二話 本の異世界と"愛の魔法"
見るからに汚らわしい犬がそこにいた。
唸り声を上げて牙を剥き出し、まがまがしい金色の瞳を輝かせてこちらを睨みつけている。いわゆる威嚇をしている。おまけに少々サイズがでかい。
おかしい、なぜ僕の家に犬がいる。畜生を飼い始めた覚えはない。
そもそも犬は嫌いなんだ。臭いところがまずは受け付けない。それと年中抜け毛に悩まされるのも頂けない。
なにより、遊んでほしさに飛びかかってくることがあるではないか。それが大型犬なら、そして背後からとなれば人間など呆気なく下敷きにされてしまう。というか友達のバカ犬にそれをやられて死ぬほどブチギレた過去がある。
あろうことか、この僕の顔を地面なんぞに擦り付けやがって。
さきほどの衝撃もこいつが犯人で間違いない。だから犬は嫌いなんだ。もう少しであの時の二の舞になるところだった。
なぜ僕の家に薄汚い犬が、しかも大型犬がいるかは後回しだ。速やかに排除しなければ。というかここ家じゃなくて森だ。太い木々に囲まれていて、湿度の高い空気が肌に張り付いて冷たい。地面の草露がスリッパを濡らしてとっくにぐちょぐちょだった。
いや待て、なぜ僕は森にいるんだ。
どこだここは、なぜ犬が目の前にいる。いや犬は後回した。問題は、どうして先ほどまで我が家にいた僕がこんな密林に突っ立っているのかだ。
服装はパジャマにスリッパの家着スタイル。この恰好を鑑みれば室内にいたことは確定的に明らか。夢遊病など患った覚えはないし、そうだとしても徒歩で移動できる距離にこんな大自然はない。
いやまずは落ち着こう、犬も後回しだ。畜生というのは目を合わせている限りいきなり飛びついてくることはないとテレビで紹介していたのを見たことがある。
「オマエ、ダレダ。ワタシノナワバリニ、チカヅクナ!」
シャベッタ。
すぐさま辺りを見回した。ありえない、犬は喋らない。ということは、どこかで吹き替えを行った者がいる。この森の中に俺以外の人間がいる。
しかし妙に明るい月光に照らされるこの空間には、背後にもう三頭の犬がいたぐらいで特に人影は見えなかった。
「コロバシテヤル!」
「うわ!」
咄嗟のことだった。思わず視線をずらしてしまったために襲いかかってきた犬畜生の気配が、すぐ背後に迫っているのを感じた。
だから僕は振り向き様に、渾身の裏拳で奴を迎撃してしまったのだ。
「ギャウ!」
柔らかい感触、そしてすぐに硬い感触。肉の壁を挟んで骨の硬さが拳に伝わる一撃は、この状況下で想定しうる最高のインパクトなのではないかと思うほど綺麗に決まった。
その光景がスローモーションに見えた。凶悪な牙を見せびらかして食らい付こうとする犬の顔面が髭の本数まで数えられそうなほどはっきり捉えることができた。そこへ振り向いた勢いに乗せた拳を、奴の下顎目がけて振り抜いたのだ。
フルコン空手では顔面への殴打は禁止とされているが、このような状況下ならば止むをえまい。
「僕に牙を向けた報いだ」
ビクンビクンとヤバそうな痙攣を続ける犬に対してそう唱える僕だが、警戒を解くことはない。足を前後に広げ踵を上げて、猫足立ちの構えを取った。
それにしても僕が空手を習い始めた原因を相手に、まさか空手で対処できる日がこようとは夢にも思わなんだ。
地べたに這いつくばるあの屈辱の日から、奇しくも自衛の重要性を悟った。以来通信教育で空手を専攻して鍛錬を続けていた甲斐があったというものだろう。メキメキと上達する自分の実力を知りたくて大会に出場した時はあっさりと優勝してしまうほどにまで練り上げたのだから。
「なにしてんだこらあああああああ!」
怒声が森の木々に反響する中、またも背後に飛び込んでくる気配を感じて裏拳を合わせた。
スローモーションの世界で拳の行き先を視認する。そして思いがけない相手に僕は驚愕の声を上げることとなった。
「おお!?」
そこにいたのは、人間……?
