序章
序章
初秋を向かえ大陸中央でも、そろそろ木々が色付き初めていた。
大陸南方であれば、未だ暑さに耐える日々であろう。
だが、大陸の北方における一国家であるハスティ国では、朝晩の冷え込みがきつく感じられる時期である。
その為、自然の恵みが最も感じられる時期でもあった。
人々は森へ山の幸を収穫に、田畑は穀物の刈り入れ時を過ぎて果物が鮮やかに実っている。
そんな豊かな大国のハスティ国だが、時期外れのような疫病が流行っていた。
直ぐに国王の判断で魔導士教会へと、疫病の鎮圧を願う勅旨が旅立ったが、目の前の寝台に横たわる人物には、どうやら間に合いそうもなかった。
これといって優れた人物でも劣った人物でもなく、凡庸と言えばそれまでだが、人好きのする性格で領地を治めていた一人の男の、命の灯火が今まさに掠れ消えていこうとしている。
その寝台を見つめる女性は、黒に一滴の紅を落としたような濃い色合いのドレスを纏って、医師や侍女の邪魔にならないようにと、壁に縫い付けられたように微動だにしなかった。
瞬くこともなく、最後を見届けるかのように緑の眼差しは寝台の上へ。
そして、医師が溜息と共に呟いた一言。
「手を尽くしましたが、息をお引取りになりました」
その言葉に、漸く壁から開放されたかのように身じろいだ女性の、鮮やかな紅の髪が揺れた。
医師の手が、患者の手を組み合わせて胸の上に置く。
「医師殿、ご苦労様でした。皆も、ご苦労様です。医師殿の指示通り消毒をして休憩を取りなさい。この部屋は、暫し人の出入りを禁止致します」
硬い声音でドレス姿の女性は皆に指示をすると、医師へと深く一礼して全員が部屋を出て行くようにと命令しなれた仕草で手を揺らした。
「医師殿、後の事については休息をお取りになった後に、執事から話しをするように指示しております。最後まで、ありがとうございました」
侍女達が皆、部屋を出ていき、医師と二人残された部屋で女性は、そう言うと感謝に再び頭を下げると、美しく結い上げられた髪から解れた一部が揺れた。
この国でも有数の美女と言われている女性である。
その僅かに解れた髪ですらも、美しく人の目には映る。
「レディ・キャット様、貴方のお父上は領民にはいい領主でした。私もその恩恵を受けてきた一人です。お助けすることが出来ず残念でしたが、私ごときが領主様の最後を看取れた事を感謝致します」
壮年の医師はそう言うと、室内に残った女性レディ・キャットに深く頭を下げて部屋を出て行った。
レディ・キャットは、毛足の長い絨毯の上を足音無く歩き、寝台の傍らに立ち尽くすと、最後は眠るように息を引き取った父親の顔を眺めた。
本来であれば、現在流行っている疫病の最後は、苦しみ抜いて死んでいくのに、医師の手当てのおかげで苦しむことがなかったのだ。
苦悶の表情もなく、穏やかな生前の人柄をそのまま偲べる。
「お父様、少し早い旅立ちでしたわね」
ぽつりと、それだけ呟くとレディ・キャットは自らのレースの絹のハンカチーフを父親の顔にかけた。
父親が死んだ今、領主不在の領土と父親の遺産が、下心たっぷりの貴族達に狙われるのだ。
レディ・キャットは女性であるが故に、領土も遺産も相続権はない。婿養子を取ることによって、ようやくその両方を相続する事が出来るのだ。
領民を守る為に、どうするべきかに悩むレディ・キャットには、哀しみという感情がなかった。
自らも室内を出て、最後にゆっくりと扉を閉めた音だけが、乾いた音を微かに立てた。