子育て開始
2011年2月、いよいよ "子育てパートⅡ" が始まった。
母84歳、私53歳——
母には診断の詳細を知らせず、ボケ防止のため薬の服用が必要とだけ
伝えた。そして、『恍惚の人』になると困るから『K先生』が仰るように、
出来る事はなんでもしようね、と。
お気に入りの『K先生』と、脳内に深くインプットされた『恍惚の人』の
強烈な負のイメージ。この二つの言葉は母にとってのキーワード、原動力
となり素直に私の言うことを聞き本人もヤル気マンマン!
とにかく脳細胞を活性化させ進行を遅らせようと、効果がありそうな事は
何でもトライすることにした。
まずは、認知症高齢者を抱える家庭では定番の張り紙。
『トイレの後は流しましょう』『水道の蛇口は閉めましよう』から始まり、
イラスト入りの電子レンジの使い方、外出時に必要なアイテムの箇条書き、
朝晩の化粧とスキンケアの手順など… 家中が張り紙だらけにw
そして、"ボケ防止メニュー" と称して朝・昼・晩の日課を決めた。
①朝食後、その日の日付・名前・生年月日、体重・血圧を測りノートに
書く。
②昼食後、二人で庭に出て古いアルバムを見ながら昔話をする。
九九・足し算のフラッシュカードと子供用絵付の言葉カード。
③夕食後、私か夫と20分程の散歩をする。
①に関しては、母は若い頃からずっと日記のようなものをつけていた。
それはここへ来た当初も続けていたが、面倒になったからと中断する
ようになった。これは後になって分かったことだが、漢字が書けなく
なり最初は辞書を引いていたが、それもできなくなっていた。
②については、物の名前や人の名前が壊滅的に出なくなった。
私や夫もそうだが加齢と伴にアレ、ソレ、コレ、アノ… の指示代名詞
が多くなるのは仕方ないことだけれど、ブロッコリーやアボカドなら
ともかく大根・那須・ごぼう・れんこんなど日本古来の野菜の名前さえ
も出なくなっていた。
③の散歩は、それまでは家の近所を一人歩きしていたが、足をねん挫した
のを機にやめていた。もしかしたら道を間違えたり帰り道が分からなく
なったことがあったのかもしれない。
この日課は二年ほど順調に続いた。
母は娘と共有する時間を楽しんでいる様でもあった。同じ屋根の下に暮らし
ながら淋しい思いをさせていたのだぁと痛感した。
以前、私たちの所を訪れていた頃はせいぜい長くて一か月。その間は一応
お客様扱いの母中心の生活だったが、同居が始まってからはどうしても
自分たちの時間を優先してしまう。夫婦間の会話は英語、子供たちが独立
してからは話し相手も少なくなり、言葉も通じない一人の外出も儘ならない
国で、社交的だった母が自分の部屋に籠りがちになった。だんだんと口数が
減り、それが結果として失語症につながったのかもしれない。
もっと早くそのことに気付いていれば、もっとちゃんと母の行動を注視
していれば・・・
外出の支度に異様に時間がかかったのも、化粧品や入れ歯洗浄剤の消耗量
が半端なかったのも、数分前の事も忘れ一連の動作を延々と繰り返す、
認知症特有の行動だと判ったはずなのに・・・
後悔を打ち消すように私は極力母と過ごす時間を増やすことにした。
シニアの会にも付き添い、積極的に入浴や着替えなどの日常生活を介助
するように心がけた。私自身この病を理解し母の状態を受容できたことも
あって心にゆとりができ、この時期は優しい娘になれていた気がする。
それを感知したのか母の状態も安定、自ら進んで日課をこなし急激な変化
も問題行動もなく順調な日々だった。そのまま穏やかに時間が過ぎて行く
ものとばかり思っていた。
が、そうは簡単に問屋は卸してくれないw 良好な二人の関係は壮絶な
バトルへと・・・