しかしそれはあまりにも小さかった。小さすぎた。おまけに羽も生えて、こちらへ突っ込んできている。
スローモーションの世界でもわかる猛スピードで向かってくるその物体を、僕はどうすればいいのか迷った。撃ち落とすか、捉えるか、避けるか。
その思考がまずかった。何も考えずにあのまま振り抜いてしまえば良かったと、今まさに後悔するはめになる。
戸惑いが生んだ隙をこの小さな人間は見逃すことをせず、僕の額に見事タックルをブチ当ててきた。
衝撃に首が仰け反り、そのまま水分を多く含んだ地面に仰向けで倒れてしまう。一瞬にして背中がびしょびしょだ。そんなことを思っている暇もなくまたも怒声が聞こえてくる。
「キミという奴はあああ! お母さんになんてことしてくれるんだあああああああ!」
大声と共に眼前に現れたこの小さな人間に対して、僕はまたしても驚きの声を上げるのだった。今目撃している現象を易々と受け入れられそうもない。こいつはまるで、妖精じゃないか。
おそらく頭の上にハテナマークが浮かんでいたのだろう。その妖精は一つため息をついて小さな指先をある方向にさした。
「カーチャン! カーチャン!」
犬の副音声が聞こえるその方向を僕は見やる。そこには背後にいた三匹が、僕が殴り倒して横たえる犬をとり囲んでカーチャンカーチャンと呼び続けている光景があった。
「よく見ろ、母を想う子の姿を! あれが、あれこそが愛だと思わないか!?」
何かを力説する妖精の言葉に少しばかり罪悪感が募る。いや、でも突然襲われたのは僕だし、あれは正当防衛なはずだ。というかそれ以前に。
「お前誰だよ」
「ワタシか!? ニムファ・ニムフェこと愛しのニムニムと呼ばれるワタシのことを問うたのか!?」
「いや知らんし」
なんだこいつ、テンション高くて口うるさい。小さいためか高音域を発していて、さらに大声なものだから鼓膜が痺れて煩わしい。
一言で表すならウザい。
「そんなことよりあれを見ろ! 今のキミには見せておかねばならない! 見ろ! そして感じろ!」
またも犬を指さすこの妖精に、僕は嫌々ながらも従った。動物愛護の精神というわけでもないが、弱った動物をまじまじと見たいものだとは思わない。それが不可抗力とはいえ、自分で痛めつけた相手ならなおさらだ。
しかし嫌悪感よりも、母親犬の身体が発光している不思議な現象に僕は目を奪われたのだった。
「カーチャン! ゲンキニ、ナッテ! アオォオオーン!」
三匹の雄たけびが森に木霊する。母親の発光はより輝きを増し、そして十数秒かけてゆっくりと減衰していった。
光が治まると同時に、母親がむくりと起き上がる。そしてこっちをチラ見して、とぼとぼと森の奥に消えていった。
流石は獣だ。あれくらいの一撃では致命傷たりえなかったか。
「違うでしょ!? 今の光景を見た感想が獣の耐久力を称えるっておかしいでしょ!?」
妖精ニムニムは頑なにうるさい。
「ああ、確かに光ったのは凄い。あとあれ完璧に喋ってるよな。驚きだ」
「そこじゃなくない!? わからない? 本当にわからないの? あれこそが愛の体現でしょうが! 子狼の愛が魔法となって、母親狼を回復させんだよ!」
あれ、狼だったのか。
というか先ほどから胸糞悪い言葉を吐き連ねてくれるこいつは、本当に何者なんだ。愛の体現? 魔法? まるであのいけ好かない絵本の内容とページ数のようだ。てんで薄っぺらい。
「んだとこらあああああああ! もう一発かますか! ああ!? 絵本が薄いのはそういう設計なんだから仕方ないだろうがあああ!」
やいやいと煩わしいこの口調をまずはどうにかしてくれないだろうか。
