プロローグ
その昔、私がまだずっと若い頃こんな光景を目にしたことがある。
ファミレスの隅っこのテーブルに親子と思しき男女。
高齢の母親が食べ物を溢すと中年の息子が『ダメじゃないか!』と声を荒げ
老婆の手をぴしゃりと叩いた。
粗相をしたくらいで何もそこまで… 母親にもう少し優しくできないのか!
ずいぶん酷い息子だなぁと心の中で呟いた。
だけど、今ならあの男性の気持ちが良く解る。
———年老いた母親に同じようなことをしている自分がいる。
その昔、テレビドラマの中でこんなシーンを観たことがある。
『私は確かに人を殺しましたが罪を犯したとは思っていません』
重度認知症の実母を安楽死させた女医が、自首した際に凛として検察官に
放った台詞だった。
いくらなんでも実の娘が母親を手にかけるなんて… 尊厳死などありえない!
テレビ画面に向かい熱くなったりもした。
だけど、今ならあの言葉の意味が少し理解できる。
———日に日に壊れてゆく母に、ふと同じ感情を抱く自分がいる。
その昔、『恍惚の人』を読み終えた母が顔を顰めてぽつりと言ったことがある。
『人間ああなったらお終いね』
所詮は小説の世界の話だから… そんなの現実にはありえない!
一笑に付す自分がいた。
今、あの主人公に限りなく近づいている母親がいる。
———そして、程なくあの頃の母と同じ年齢に達する自分がいる。
母が認知症と診断されて5年になる。
日本で言うところの要介護認定のどれに相当するのかは定かではない。
寝たきりではなく家の中をゆっくりと歩ける程度の身体能力はあるが、
頭の方はかなり痴呆が進んでいる。言われたことは辛うじてできる。
言い換えれば、指示が入らないと自分の意思では何もできなくなった。
思考力も判断力も理性さえもどこかに置き忘れてしまったように・・・
まだ娘のことを認識できる。が、二人の間にかつてのような母娘の
会話は、もはや成立しない———。