封印されたなにか
ここはラテライト大陸、トレス。
雪の街ラプラタと始祖魔術士の生誕地グーツムーツの中間にある、時流に乗り損ねた田舎町である。
町の奥には白樺の森があり、最深部には「森の恵みの神」を祀る祠がある。そのそばには、一年中凍ったままの滝があった。
トレスの氷滝。
子どもたちは、夜の氷滝に近づくな、と聞かされて育つ。氷の奥から名を呼ばれても答えるな。答えれば、もう戻れない。
かつてはもっと長い言い伝えがあったらしい。
氷滝の奥に眠るものを、神と呼んではならぬ。魔と呼んではならぬ。兵器と呼んではならぬ。
名は、呼ぶ者の願いを帯びる。
役は、与える者の都合を背負う。
だが、長すぎる時の中で、名を記した石板は欠け、警告は子守唄に混じり、意味だけが擦り減って残った。
夜の氷滝に近づくな。
奥にいる“もの”を起こすな。
トレスの者たちが覚えているのは、もうその程度である。
そして今夜。その禁を破ったのは、王でも魔術士でも邪教徒でもなく、酔っぱらった密猟者の肘だった。
◆
「シトケ君、ちょっと頼みがあるんだが」
その日の昼、町長ノルカ・ソルカの声が役場に響いた。
二十歳になったばかりの女書記、シトケ・イーカゲンニは、帳簿から顔を上げた。栗色の髪を後ろでひっつめ、腰の鍵束を鳴らす、町で一番若く、町で一番使い倒されている役場勤めである。
「町長。その“ちょっと”で済んだ仕事が、今まで一つでもありましたか?」
「白樺の森に、ラプラタの猟師らしき足跡があったそうだ。今は禁足期だろう。ちょっと見てきてくれんか」
「ほら、ちょっとじゃない」
よそ者が禁足期の森で何かをしでかした場合、祠を確認し、札を直し、罰金を取るのは、いつもシトケだった。
「いい加減にしとけ、って私が言うと名乗りみたいになるから嫌なんですよ」
「君の名は実に役職向きだ」
「親に苦情を言ってください」
シトケは外套をひっつかみ、役場を出た。
祠に着いた頃には、もう日は沈みかけていた。供え物は散らばり、賽銭箱は傾き、禁足期の札は根元から折れている。
「はあ……嫌な予感はしたんですよね」
だが、荒らされた祠をそのままにはできなかった。
「まったく。神様だって、荒らされたままじゃ落ち着かないでしょうに」
供え物を拾い、賽銭箱を起こした時、氷滝の方から石を打つ音がした。
引き返して人を呼ぶべきだった。
だが、氷滝に手を出されているなら、今止めるしかない。
「帰ったら、絶対に町長へ残業代を請求します」
夜の氷滝は、昼とは別のものに見えた。月明かりを受けた氷は青白く光り、その裏側に洞穴が開いていた。
洞穴の前には二人の男がいた。一人は細目の男。もう一人は赤い鼻の酔っぱらい。手には酒瓶。
「何をしているんですか」
二人は跳び上がった。
「俺はコーア・クートゥ。ラプラタじゃ少しは知られた男よ」
「小悪党ですか。では罰金もきちんと払ってください」
「待て待て。まだ何も獲ってねえ」
「禁足期です。密猟未遂です。祠荒らしです。洞穴不法侵入です。札の破損もあります。罪状が混雑しています」
「混雑って何だ!」
「あなたたちのせいです」
その時、酔っぱらいが洞穴の奥で黒い石板を掲げた。
「コーアさん、見てくだせえ。なんか高そうですぜ」
「ヨツパ、落とすなよ。絶対に落とすなよ」
酔っぱらいの名はヨツパ・ライ。名は体を表すとは言うが、ここまで表していると、自分から寄せているのだろうか。
石板には見たことのない文字が刻まれ、青白い光が脈打っていた。
「触らないでください」
「へへ、大丈夫ですって。俺ぁ酔ってても手先は――」
ヨツパが酒瓶を抱え直した。
その肘が、黒い石板に当たった。
つるり。
石板が台座から滑り落ちた。
割れた。
氷滝の内側で、夜が裂けた。
黒い霧が洞穴の奥から噴き出した。白樺の枝が一斉に霜をまとい、古代文字が地面に浮かび上がる。
コーア・クートゥが膝をついた。
ヨツパ・ライの酒瓶が凍った。
シトケ・イーカゲンニでさえ、言葉を失った。
洞穴の奥で、息遣いがした。
それだけで、滝の氷が内側から黒く染まる。
それだけで、森の獣が声を忘れる。
闇が動いた。霧が、ひとところに集まっていく。
夜を裂いて流れ出した冷たい息が、そこに立っていた。獣ほどの大きさにも、人の背丈ほどにも、滝の影が地面に降りたようにも見えた。
輪郭はある。
だが、形はない。
目のような黒い穴が、こちらを見た気がした。
口のような裂け目が、ゆっくりと開いた。
洞穴の天井から霜が落ち、足元の氷が細かく鳴る。コーアは終末の前触れだと思った。ヨツパは神罰だと思った。シトケは、ただ寒がっているように見えた。
「小さき人どもよ、我が名は――」
名乗ろうとして、闇の霧が、ぶるりと身震いした。
「……さすがに夜、冷えるのう」
誰も動かなかった。