というか今、僕は一言も言葉を発していなかったような。人の思考にいちいち反応しやがって、目立つのに必死な雛壇芸人かよこいつ。
「誰が一発屋だ!」
「言ってない」
そんなことよりも何よりも、聞きたいことが山ほどある。
まずどうして僕はこんな森の中にいるのか。そしてお前の存在。狼が使っていた愛だの魔法だのとかいうものの存在。あれは絵本の中のお話なはずだ。
「おい、ここはど」
「よくぞ聞いてくれた。そしてキミも薄々気付いているんじゃないか? そう! ここは絵本の中。愛の魔法に溢れる平和で豊かなファンタジー世界! そしてワタシは絵本の妖精、愛しのニムニムちゃんでーす!」
僕の思考を読み取ったニムニムは、質問を全て聞くまでもなく全て答えてくれたのだった。鬱陶しい。
そしてなるほど、こいつが絵本の妖精だということは、僕をこの世界に連れてきたのはもちろんこいつだったというわけか。
「おい」
「はいはい」
軽い返事で僕の呼びかけに答えるニムニム。名乗りを上げた満足感からかその小さな顔にはニコニコ笑顔が張り付いている。
「僕を元の世界に戻せ」
「お断りしまーす!」
想定していた言葉だが、本人の口から聞くと憎さ百倍だった。
「なぜって? それはね、キミがなにもわかっちゃいないからさ! 人を愛することの素晴らしさ、尊さ……。ワタシはね、もう我慢ならないのです。これほどまでにに自分勝手でわがままで図々しくて厚かましい自意識過剰な人間がいていいのだろうか? いや、よくない!」
自分自身の事を行っているのだろうか?
「キミだよ!? 自覚なし!?」
なんだとこいつ、この僕を評してその言い草だと?
笑わせてくれる。
「僕が自分勝手でわがまま? 図々しくて厚かましい? はっ、妖精などと未知の存在に最初は驚きもしたが、なんだ、所詮は見た目通りに羽虫のような思考回路か」
「誰が虫か!」
黙ってろ! そう凄むと妖精は驚きの表情を示した。
辺りが静まりかえる。僕の話を聞かせるに値する必要最低限の空間がここに完成した。
「いいか無能。黙って聞いていれば調子のいいことばかり言ってくれるな。しかもここぞとばかりに自意識過剰だと?」
僕はどちらかと言えば自分に対して厳しい方だ。テスト前は勉学に励むし、空手だって手を抜かずに鍛錬をした成果がなければここまで上達はしなかっただろう。自分に対しての評価は誰よりも正確だ。そう、言うなればこれは――。
「自意識妥当……。こと自分自身においての僕の判断はいつだって正しい!」
そして特筆すべきは!
「そして、僕が何よりも強く美しくカッコイイことは紛れもない事実だということだ!」
見ろ、妖精が僕の正しさを前にぐうの音もでないといった様子だ。羽を羽ばたかせることも忘れ、ひらひらと俺の胸の上に落ちてきた。
「だ、駄目だこいつ。早くなんとかしないと……」
そう聞こえた気がしたのもつかの間、妖精は勢いよく起き上がって僕の顔の前まで迫ってきた。
「やっぱりキミを元の世界に返すことはできません! できませんったらできません! キミはこの世界で、愛というもののなんたるかを学ぶべきだ! 絶対そうだ!」
相変わらずのテンションをそのままに、人の話を聞かずにまくしたててくる。そこまでして僕を帰したくないらしい。もしや、僕に惚れてるのか? いい迷惑だ。ほとほと困る。
「誰がだバーカ!」
短くか細い腕を振り上げて平手打ちをしかけてこようにも、ニムニムのつまようじのような短い腕は上体を少しずらすだけで回避できる。他愛もない。
その後何度か攻撃を試みるが全て透かされたこの妖精は、観念したようにため息をついて言葉を放った。
「いいですか、これから君にはある人物にあってもらいます。彼女はこの世界を魔王の手から救った英雄であり、この世界で最も尊いとされる存在です」
