三話 愛の英雄、その偉業
「おーい、いつまで寝てるんですかー? いい加減起きてくださいよー」
うーん、なんだ? うるさいぞ。
「ねえ、聞いてます? こんなとこでずっと寝てたら風邪引いちゃいますよー? そうなったらワタシも幾分責任感じちゃうじゃないですかー」
だからうるさいって。誰だ、この僕の睡眠を妨げるのは。
ちゃんと適度な時間眠らないと、美容と健康に悪いじゃないか。それに睡眠不足は翌日の活動を妨げる原因のひとつに――――
寝ぼけた頭でそこまで考えたところで、意識が一気に目覚めた。
「おはよう! ……やっぱり夢じゃなかったか」
覚醒と同時に朝の挨拶をし、現状を再認識する。
「お、ようやくお目覚めですね。おはようございます。案外礼儀正しいんですね」
「当たり前だろう。挨拶は基本的なことだ。それすらもできん奴は最低の人間だ。お前は一応、ラインをクリアしているようだな」
挨拶を返してきたニムニムにそう答え、改めて周囲を見渡す。
僕たちが今いる少し開けた場所以外は、どこを見ても木、木、木。やっぱり森の中だ。 次に自分の服装を確認する。
夕べ、かどうかは知らないが、床についたときのままだ。
出歩くには不都合のある格好である。
「お褒めにあずかり光栄ですね。ところで、額はどうです? もう大丈夫みたいですが」 そうだ! 失神の理由を思い出した! この羽虫によって傷つけられた僕の美しい顔が――――ってあれ?
「治ってる、みたいだな」
額に手を当てて見るが、乾いた血がぱらぱらと落ちはするものの、痛みは全く感じない。
「なあ、僕はどれぐらい眠ってたんだ?」
「そんな大した時間じゃないですよ。ほんの三十分ほど」
ううむ、たったその程度の時間で傷が治るはずがない。まさか。
「お前、もしかして僕に魔法を」
「かけるわけない、って言うか、さっきかけられないって言ったでしょ。君、自分で自分に治癒魔法かけてましたよ。寝てたのでもちろん無意識でしょうけど」
ワッツ? 魔法? この僕が?
「それにしても、見事なものでしたね。あんな強い自己愛の魔法なんて、ヤツ以外ではワタシ初めて見ましたよ」
自己愛の魔法だと?
「お、不思議な顔してますね。良いでしょう、教えてあげます。愛は、何も他人にばかり向くものじゃないですよ。君のように強く己を愛する人間は、自分にも魔法をかけることができます」
ほう、なるほど。つまりこの僕が自分に向けている愛が、この世界ではそのまま力になるということか。
「ひっかかるところはありますが、そんな感じの認識でいいです。まあ、そこまで強烈な自己愛の持ち主は、なかなかいませんがね」
む、なるほど。思考を読まれるのは相変わらずウザイが、なんとなく理解できたぞ。
「さて、現状の認識はおっけー? いいならそろそろ行きましょうか」
「行くって、どこにだ?」
「決まってるじゃないですか。街ですよ。ずっと森の中にいたいってんならそれでかまいませんけど」
ほー、ここが異世界の街か。もっと古くさいのかと思っていたけど、なかなか良い感じじゃないか。
森から出たあと、大した距離も歩かずに僕たちは最寄りの街にたどり着いた。
割と規模が大きく、それなりの市場まで出ていたのに驚かされているところだ。一言で感想を言うなら、よくある中世ファンタジー風の町並み、といったところか。きれいに敷き詰められた石畳の道に、石造りや煉瓦作りの家が並んでいる。
「今日はお祭りの日なんですよー。偉大なる英雄アンの月命日なんです。当日と前後の日を合わせて三日間、あちこちの街でバザーが開かれてますね。今年はアン様が亡くなられてからちょうど十年目なので、祈念の意味を込めて特に盛大になってます」
ふむ、通りでそこかしこに例の世界を救った英雄とやらを称える文言がのぼりやら垂れ幕やらに踊っている訳か。
『偉大なるアン万歳!』『世界中に愛を与えてくれた英雄アン』『アンの愛を忘れてはならない』etc……
「ふん、くだらん」
「ヘイ、聞き逃しませんよ! くだらんとはどういう事ですか!」