やがてヨツパが、震える声で呟いた。
「サスガニヨル・ヒエルノー……様?」
「違う」
闇の霧は、心外そうに揺れた。
「夜は寒いと言っただけだ」
シトケは頭を抱えた。
「あなたは誰なんですか」
「我は……誰だ?」
「質問を質問で返さないでください」
「名が思い出せぬ」
「分かることは?」
「寒い。一面、氷漬けではないか」
シトケは目を閉じた。
放置したい。心から放置したい。だが、放置すれば密猟者どもが何かする。町に被害が出る。報告書も増える。
「仕方ありません。町まで来てください。あなたたち二人もです」
「なぜ俺たちまで!」
「いい加減にしとけ。封印を割った当事者だからです」
「割ったのはヨツパの肘だ!」
「肘の管理責任者も同罪です」
「肘の管理責任者って何だ!」
「今決めました」
◆
その夜、トレスの町は眠れなかった。
白樺の森から戻ってきたシトケの後ろに、黒い霧の塊がふわふわ歩いていたからである。歩いていたのか、漂っていたのかは分からない。本人にも分かっていなかった。
コーアとヨツパは役場の物置に縛られた。コーアは三度逃げ、三度シトケに捕まった。ヨツパは二度目の途中で酔いが覚め、自分から物置に戻った。
翌朝には、噂は町じゅうに広がっていた。
「森の神様の使いじゃ!」
「いや、氷滝の精霊だ!」
「顔はあるのか?」
「祭りの目玉にすれば、トレスにも人が来るのでは?」
町長ノルカ・ソルカは、闇の霧を見るなり目を輝かせた。
「シトケ君。これは町おこしになるぞ」
「町長、第一声がそれでいいんですか」
町の灯りを浴びると、闇の霧は少しだけ形を持った。
シトケには、背の高い人影に見えた。髪のような銀白の靄が肩へ流れ、目のあるあたりには夜より暗い穴が二つ浮いている。手足らしきものはあるが、指の数は見ているうちに変わった。
老人には森の神の若い使いに見えた。
子どもには氷でできた大きな獣に見えた。
コーアには値段のつけようもない珍品に見えた。
ヨツパには酒に濡れたありがたい神像に見えた。
シトケには、ただ困っている相手に見えた。
「ところで、あなた。名前は」
「分からぬ」
「帰る場所は」
「分からぬ」
「なぜ封印されていたんですか」
「知らぬ。封印したものに聞け」
「もっともですね」
シトケは帳簿を開いた。
「では、当面は“なにかさん”で」
「雑ではないか」
「サスガニヨル・ヒエルノー様がいいですか?」
「……なにかでよい」
なにかさんは常識がなかった。
朝食の席で、なにかさんは食堂の扉を外し、弁償代わりに皿を洗わされることになった。皿を二枚割り、桶をあふれさせ、それでも妙に真剣だった。
その時、なにかさんが小さくくしゃみをした。
次の瞬間、食堂の水桶が芯まで凍り、客たちのスープには薄い氷が張っていた。
「……今のは?」
「くしゃみだ」
「くしゃみで冬を増やさないでください」
「我にも制御できぬ」
「そこは制御してください。食堂なので」
町人たちは拝んだ。
「ヒエルノー様が水を清めておられる」
「違う。くしゃみをしただけだ」
◆
その夜、祠の前で、なにかさんは空を見上げていた。
シトケは修理費の見積もりを書きながら隣に座った。
「我は、何になるべきなのだ」
「知りません」
「冷たいな」
「最初に寒いと言った人よりは、ましです」
「それは言うな」
「皆、我を何かにしようとする。神。魔物。見世物。道具。災い。だが、我には何も分からぬ」
「誰かに決めてもらうことじゃないでしょう」
「お前は、そう思うのか」
「私は、そう思いたいだけです。名前のせいで、会う人会う人に“いい加減にしとけ”って言わせたがる女だと思われてきましたから」
「違うのか」
「だいたい合っているのが腹立つんです」
なにかさんは、初めて少しだけ笑った。輪郭が柔らかく揺れたので、シトケはそう判断した。
その時、空が暗くなった。
巨大な翼だった。
セントライト山より、銀鱗の竜が飛来した。神話が空から降りてくる光景だった。ただし、着地の風圧で町中の洗濯物が飛んだ。
「いい加減にしとけ!」
シトケの声が広場に響いた。
言ってから、彼女は顔をしかめる。
「ああもう、名前みたいになるから嫌なんですよ、これ」
アルフドラゴンは威厳を保とうとしたが、角に白い前掛けが引っかかっていたので無理だった。
「我は天空の守護者、アルフドラゴン――」
「名乗る前に前掛けを外してください。あと器物損壊です」
「人の子よ、今はそのような小事を言っている場合ではない」
「こちらでは大事です」
アルフドラゴンは翼を広げ、なにかさんを見据えた。
「その者は、世界を滅ぼすために造られた災厄である。我は見た。古き都が、その者の目覚めとともに、一夜で氷の墓標となるのを」
その言葉に応じるように、黒い霧が揺らめいた。