「それは……英雄アン?」
絵本で読んだ名前を口にすると、妖精の顔がほころびを見せた。
「お? ちゃんと理解しているようですね。ニムニムは嬉しいですよ?」
「無駄話は置いておいてさっさと本題に入れ」
「くっ、本当に可愛くないなキミは! 本来なら、このワタシを手にとって読んでくれる人々はもっと小さくて無邪気で愛くるしい、キミとは正反対な子達なんだよ!」
無駄話をするなと言うに。僕は奴に軽くデコピンをくらわせると、「あにゃあ!」と鳴いてぽとりと落ちた。
文句を言うぞと勇んだ表情が見えたのでまたデコピンを構えると、何も言わずに歯を食いしばるだけで留まった。よし、うるさくなったら毎回これをチラつかせよう。僕を一人で行かせるはずもないし、どうせこいつが先導するんだろう。
「ん? でも待てよ。アンは死んだんだろ。どうやって会うんだ」
「その通りだよ! 魔王との戦いでアン様は死んじゃったんだ。でも魂は現世に残って、世界中の皆を見守ってくれてるんだ! 凄いだろ!? これこそ愛だろ!?」
いやいやふざけるな。死んでまでなおも愛に束縛されているだと? 身の毛もよだつ。怒りを通り越してもはや憐みの感情すら抱いてしまう。
まるで奴隷だ。愛など、そんなもので縛られるなどまっぴらごめんだ。
ニムニムを見れば、俺の感情を読み取ったことがすぐわかる。こいつは口が減らないばかりか表情が豊かだ。なもので不快をすぐに顔に表すし、そして口でもぶつけてくる。
一言で表すならウザい。
「……よしわかった。アンに会ってやろう。そしてその有難い話とやらを聞いてやる」
「なんで上から目線!?」
「そして! その上で愛などと言う安っぽい代物を盲信するこの世界のバカ共に、この僕が正しい生き方を教えてやろう!」
そのためにアンを愛などではない、この僕の力でねじ伏せて知らしめる。
あの犬畜生をワンパンで沈めたこの僕の力で。
「バカか!? キミはバカか! そもそもアン様に勝てるわけないでしょ! 今は幽霊となっても世界を救った英雄ですよ!? ああもう、もっと狼集めてけしかければよかった! もっと強くタックルかませばよかった! 流血なんかじゃ済まないほど貫通する勢いで! 一度死んだらそのバカ治るんじゃないですか!?」
何を寝言ほざいているんだこの妖精。流血じゃ済まないとか言ったか? そう言えばさっきから額がジンジンする。こいつがぶつかってきた箇所だ。
……まさかとは思うが、僕は恐る恐る手を触れてみた。熱を帯びた額を。
「痛っ」
触れた瞬間ビリっと痛みが走る。まさか、そんなバカな。
指を確認すると、それは赤い液体で濡れていた。
僕の顔に、傷が?
「ニムニムゥウウウウ!」
「はぎゅう!」
奴の名を叫び僕はその身体を鷲掴みにする。苦しそうな声を出していたが、今は加減を気にしている場合じゃない。
なんてことをしてくれたんだ! 僕の顔が!
「愛の魔法で回復できるんだよな! 今すぐやれ、僕の傷を治せ!」
「あぐぐぅ、い、痛かった? そんなに痛かった? ちょ苦しいい!」
いいからやれ、今すぐやれ! 痕が残ったらどうする気だ。
この美しい僕の顔を傷つけるなどという愚行を犯してくれやがって!
「さあ治せ、御託はいい、ナウ!」
「わ、わかったから、落ち着いてって!」
「ナウ!」
「うむむううう……、む、無理っす……」
ホワイ? 何を言っているんだこいつ。狼ですら使える愛の魔法をこいつは使うことができない? こ、これが羽虫の実力なのか……?
『だってワタシ……君の事愛してないもん』
顔の傷を直すことはできない。
そう頭で理解した瞬間、絶望に苛まれた僕の意識は暗転した。
執筆担当:○○△