ぼやきとも独り言ともつかない僕の呟きに、ニムニムが激しく反応する。
「くだらないからくだらんと言ったまでだ。アンだか愛だか知らないが、もう存在していない人間をここまで美化し、崇めている理由が僕には分からんね」
「っかー、これだから自分のことしか愛せない人間は! いいですか、そもそも愛というものはですね……」
「ええい、うるさい。お前の小言なんか聞きたくもないわ。それよりも、僕をこの街に連れてきた理由を教えてもらおうか」
またもぐだぐだと説法を始めたニムニムを一喝して黙らせ、話を本題へと引き戻す。わざわざ異世界くんだりまで僕を引っ張ってきたからには、奴なりに何かさせたいことでもあるのだろうという勝手な推理だが。
「しかたないなあ。じゃあこの話はまた今度ってことで」
「今度も何も、いつだってノーセンキューだ。いいから早く説明しろよ」
「分かりましたよ。とりあえず、君に会ってもらいたい人がいるんです。すぐ近くに住んでるので、着いてきてください」
そう言ってニムニムは僕の少し先をずんずん飛んでいく。
その背中を見ながら、なんだかこの街に入ってから少しイライラし始めているのに気付いて少し感情を落ち着かせるよう努める。
原因は分かっている。さっきからやたらと目に入ってくる、英雄アン賛美の文句だ。
死後十年経ってもこれほど多くの人に影響を与え続けるのだから、さぞかし大層な人物だったのだろう。
ただ、その人々の心に残っている力が『愛』だというのが気に入らない。全く持って気に入らない。
愛なんていうのはそんなに撒き散らすものではない、と僕は考えている。ましてやそれを無償で、無制限に、世界中のありとあらゆる人間に対してだなんて、考えられない。
そんなことを公言できるのは、おそらく稀代の詐欺師ぐらいだろう。
思索にふけっている間にもニムニムは進んで行き、やがていくつ目かの角を曲がったところにある一軒家の前でぴたりと羽を止め、僕の方を向き直った。
「ここです。ちょっと待ってくださいね。……エアリさーん、いらっしゃいますかー?」
エアリ。この家の主の名前だろう。しかし、街に入ったときも思ったが、この世界では妖精と人間はこんなにもフランクなお付き合いをしてるのだろうか。普通、ファンタジー世界の妖精といえば、人前に姿を現さず悪戯を仕掛けてくるというのが定番な気がするのだが。
「はいよ、どちらさん……おや、ニムじゃないか。久しぶりだね、どうしたんだい?」
家の中から出てきたのは、巨大な女の人だった。いや、身長もそれなりにあるのだが、横幅がすごい。僕の倍以上あるのではないか。
腰で絞られている麻の貫頭衣の上から着古したエプロンを身につけ、料理中だったのか手にはおたまが握られていた。
「突然で申し訳ないんですが、今日はお願いがありまして。しばらくコイツの面倒を見てやってもらいたいんですよ」
へ……?
「なんだい、また拾ってきたのかい。しかも今回は人間ときたもんだ。ま、いいよ。あたしで良ければ、いつだって力になるさ」
ちょ、ちょっと待て。なんか当事者の僕抜きで話が進んでいくんだけど。
「というわけです。君は今日から、このエアリさんのお宅にお邪魔してください。ああ、心配しなくても、ワタシも一緒です」
「とりあえず、その変な格好から何とかしようか。なあに、心配はいらないよ。うちにはたくさん服があるからね。さ、こっちだよ」
エアリさんとやらのあまりの勢いに逆らう間もなく、家の中へとどんどん腕を引かれていく。
ニムニムもちょろちょろと着いてきているようだ。
「ああ、そうだ。挨拶が遅れたね。あたしはエアリ。エアリ・ウィーンゼルヘ。あんたは?」
「ぼ、僕は……僕の名前はナルだ」
突然の自己紹介に、思わずクソ真面目に答えてしまった。まあフルネームじゃないけど、そこはよしとするか。
「ナルね。良い名前じゃないか。これからよろしく頼むよ」
僕の返事に、エアリさんはにっこりと笑って答えた。
これが、僕をこの世界に引き込んだ張本人であるニムニムを除き、この世界に来て初めての出会いだった。
執筆担当:秘密