夢見鳥と小さな後悔
さあ、夢の旅へ出かけましょう。
大丈夫、怖くはないさ。
これは、一夜限りの夢の話なのだから。
暗い暗い空間。どこまでも、どこまでも果てのない闇がつづく。
そんな中を、その少年は進んでいた。
見た目は、14、5歳ほど。夜空のような黒い髪に、黒曜石をはめ込んだような瞳。黒いシャツと黒いズボンをはいた少年は、どこまでもつづく闇の中に溶け込んでしまいそうだった。ただ一つ、その背中にある大きな翼を除いて。
その翼は、夜明け前の空のように、青と橙がグラデーションになった神秘的な色で、ところどころ星屑のようにキラキラがついていた。
「・・・・・・今日は夢見の部屋が少ないな」
ぱたぱたと翼をはためかせながら、少年は呟く。なぜか、彼の周りだけは、暗闇が避けるかのように、ぼんやりとした白い光に包まれている。
“夢見の部屋”。それは、彼にとって自らの命をつなぐための大事なものだ。
夢見鳥。そう呼ばれる者が、この世界には存在している。夢の狭間を旅する旅人で、夢見る人の夢の中、“夢見の部屋”に入り、きらめく宝石のような夢鳥石を作り出す。そして、それを主食としている人たちのことだ。
彼もまた、そんな夢見鳥の一人だった。
「お腹空いたなあ……。そろそろ食べないとまずいよなあ」
ぐーっと、今にもなりそうなお腹にシャツ越しに触れながら、少年は飛びつづけている。
すると、前方にふわふわと浮かぶ乳白色の丸い大きな球体が見えてきた。大きさは、少年の背丈の3倍ぐらいはある。
それを見つけた瞬間、少年はにやりと笑みを浮かべた。
「今日のご飯見っけ」
そう言うと少年は、その球体向かって一目散に飛んでいく。そして、その中へとダイブした。
中に広がっていたのは、どこかの学校の教室のようなところだった。古い校舎なのか、床は板張り。教室の前と後ろの壁に付けられている黒板も、うっすら白がかった緑色で、年季の入りようを感じさせた。
黒板の上には、美術の絵だろうか、生徒たちそれぞれが描いた作品が貼られている。もっとよく見よう。そう思って少年は、後ろの黒板へと近づいていく。
「はい、じゃあ墨すり終わった人ー」
突然、しゃがれた女性の声が響く。
驚いて振り返れば、黒板の前には、縁なしの眼鏡をかけ、上下黒のスーツを着た50代ぐらいの女性がいた。
その女性の存在に少年が気づいた瞬間、教室にパッと生徒たちが出現する。
その背格好から見て、ここはたぶん小学校なのだろう。児童たちは、元気よく「はーい!」と手をあげる。
「はい、じゃあお手本を参考に、書いていきましょうねー。最後に、一番いい出来のを提出してもらうから」
そう言いながら女教師は、児童たちが座る机と机の間を歩いていく。
少年は、そばにいた男子児童の机に寄っていく。その上には、硯や筆といった書道セットと、先生が書いたのであろうお手本が置かれていた。“世界平和”。それが、今日の課題らしい。
「世界平和かー。ずいぶんでかいこと書かせるんだな」
ほほーっと頷きながら、少年は感心したような声をあげる。けれど、その言葉に反応するものは誰もいない。なぜなら、彼は夢の住人だから。
夢見鳥は、人の夢の中に入り、夢鳥石を取り出すのが仕事、いや生きる手段だ。そんな彼らは、夢に入ったところで、夢の中の人たちの目に映ることも、その声が耳に入ることもない。いわば、空気のような存在。
ただ、目の前で繰り広げられる夢を、映画の鑑賞会のように黙って見ているのが役目なのだ。
今日も、そうやって誰かの夢に忍び込み、夢の様子を眺める。――――それだけのはずだった。
「えっ!誰っ?」
背後から、鈴を転がすような声が聞こえてきた。
なんだなんだ、不審者でも登場したか?そんな物騒なことを考えながら、少年は緩慢な動きで振り返る。けれど、そこにいた人を見て、少年は思わず身を固くした。
そこにいたのは、一人の少女だった。年の頃は、少年と変わらないぐらい。中学生のようにも、高校生のようにも見える。地毛なのか、それとも染めたのか、鎖骨まである、軽くウェーブのかかった栗色の髪をしている。
小学校であるこの場には不釣り合いな少女。何より不釣り合いなのは、少女が着ているのが、可愛らしい桃色のパジャマだということだ。そして、少女の亜麻色の瞳は、真っ直ぐに少年へと向けられている。
なぜだ?
