猫と魔導士Ⅰ
北方地域において、周辺諸国を押さえ込める程度の力を持つある大国の夜。
華やかな王宮において、今日もまた様々な色彩が広間を舞い踊る
数日前まで、疫病に悩まされていた国とは思えない絢爛さであった。
まぁ、王侯貴族というものは、喉元過ぎればなんとやら、自らに降りかからなかった不幸に関しては存外簡単に忘却してしまうものである。
その中でも、一際他人の目を引く美しさと肢体に、人々の目はちらちらと好色な目線を向けては密やかな噂話に興じる。
噂の元といえる美女は、鮮やかな紅の髪を結い上げ整った顔立ちに、低めの身長を思わせない猫のような悪戯っぽそうな緑の瞳、綺麗にくびれた腰に豊かな胸元は、いつも深い色合いのドレスを纏い、男性からの愁派にはそうそう靡かないという高嶺の花。
だが、普通に会話をするのであれば、女性特有の陰湿さもなくまさに姉御肌といったさっぱりとした性格と、社交界では猫の紋章を戴くキャット家ということもあり、別名レディ・キャットと呼ばれて親しまれている。
数年前に亡くなった元王妃の筆頭秘書官を勤めていた為に、その人脈も未だ健在である。
例え、彼女の実年齢が三十二歳で一度も婚姻したことのない未婚であったとしても、艶めいた噂事に事欠かないのは、彼女のその背景と実年齢よりも若く見える見た目に加え、最近持ち上がった彼女の悩み事の一つが拍車を駆けていた。
しかし、今日の舞踏会においては、彼女の息抜きに少し役立っている存在があった。
丁度、知り合いとの挨拶が途切れたところで、彼女は手にした扇で口元を覆いながら、ちらりと視線を国王の側へと向け、件の人物を眺めてみた。
「本当に美しいこと…あれならば押し倒せそうな気もするけれど、魔導士では仕方ないわねぇ」
他人が聞けば驚きに身を引くような発言だが、幸いなことに誰も耳にしていなかった。耳にしていたところで、気にする彼女ではないが。
基本的に魔導士と婚姻を結ぶ相手は、魔導士同士か中央に住む人間が多いのだ。しょっちゅう調停で大陸中を飛び回っているのが魔導士な為、中央から離れた相手とは滅多に共に居ることが出来ないからという事もあるが、どこの国にも属さないという魔導士の理念もあるからだった。
「あら、こちらにいらしたのですね、レディ・キャット。この度はご不幸に遭われて、お悔やみ申し上げますわ。でも、まだ喪も明けぬうちからこの様な場に来て大丈夫?」
広間の片隅に居た彼女を見つけて近寄ってきた婦人に、僅かに視線を落として陰を作るふりをし、レディ・キャットは濡らしてある綿を密かに見えないように持ち、目元を湿らせてから婦人の方へと視線を向ける。
相手には、僅かに潤む瞳となって見えることだろう。と、計算をしながらも。
「お気遣い痛み入ります、ルート子爵婦人。ですが今日の主賓は、疫病を鎮圧してくださった魔導士様です。私の父は間に合わなかったとはいえ、国を救って頂いたのですから感謝の気持ちだけでも…」
そう嘯く(うそぶく)のだが、実際は国王に直々に招待を受けたのだ。どうやら、元宮廷勤めしていたために仕事があるようだ。内容は招待状には載っていなかったが、来た時点で大体の見当が付いてしまった自身に、レディ・キャットは溜息を堪えるしかなかった。
「そう、そうよね。キャット伯爵には運がなかったと言ったら申し訳ないけれど、疫病が治まって本当によかったわ。貴女も気を落とさないでね」
優しく聞こえる言葉を投げかけてくれるルート子爵婦人だが、レディ・キャットの方はそういえばまだ居たなと頭の片隅で思いながら、目を数度瞬かせて乾きかけた涙を浮かべる。
そうだった、そうだった、未婚の息子持ちとは大体挨拶が終わったと思っていたが、この婦人も未婚の息子がまだいたわー…と彼女は思い出しながら、上手く交わすべく目元に神経を集めると、涙を浮かび上がらせてそっと頬に流れさせる。
実に見事な嘘泣きである。演劇でも行えそうな女優っぷりだ。それがある程度大きい国の宮廷の実情でもある。
「も、申し訳ありません。父の事を思うと…このような顔を皆様に見られては恥ずかしいので、失礼させて頂きますわ」
「ああ、レディ・キャット、思い出させてしまってごめんなさいね。また、貴女の心が落ち着いたらお話いたしましょう」
暗に息子との婚姻話だろうとは、落ち着いてからでも御免被りたいと思うレディ・キャットの心情に気付く事ない婦人の側を離れて、広間の更に壁際へと移動することが叶った。
「全く、父が死んだ途端にどこの家も息子を押し付けてこようとして…幾ら、私が適齢期過ぎていても選ぶ権利はあると思うのよね」
やはり扇で口元を隠しながら、言葉を音に出さずに唇の動きだけで文句を言いながら、本来の目的を果たすべきかと、再び彼女は国王の方へと視線を向ける。人の流れ、人の配置を眺めた後、最短で邪魔が入らない道程を思い描き、レディ・キャットは国王の側へと歩みだした。
レディ・キャットが思い描いた通り、誰にも邪魔されることもなく。
まるでその様は、優美な猫のようであった。