予兆
移住から5年が経過しやっと老人医療保険に加入することができた。
これを機に、叔父の家に置いたままの住民票や年金の直接送金など、
生活の基盤をすべてこちらに移す手続きのため母と二人で帰国した。
2010年の秋———
10日余りの短い滞在中に、各役所回り、父の墓参り、買い物、温泉…
83歳になった母にとってはかなり強行軍のスケジュールになってしまった。
帰国後、持病の糖尿病が悪化し腎機能が低下したため体内に水が溜まり、
体重が一気に10キロ以上も増加。アメリカに来て以来はじめての入院と
なった。幸い3日間の治療で体重は元に戻り退院できたが、あの入院を境に
認知症の症状が顕著になったように思う。
今思い返せば、その前年くらいから認知症の『中核症状』と呼ばれる行動は
すでに始まっていた。だが物忘れや物の名前が出てこない、動作が鈍くなる
などは単に加齢による老化現象、年相応の耄碌だと決めつけていた。
いやもしかしたら、自分の母親が"痴呆症"などとは思いたくないがために、
目を背けていた部分があったのかもしれない。
当時母は月に一回、日系アメリカ人や在留邦人のシニアの集まりに参加して
いた。日本に居た時のように交通機関を利用し自分一人で外出することが
ままならないこの国で、唯一娘と離れ単独行動できる日だった。
綺麗に着飾り得意の料理を持ち寄ってワイワイガヤガヤやるだけの集いたが、
毎月その日を楽しみにしていた。
ところが退院後は外出時の身支度に異常に時間がかかるようになり、会への
出席も料理を作るのも億劫がるようになった。服装のコーディネートや化粧、
料理の手順、使い慣れた電子レンジの操作(暖めるだけのレンチン)さえも
おぼつか無くなりイライラすることが多くなった。
好きだった日本語チャンネルのテレビドラマもストーリーが追えないのか、
虚ろな眼差しで眺めているだけのこともあった。
『わたし本当にバカになったわ』—— その頃の母の口癖だった。
おそらく自分の中で起こりつつある変化(ボケ症状)に戸惑い混乱していた
のだろう。
その年の暮れ、認知症の『周辺症状』を示すような出来事があった。
当時二人の子供はすでに家を出ていた。長女は結婚し他州へ、長男は東部の
大学院へ進学。クリスマス休暇にはそれぞれ一週間ほど帰省し、3人暮らし
の静かな我が家はいつになく賑わう。
ある日、偶々母が昼寝中だったので夫一人を家に残し私たちは近くの店まで
買い物に出かけた。半時間ほどして夫から私の携帯に電話がかかってきた。
目を覚ました母がベッドの上で泣き喚いている、と困惑した夫の声。
急いで帰宅した私が目にした光景は、
『わたし一人をのけ者してぇ~‼』
『母親にこんな仕打ちをするなんてぇ~‼』
まるで駄々っ子のように泣きじゃくる母の姿—— とてもショックだった。
同居生活が始まってから周期的に口喧嘩はあった。
いくら親子とはいえ自由気ままな一人暮らしをしていた母と、嫁姑の
煩わしい生活とは無縁だった娘が一つ屋根の下で四六時中一緒に居る
わけだから、お互いストレスが溜まる。
『こんなところに来るんじゃなかったわ!』
『だから温泉付きの老人ホームにすれば良かったんじゃない!』
大声で言い合いお互いストレスを発散させた後は何もなかったように、
ケロっとするのがそれまでのパターンだった。が、今回は何か違う…
『認知症』をネットでググると母の症状・行動に見事に当てはまる。
『まさか自分の母親が…』
認めたくなかった思いが徐々に確信に変わり、年が明けてから
母を連れて主治医のもとを訪れることにした。