少年の頭に、疑問符が浮かぶ。夢の中の住人には、夢見鳥の姿は見えないはずだ。それなのに彼女は、ほかの誰でもない少年を見つめている。これは、一体どういうことだ・・・・・・。
困惑して、少年は黙ったまま少女を見つめる。それは少女も同じようで、戸惑ったように揺らめく亜麻色の目が、じっとこちらを見ていた。
「・・・・・・あのお、あなたは誰ですか?」
先に声を発したのは、少女だった。窺うように上目遣いで少年を見ながら、一歩、彼の方へと近づく。
なぜか、少年は思わず一歩後ずさる。なぜ自分がそんなことをするのか。それはわからない。けれど、なぜか少女に触れてはいけないような気がした。
「人に名前を聞く時は、先に名乗るのが筋だと思うけど?」
気圧されるようになってしまったことに腹が立って、思わずそんな言葉が口をついて出た。それを聞いた少女は、むっとしたように眉を寄せる。
「高倉こばと!高校一年生です!」
腹が立っているのか、怒鳴るように少女は言う。そして、私は言ったんだからそっちも言いなさいよ、と不遜な態度でつづける。
「・・・・・・タビト」
少女、こばとの態度にムッとしながら、少年は短く答える。こばとは、それを聞いて、タビト、と口の中で飴玉を転がすように呟いてみせた。
「じゃあ、もういっこ質問!」
「何だよ」
質問したいのは、こっちも同じだって。そう思いながら、タビトは聞き返す。
こばとは、人差し指を頬に当てて、考えるような素振りを見せる。考えてなかったのかよ、とタビトが呆れたそのとき、思いついたのか、こばとはあっ!と大きな声をあげた。
「ここはどこ?あなたは何者?」
「質問はいっこって言ってただろ」
タビトがそう言うと、こばとはケチな奴と小さく呟いた。
「じゃあ、ここはどこ?」
「ここは、・・・・・・夢の中だ」
「夢のなかあ?」
タビトの返答に、こばとは素っ頓狂な声をあげる。その亜麻色の目は、こぼれ落ちそうなぐらい大きく見開かれていた。
「え、じゃあ、ここ私の夢ってこと?」
「まあ、そういうことになるな」
「なら、どうして私、こんなとこにいるのよ!」
つかつかと、タビトのいるところまでやって来ながら、こばとは言う。あまりに大きなその声に、タビトはうるさそうに耳を両手で覆った。眉間には、くっきりと深い皺が刻まれて、不快であることがありありと示されている。
「ぎゃあぎゃあわめくなよ。俺だって知りたいって」
「何よそれ!あ、そうだ!私の夢だって言うなら、何であなたはここにいるの?私の夢のはずでしょ?」
そう言ってこばとは、ぐるりと辺りを見回す。
二人が話している間も変わりなく、児童たちは熱心に半紙に向き合っていた。先生はというと、机と机の間にできた通路を歩いて、児童たちの様子を見て回っている。
「・・・・・・この景色、知ってる」
ぽつりと、言葉を落とすようにこばとが呟く。見れば、その目は懐かしそうに、ある一人の児童へと向けられていた。
視線の方へとタビトも目をやる。そこには、少女を小さくしたような女の子が机に向かって座っていた。
「あれ、私だ」
こばとは、ゆっくりと手を持ち上げて、女の子を指さす。こばとが今着ているのと同じ桃色のワンピースに身を包んだ女の子は、真剣に半紙に向かって筆を動かしている。
「ここ、私の小学校だ。それに、この日って・・・・・・」
そう言った瞬間、ガシャンッと何かが落ちる音が響いた。女の子の隣の机から聞こえてきたそれは、硯が床へと落ちた音。落としたのは、眼鏡をかけた気弱そうな男の子だった。
「あらあら、大丈夫?」
床には硯に入っていた墨汁が飛び散っている。男の子の黄色いTシャツにも、黒々とした染みができていた。
どうした?どうした?と、児童みんなが手を止めて男の子の方を見る。一気に注目を浴びた男の子は、顔を真っ赤にさせてうつむいていた。
「・・・・・・かわいそー」
そこに、ぽつりと高い声が落とされる。それは、男の子の隣の女の子、小学生の頃のこばとが発した言葉だった。
「・・・・・・っ」
隣で、言葉を飲み込む音が聞こえる。横を向けば、こばとはその様子を苦しそうに見つめていた。垂らした手は、ギュッと力強く握りしめられている。
