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続きそうな短編集

封印されたなにか

作者: 曽我部穂岐
掲載日:2026/06/25

 ここはラテライト大陸、トレス。


 雪の街ラプラタと始祖魔術士の生誕地グーツムーツの中間にある、時流に乗り損ねた田舎町である。


 町の奥には白樺の森があり、最深部には「森の恵みの神」を祀る祠がある。そのそばには、一年中凍ったままの滝があった。


 トレスの氷滝。


 子どもたちは、夜の氷滝に近づくな、と聞かされて育つ。氷の奥から名を呼ばれても答えるな。答えれば、もう戻れない。


 かつてはもっと長い言い伝えがあったらしい。


 氷滝の奥に眠るものを、神と呼んではならぬ。魔と呼んではならぬ。兵器と呼んではならぬ。


 名は、呼ぶ者の願いを帯びる。

 役は、与える者の都合を背負う。


 だが、長すぎる時の中で、名を記した石板は欠け、警告は子守唄に混じり、意味だけが擦り減って残った。


 夜の氷滝に近づくな。

 奥にいる“もの”を起こすな。


 トレスの者たちが覚えているのは、もうその程度である。


 そして今夜。その禁を破ったのは、王でも魔術士でも邪教徒でもなく、酔っぱらった密猟者の肘だった。




「シトケ君、ちょっと頼みがあるんだが」


 その日の昼、町長ノルカ・ソルカの声が役場に響いた。


 二十歳になったばかりの女書記、シトケ・イーカゲンニは、帳簿から顔を上げた。栗色の髪を後ろでひっつめ、腰の鍵束を鳴らす、町で一番若く、町で一番使い倒されている役場勤めである。


