせて来ますね」
秀子は寝たので、養徳院は乃恵と乃々の教育を始める事にした。芳には道具の用意を頼む。それと同時に乃恵と乃々にも道具の準備の仕方を教えるように指示をする。それだけ言うと、養徳院は牧の方と秀子を布団に寝かせ行った。
大河ドラマ『べらぼう』
田沼意次さんの時代ですニャー。べくのすけは疎い辺りですが、なかなか面白そうですニャー。主演の演技が光ってますニャー。吉原の話題は令和ではなかなか取り上げにくいと思うので、そこもビックリです。ちょっと期待ですニャー。
第二回を視聴して気になった事。コレ、幕府内の政争も描こうとしてませんかニャー?蔦重さんと吉原に集中すべきではありませんかニャーと思う次第です。