「やめて、・・・・・・やめてよ」
懇願するように、哀願するように、こばとの口から紡がれる。けれど、夢は止まってはくれない。待ってもくれない。夢の傍観者でしかないタビトは、夢をただ見ていることしかできないのだ。
「かわいそう」
「かわいそうだね、ゆーきくん」
「床とかびちょびちょじゃん」
かわいそー、かわいそー。可哀想の連鎖が、教室中へと広がっていく。それを聞いて、ゆーきくんという男の子は、ますます顔を真っ赤にさせた。耳まで赤く染めてゆーきくんは、胸と鼻の先がつくんじゃないかというぐらい、下にうつむく。
小さなこばとはというと、自分の言葉がこんなにも多くの声を引き出すとは思わなかったのか、びっくりしたように目を丸くしている。
そこに、パンパンと大きな音が響いた。
児童も、そしてタビトも、驚いて音のした方を見る。しかし、こばとは一人、下を向いたままだった。
「はいはい!みんな課題に集中してね!」
音の源は、あの女の先生だった。黒板の前にいた先生は、ツカツカとゆーきくんのもとへとやって来る。そして、硯を机の上に拾い上げる。それから教室の後ろ側にある掃除用具入れへ近づき、雑巾を手に取った。
「気にしなくていいからね」
そう言いながら、先生は床にできた墨汁の水たまりを拭いていく。
「・・・・・・先生、ごめんなさい」
ゆーきくんは、今にも泣き出しそうな震えた声で言う。太ももの上に置かれた手は、色が変わるぐらいギュッと握りしめられていた。
床を拭き終わった先生は、墨汁が染みこんだ雑巾を手に立ち上がる。そして、机の上を覗き込んだ。ぱっと先生の顔が明るくなる。
「こんなに、きれいな字が書けるんだもの。かわいそうなんて言う方がかわいそうよね」
先生が、感心したような声をあげる。ゆーきくんは、えへへと可愛らしい声で笑った。その顔には、照れたような笑みが浮かんでいる。
反対に、小さなこばとは黙って下を向いていた。その手は、自分の半紙を隠すように机の上に投げ出されている。恥ずかしいのか、悲しいのか、耳たぶが真っ赤に染まっていた。
「・・・・・・やめてよ、何なのよこれ」
それまで黙っていた隣から、唸るような声が聞こえる。見れば、隣にいるこばとは、悔しそうに強く唇を噛みしめていた。
「何って、夢だろ」
うつむいていた顔を上げ、キッと、こばとはタビトを睨みつける。逆八の字になった眉が、彼女の心境をありありと示していた。
「だったら!終わらせてよこんな夢!こんな夢、私見たくない!」
叫ぶように言い放って、こばとはその場にしゃがみ込んだ。顔を両腕で覆ったその格好は、何も見たくない、聞きたくないと全身でこの夢を拒絶しているかのようだった。
夢を終わらせる方法など、タビトは知らない。いつも、その夢を見る人間が目を覚ませば、夢見の部屋は消える。そして、あとには小さな宝石のような夢鳥石が残るのだ。
なぜ、夢を見ているはずの本人が夢見の部屋にいるのか、なぜ、夢見鳥でもない彼女が、夢の中でこんなに自由に動けるのか。それがわからない以上、どうすることもできない。
ただ、ただ一つ言えるのは・・・・・・。
「おまえ、後悔してるんだろ」
タビトの言葉に、こばとが顔を上げる。その頬には一筋の涙の川ができていた。
「後悔・・・・・・?」
「だってそうだろ?そんなに拒絶して、なのに夢にまで見るってことは」
もう一度、こばとは後悔、と繰り返す。それから、小さなこばとへと視線をやる。
小さなこばとは、筆も持たず、字も書かず、ただただうつむいていた。その目にはうっすらと涙の膜が張っているように見える。一方のゆーきくんはというと、先生の言葉で元気を取り戻したのか、楽しそうに半紙へ筆を運んでいる。
「・・・・・・私、そんなつもりじゃなかったの」
隣でその様子を見ていたこばとが、小さく呟く。立ち上がって、真っ直ぐに小さなこばとを見つめている。
「憐れんだとかじゃなかった。ただ、大丈夫かな、心配だな、って思って・・・・・・」
かける言葉、間違っちゃった。後悔のにじんだ声が耳に届く。
しばらく、沈黙が続く。そして、ぱっとタビトの方をこばとが向いた。
「ねえ、これって私の夢なんでしょ?」