「町長。その“ちょっと”で済んだ仕事が、今まで一つでもありましたか?」


「白樺の森に、ラプラタの猟師らしき足跡があったそうだ。今は禁足期だろう。ちょっと見てきてくれんか」


「ほら、ちょっとじゃない」


 よそ者が禁足期の森で何かをしでかした場合、祠を確認し、札を直し、罰金を取るのは、いつもシトケだった。


「いい加減にしとけ、って私が言うと名乗りみたいになるから嫌なんですよ」


「君の名は実に役職向きだ」


「親に苦情を言ってください」


 シトケは外套をひっつかみ、役場を出た。


 祠に着いた頃には、もう日は沈みかけていた。供え物は散らばり、賽銭箱は傾き、禁足期の札は根元から折れている。


「はあ……嫌な予感はしたんですよね」


 だが、荒らされた祠をそのままにはできなかった。


「まったく。神様だって、荒らされたままじゃ落ち着かないでしょうに」


 供え物を拾い、賽銭箱を起こした時、氷滝の方から石を打つ音がした。


 引き返して人を呼ぶべきだった。

 だが、氷滝に手を出されているなら、今止めるしかない。


「帰ったら、絶対に町長へ残業代を請求します」


 夜の氷滝は、昼とは別のものに見えた。月明かりを受けた氷は青白く光り、その裏側に洞穴が開いていた。


 洞穴の前には二人の男がいた。一人は細目の男。もう一人は赤い鼻の酔っぱらい。手には酒瓶。


「何をしているんですか」


 二人は跳び上がった。


「俺はコーア・クートゥ。ラプラタじゃ少しは知られた男よ」


「小悪党ですか。では罰金もきちんと払ってください」


「待て待て。まだ何も獲ってねえ」


「禁足期です。密猟未遂です。祠荒らしです。洞穴不法侵入です。札の破損もあります。罪状が混雑しています」


「混雑って何だ!」


「あなたたちのせいです」


 その時、酔っぱらいが洞穴の奥で黒い石板を掲げた。


「コーアさん、見てくだせえ。なんか高そうですぜ」


「ヨツパ、落とすなよ。絶対に落とすなよ」


 酔っぱらいの名はヨツパ・ライ。名は体を表すとは言うが、ここまで表していると、自分から寄せているのだろうか。


 石板には見たことのない文字が刻まれ、青白い光が脈打っていた。


「触らないでください」


「へへ、大丈夫ですって。俺ぁ酔ってても手先は――」


 ヨツパが酒瓶を抱え直した。


 その肘が、黒い石板に当たった。


 つるり。


 石板が台座から滑り落ちた。


 割れた。


 氷滝の内側で、夜が裂けた。


 黒い霧が洞穴の奥から噴き出した。白樺の枝が一斉に霜をまとい、古代文字が地面に浮かび上がる。


 コーア・クートゥが膝をついた。

 ヨツパ・ライの酒瓶が凍った。

 シトケ・イーカゲンニでさえ、言葉を失った。


 洞穴の奥で、息遣いがした。


 それだけで、滝の氷が内側から黒く染まる。

 それだけで、森の獣が声を忘れる。


 闇が動いた。霧が、ひとところに集まっていく。


 夜を裂いて流れ出した冷たい息が、そこに立っていた。獣ほどの大きさにも、人の背丈ほどにも、滝の影が地面に降りたようにも見えた。


 輪郭はある。

 だが、形はない。


 目のような黒い穴が、こちらを見た気がした。

 口のような裂け目が、ゆっくりと開いた。


 洞穴の天井から霜が落ち、足元の氷が細かく鳴る。コーアは終末の前触れだと思った。ヨツパは神罰だと思った。シトケは、ただ寒がっているように見えた。


「小さき人どもよ、我が名は――」


 名乗ろうとして、闇の霧が、ぶるりと身震いした。


「……さすがに夜、冷えるのう」


 誰も動かなかった。


 やがてヨツパが、震える声で呟いた。


「サスガニヨル・ヒエルノー……様?」


「違う」


 闇の霧は、心外そうに揺れた。


「夜は寒いと言っただけだ」


 シトケは頭を抱えた。


「あなたは誰なんですか」


「我は……誰だ?」


「質問を質問で返さないでください」


「名が思い出せぬ」


「分かることは?」


「寒い。一面、氷漬けではないか」


 シトケは目を閉じた。


 放置したい。心から放置したい。だが、放置すれば密猟者どもが何かする。町に被害が出る。報告書も増える。


「仕方ありません。町まで来てください。あなたたち二人もです」


「なぜ俺たちまで!」


「いい加減にしとけ。封印を割った当事者だからです」


「割ったのはヨツパの肘だ!」


「肘の管理責任者も同罪です」


「肘の管理責任者って何だ!」


「今決めました」




 その夜、トレスの町は眠れなかった。


 白樺の森から戻ってきたシトケの後ろに、黒い霧の塊がふわふわ歩いていたからである。歩いていたのか、漂っていたのかは分からない。本人にも分かっていなかった。


 コーアとヨツパは役場の物置に縛られた。コーアは三度逃げ、三度シトケに捕まった。ヨツパは二度目の途中で酔いが覚め、自分から物置に戻った。


 翌朝には、噂は町じゅうに広がっていた。


「森の神様の使いじゃ!」

「いや、氷滝の精霊だ!」

「顔はあるのか?」

「祭りの目玉にすれば、トレスにも人が来るのでは?」


 町長ノルカ・ソルカは、闇の霧を見るなり目を輝かせた。


「シトケ君。これは町おこしになるぞ」


「町長、第一声がそれでいいんですか」


 町の灯りを浴びると、闇の霧は少しだけ形を持った。


 シトケには、背の高い人影に見えた。髪のような銀白の靄が肩へ流れ、目のあるあたりには夜より暗い穴が二つ浮いている。手足らしきものはあるが、指の数は見ているうちに変わった。