燃える都。
裂ける空。
砕ける塔。
氷に閉ざされた広場。
そして、遠い声。
――目覚めよ、破滅の器よ。
「我は……本当にそのようなものなのか」
「滅ぼされる前に、滅ぼさねばならぬ」
そこへ、物置に縛られていたはずのコーアが物陰から顔を出した。
「待て! 世界を滅ぼすほどなら、なおさら高く売れる!」
「あなた、本当に小悪党みたいなことしかしませんね」
「名前で決めるな!」
「行動で決めています」
町長も小声で言う。
「いや、伸るか反るか――逆に世界を救う方向で町おこしできんか?」
「町長。伸る前に黙ってください」
神と呼ばれた時、なにかさんの輪郭は白い光を帯びた。
災厄と呼ばれた時、黒い角のような影が伸びた。
商品と呼ばれた時、奥に宝石めいた輝きが浮いた。
救世主と呼ばれた時、背に翼のようなものが広がりかけた。
誰かが望むたび、その姿は望まれた形へ寄ろうとした。
シトケが前へ出る。
「名前で人を決めないでください。私だって、この名前だけで、叱り役だの、雑用係だの、勝手に決められてきました。でも、この人はまだ、自分の名前も思い出していないんです」
シトケは、なにかさんを見た。
「なのに、滅ぼすとか、救うとか、売るとか、祀るとか、儲けるとか。本人抜きで勝手に決めるんじゃありません」
「だが、その者は危険だ」
「かもしれません。でも、危険だからって、何をしてもいいわけではありません」
「世界が滅びてもよいのか」
「世界の前に、目の前の一人を物扱いするのをやめろと言ってるんです」
なにかさんは、自分の輪郭を見た。
長い間、隠されていた。
何のために作られたのかも分からない。
何をしたのかも分からない。
名も分からない。
けれど、今ここで、自分を何と呼ぶかだけは、他人に渡してはならない。
彼は初めて、その揺らぎを拒んだ。
「我は、サスガニヨル・ヒエルノーなどではない」
ヨツパが物置の窓から小さく「あ、違ったんだ」と呟いた。
「それは、貴様らが勝手に聞き違えた名だ。神でもない。魔でもない。兵器でもない。災厄でも、救世主でもない」
黒い霧が静かに消えていく。
「我には、まだ名がない。記憶もない。何者であったかも分からぬ。だが、ひとつだけ分かる」
夜風が白樺の森から吹いた。
「我は、封印された“なにか”である。世界を滅ぼすだの、救うだの――貴様らに勝手に役割を与えられるものではない」
誰も言葉を発しなかった。
アルフドラゴンでさえ、牙を見せるのをやめた。
町人たちは初めて、彼を何かの役目ではなく、ただそこにいる一個の存在として見た。
シトケは静かに帳簿を閉じた。
「分かりました。では、“なにか”さん。明日から森の見回りをお願いします」
「……今の話を聞いていたか?」
「聞いていました。役割ではありません。町の者として扱う、ということです」
“なにか”さんは、すぐには答えなかった。
「我は、名も記憶も持たぬぞ」
「知っています。だから、“なにか”さんなんでしょう」
“なにか”さんはシトケを見て、それから遠くの森を見た。
「ならば、しばらくはここにいてやる」
「助かります」
シトケは竹ぼうきを差し出した。
「これは何だ」
「明日の仕事道具です」
「……町の掟とは、厳しいのだな」
「慣れます」
“なにか”さんは、しばらく竹ぼうきを眺め、やがて受け取った。
◆
その後、コーア・クートゥとヨツパ・ライは町へ引き渡された。アルフドラゴンは見守り役となったが、トレス上空の低空飛行は禁止された。洗濯物が飛ぶからである。
翌朝。
白樺の森には、いつもと同じ朝の光が差していた。
祠の前で、“なにか”さんは竹ぼうきを手に立っていた。
「森番という名も、役割ではないのか」
「違います」
シトケは答えた。
「居場所です」
“なにか”さんは、少しだけ黙った。
それから、落ち葉を掃き始めた。
氷滝の奥に封じられていたものは、その日からトレスの森に残った。
世界を滅ぼすためでも、救うためでもなく。
ただ、封印された“なにか”として。
お読みいただきありがとうございました。
創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いします。
今回は、荘厳な封印ファンタジー……の皮をかぶった、田舎町コメディを書いてみました。
世界を滅ぼすかもしれない存在が目覚めたとしても、町には町の都合があり、役場には役場の手続きがあり、壊した扉には弁償が発生します。
名前も、役割も、周りが勝手に決めてしまうものではない。
そんな少し真面目な話を、できるだけくだらない名前とやり取りで包んでみたつもりです。
少しでも笑っていただけたなら嬉しいです。
お気に召した方は、他の短編『続きそうな短編集』もぜひ、ご一読ください。