「まあ、そうなるな」
「じゃあ、私の思い通りにできるってこと?」
「それは・・・・・・」
わからない。そう答えるしかできなかった。何せ、こんな事態ははじめてなのだ。何ができて、何ができないのか、わかりようがなかった。
タビトの返答に、こばとは不満げに頬を膨らませる。
「何それ、頼りないなあ」
「頼りなくない。だいたい、お前がイレギュラーなんだ」
「ふーん、でも、ならやってみないとわからないってことよね!」
そう言ってこばとは、両手を胸の前にやり、祈るように指を交差させる。
「何やってる」
「何って・・・・・・祈ってるの!この夢が変わりますようにって」
「そんなの・・・・・・」
変わるわけないだろう、という言葉は、こばとに睨みつけられて喉の奥へと飲み込んだ。こばとは、タビトにも同じようにやるようにとせっつく。
はじめは嫌がっていたタビトだったが、そのしつこさに負けて、同じように祈るポーズをとる。
『夢が変わりますように』
『望んだ夢になりますように』
そんな言葉を、心の中で繰り返す。
すると、突然夢がまばゆい光を出して光りはじめた。
「何っ!」
隣で、こばとが驚いた声をあげる。何か聞きたいのは、タビトも同じだった。こんなこと、今まで入ったどの夢見の部屋でもおこらなかった。
眩しい光が、徐々に収まっていく。そうして、現れたのは、先ほどと変わらない教室の風景だった。
「なあんだ。変わりなしか・・・・・・」
期待したのにな。こばとが呟く。けれど、タビトはその言葉には頷かなかった。
ゆーきくんの黄色いTシャツには、墨汁の染みがなかったのだ。
こばともそれに気がついたのか、あっと小さな声をもらした。
ガシャンッ!
硯が落ちる音が聞こえる。墨汁が辺りに飛び散る。もちろん、ゆーきくんの黄色いTシャツにも。
「あらあら、大丈夫?」
先生が、ゆーきくんのもとへやって来る。そして、次は小さなこばとが、「かわいそう」と言うはずだった。
ギュッと、何かを握りしめる音がする。隣へちらりと視線をやれば、それはこばとが手を握りしめた音だというのがわかった。その目は、不安そうに小さな自分へと注がれている。
「・・・・・・大丈夫?ゆーきくん」
高い声が響く。今度は、「かわいそう」ではなかった。
それを聞いたゆーきくんは、うんと気弱げに頷き、気づかわし気に小さなこばとの方を見る。
「ごめんね、こばとちゃんにかからなかった?」
「うん!かかってないよ!」
小さなこばとの返事に、ゆーきくんの顔に笑顔が広がる。それを見て、小さなこばとも花が綻ぶように笑った。
「・・・・・・よかった」
ぼそっとこばとが呟く。その声には、安堵の色がにじんでいた。
「ああ言えばよかったんだね。私、バカだなあ」
恥ずかしそうに、照れたように、こばとは栗色の髪を手で掻く。それを見てタビトは、少し考えた後、言葉を紡いだ。
「・・・・・・ああ言えばよかったなんて、終わったから言えることだろ」
「えっ?」
「一回言ったから、一回経験したから言えることだってこと。これは夢で、過去が変わったわけじゃないけどさ、失敗を次につなげて行くことはできんじゃねえの」
そっか。こばとが腑に落ちたように言う。タビトはというと、慣れないことを言ったからか、頬をほんのり赤く染めていた。
ピカリ。夢見の部屋が光る。これは、夢を見ている人が目覚めた合図だ。そして、夢見の部屋が閉じられる合図でもある。
「え!ちょっと、何これ!」
突然、こばとの体が足元から順々にうっすらと形を失くしていく。焦ったように周囲を見回すこばとに、タビトは落ち着けと声をかけた。
「夢が覚めるんだ。現実に帰る時間だ」
「あ、そっか。なら、あなたともお別れなんだね」
「まあ、そうなるな」
なんか、名残惜しいかも。こばとは少し照れ気味に言う。それを聞いてタビトは、照れくさくなってそっぽを向いた。
だんだんと、こばとの体はうすくなっていく。そして、もうほとんど透明に近づいたころ、急に大きな声を出した。
「ねえ!結局、あなたって何者なの?」
最後に教えて!そう言うこばとに、タビトはふっと笑みを浮かべる。
「俺は、夢見鳥。夢見の部屋の旅人だよ」