 老人には森の神の若い使いに見えた。

 子どもには氷でできた大きな獣に見えた。

 コーアには値段のつけようもない珍品に見えた。

 ヨツパには酒に濡れたありがたい神像に見えた。


 シトケには、ただ困っている相手に見えた。


「ところで、あなた。名前は」


「分からぬ」


「帰る場所は」


「分からぬ」


「なぜ封印されていたんですか」


「知らぬ。封印したものに聞け」


「もっともですね」


 シトケは帳簿を開いた。


「では、当面は“なにかさん”で」


「雑ではないか」


「サスガニヨル・ヒエルノー様がいいですか?」


「……なにかでよい」


 なにかさんは常識がなかった。


 朝食の席で、なにかさんは食堂の扉を外し、弁償代わりに皿を洗わされることになった。皿を二枚割り、桶をあふれさせ、それでも妙に真剣だった。


 その時、なにかさんが小さくくしゃみをした。


 次の瞬間、食堂の水桶が芯まで凍り、客たちのスープには薄い氷が張っていた。


「……今のは?」


「くしゃみだ」


「くしゃみで冬を増やさないでください」


「我にも制御できぬ」


「そこは制御してください。食堂なので」


 町人たちは拝んだ。


「ヒエルノー様が水を清めておられる」


「違う。くしゃみをしただけだ」




 その夜、祠の前で、なにかさんは空を見上げていた。


 シトケは修理費の見積もりを書きながら隣に座った。


「我は、何になるべきなのだ」


「知りません」


「冷たいな」


「最初に寒いと言った人よりは、ましです」


「それは言うな」


「皆、我を何かにしようとする。神。魔物。見世物。道具。災い。だが、我には何も分からぬ」


「誰かに決めてもらうことじゃないでしょう」


「お前は、そう思うのか」


「私は、そう思いたいだけです。名前のせいで、会う人会う人に“いい加減にしとけ”って言わせたがる女だと思われてきましたから」


「違うのか」


「だいたい合っているのが腹立つんです」


 なにかさんは、初めて少しだけ笑った。輪郭が柔らかく揺れたので、シトケはそう判断した。


 その時、空が暗くなった。


 巨大な翼だった。


 セントライト山より、銀鱗の竜が飛来した。神話が空から降りてくる光景だった。ただし、着地の風圧で町中の洗濯物が飛んだ。


「いい加減にしとけ!」


 シトケの声が広場に響いた。


 言ってから、彼女は顔をしかめる。


「ああもう、名前みたいになるから嫌なんですよ、これ」


 アルフドラゴンは威厳を保とうとしたが、角に白い前掛けが引っかかっていたので無理だった。


「我は天空の守護者、アルフドラゴン――」


「名乗る前に前掛けを外してください。あと器物損壊です」


「人の子よ、今はそのような小事を言っている場合ではない」


「こちらでは大事です」


 アルフドラゴンは翼を広げ、なにかさんを見据えた。


「その者は、世界を滅ぼすために造られた災厄である。我は見た。古き都が、その者の目覚めとともに、一夜で氷の墓標となるのを」


 その言葉に応じるように、黒い霧が揺らめいた。


 燃える都。

 裂ける空。

 砕ける塔。

 氷に閉ざされた広場。


 そして、遠い声。


 ――目覚めよ、破滅の器よ。


「我は……本当にそのようなものなのか」


「滅ぼされる前に、滅ぼさねばならぬ」


 そこへ、物置に縛られていたはずのコーアが物陰から顔を出した。


「待て! 世界を滅ぼすほどなら、なおさら高く売れる!」


「あなた、本当に小悪党みたいなことしかしませんね」


「名前で決めるな!」


「行動で決めています」


 町長も小声で言う。


「いや、伸るか反るか――逆に世界を救う方向で町おこしできんか?」


「町長。伸る前に黙ってください」


 神と呼ばれた時、なにかさんの輪郭は白い光を帯びた。

 災厄と呼ばれた時、黒い角のような影が伸びた。

 商品と呼ばれた時、奥に宝石めいた輝きが浮いた。

 救世主と呼ばれた時、背に翼のようなものが広がりかけた。


 誰かが望むたび、その姿は望まれた形へ寄ろうとした。


 シトケが前へ出る。


「名前で人を決めないでください。私だって、この名前だけで、叱り役だの、雑用係だの、勝手に決められてきました。でも、この人はまだ、自分の名前も思い出していないんです」


 シトケは、なにかさんを見た。


「なのに、滅ぼすとか、救うとか、売るとか、祀るとか、儲けるとか。本人抜きで勝手に決めるんじゃありません」


「だが、その者は危険だ」


「かもしれません。でも、危険だからって、何をしてもいいわけではありません」


「世界が滅びてもよいのか」


「世界の前に、目の前の一人を物扱いするのをやめろと言ってるんです」


 なにかさんは、自分の輪郭を見た。


 長い間、隠されていた。

 何のために作られたのかも分からない。

 何をしたのかも分からない。

 名も分からない。


 けれど、今ここで、自分を何と呼ぶかだけは、他人に渡してはならない。


 彼は初めて、その揺らぎを拒んだ。


「我は、サスガニヨル・ヒエルノーなどではない」


 ヨツパが物置の窓から小さく「あ、違ったんだ」と呟いた。


「それは、貴様らが勝手に聞き違えた名だ。神でもない。魔でもない。兵器でもない。災厄でも、救世主でもない」


 黒い霧が静かに消えていく。


「我には、まだ名がない。記憶もない。何者であったかも分からぬ。だが、ひとつだけ分かる」


 夜風が白樺の森から吹いた。


「我は、封印された“なにか”である。世界を滅ぼすだの、救うだの――貴様らに勝手に役割を与えられるものではない」


 誰も言葉を発しなかった。


 アルフドラゴンでさえ、牙を見せるのをやめた。


 町人たちは初めて、彼を何かの役目ではなく、ただそこにいる一個の存在として見た。


 シトケは静かに帳簿を閉じた。


「分かりました。では、“なにか”さん。明日から森の見回りをお願いします」


「……今の話を聞いていたか?」


「聞いていました。役割ではありません。町の者として扱う、ということです」


 “なにか”さんは、すぐには答えなかった。


「我は、名も記憶も持たぬぞ」


「知っています。だから、“なにか”さんなんでしょう」


 “なにか”さんはシトケを見て、それから遠くの森を見た。


「ならば、しばらくはここにいてやる」


「助かります」


 シトケは竹ぼうきを差し出した。


「これは何だ」


「明日の仕事道具です」


「……町の掟とは、厳しいのだな」


「慣れます」


 “なにか”さんは、しばらく竹ぼうきを眺め、やがて受け取った。




 その後、コーア・クートゥとヨツパ・ライは町へ引き渡された。アルフドラゴンは見守り役となったが、トレス上空の低空飛行は禁止された。洗濯物が飛ぶからである。


 翌朝。


 白樺の森には、いつもと同じ朝の光が差していた。


 祠の前で、“なにか”さんは竹ぼうきを手に立っていた。


「森番という名も、役割ではないのか」


「違います」


 シトケは答えた。


「居場所です」


 “なにか”さんは、少しだけ黙った。


 それから、落ち葉を掃き始めた。


 氷滝の奥に封じられていたものは、その日からトレスの森に残った。


 世界を滅ぼすためでも、救うためでもなく。


 ただ、封印された“なにか”として。




お読みいただきありがとうございました。

創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いします。


今回は、荘厳な封印ファンタジー……の皮をかぶった、田舎町コメディを書いてみました。


世界を滅ぼすかもしれない存在が目覚めたとしても、町には町の都合があり、役場には役場の手続きがあり、壊した扉には弁償が発生します。


名前も、役割も、周りが勝手に決めてしまうものではない。

そんな少し真面目な話を、できるだけくだらない名前とやり取りで包んでみたつもりです。


少しでも笑っていただけたなら嬉しいです。


お気に召した方は、他の短編『続きそうな短編集』もぜひ、ご一読ください。

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