わっしょい幽霊
すこし不思議なお話です。
「お兄ちゃん、起きて」
ゆさゆさと体を揺らされる。うう、やめてくれ。ゆうべ飲み過ぎて頭が痛い……
「遊ぼうよ、ねえ」
夏の少女の朝は早い。
ボサボサの頭をかき上げながら、おれはもぞもぞと起き上がる。せっかく大学が休みだっていうのに、これじゃ普段よりよっぽど規則正しいぞ。
「お兄ちゃん、いもむしみたいだね」
そう言って陽毬が笑う。おれが小学生の頃に生まれた、年の離れた妹。可笑しくなるくらい両親が溺愛しているが、まあ気持ちはわからないでもない。
「いもむしさんは、二度寝します」
「ダメです。起きてください」
ダメですか。そうですか。
おれは廊下を突っ切って台所へと向かう。久しぶりの実家、都会のアパートに慣れた身にはやけに広く感じられる。
「あら、早いのね……うっ、お酒臭い」
台所のテーブルでは、もう一人の妹の美咲が朝食をとっていた。夏休みだというのに、高校の制服を着ている。
「今日、学校?」
「うん、登校日」
ぽつり、と呟く。同じ妹なのに、えらい温度差だ。
「母さんは?」
おれは麦茶のコップを片手に尋ねた。
「朝からお祭りの準備だって」
そうか、そんな時期だったな。町内会の祭り、昔は美咲と行ったものだが……
「私、陽毬と行くけど……一緒にどう?」
ん?一瞬耳を疑う。あの思春期全開だった妹の口から、こんな言葉を聞くとは。ちらっと覗き見た顔が、ちょっと赤い。
「えーっと、考えとく」
照れ臭そうな妹の様子に当てられて、おれはつい答えを濁した。
「陽毬は見た」
台所の入り口から半身を乗り出して、小さい方の妹が深刻そうな顔をする。テレビか何かの真似だろうか?
「何を見たんだ、陽毬?」
おれはかがんで目線を合わせると、頭をそっと撫でた。柔らかい毛が小動物を彷彿とさせる。
「お祭りに行かない人には"わっしょい幽霊"が来ます」
何だそれ?食卓では美咲がクスクスと笑っている。子供らしい大胆なネーミング。たぶん、オバケじゃなくて"幽霊"ってところがポイントなんだろうな。
「なんだか楽しそうな幽霊だな」
おれがそう言うと、陽毬はさらに深刻ぶって言った。
「油断していると、わっしょいされます。ようしゃないです」
美咲が肩を震わせている。おれは不敵な笑みを浮かべて言った。
「ふふ、でもうちの町内にはお神輿は無いよ?」
どうだ、わっしょい出来まい……大人気ないな、おれ。
「お兄ちゃんがお神輿になります」
なぜか威張って言う妹の様子が可愛くて、指で頬をツンと突いた。
「もうそんなにちっちゃくないんだから、あんまりベタベタしないの」
美咲が口を挟んでくる。
「ベタベタしてもいいのです」
陽毬がおかしな口調のまま言った。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
おれはビクッとする。ああ、陽毬とゲームしながら、つい寝落ちしてしまっていたようだ。
「お兄ちゃん、お昼寝する?」
心配そうに顔を覗き込む陽毬。ただの寝不足と二日酔いなのに、なんだか申し訳無いな。
「うん、ちょっと休もうかな。陽毬も一緒に寝るか?」
「もうお姉さんだから、お昼寝はしないの」
うう、なんだか小学生に負けた感じ。ええい、寝てしまえ……
「ちょっとお兄ちゃん、風邪引いちゃうよ」
おれは居間のソファに横になると、目を閉じた。
「もう、しょうがないお兄ちゃんだね」
呆れる妹のそばで、おれは眠りに落ちた。
あれっ、今何時だ?外はすっかり暗くなって、遠くから祭りの音が聞こえる。一体何時間寝てたんだ?きっと陽毬はおれを起こそうとしたんだろうな。
「お兄ちゃん起きて!お祭り行こうよ!」
うにゃうにゃ言いながら寝続けるおれ。
「陽毬、諦めてもう行こう?お姉ちゃんと一緒に」
冷ややかに言い放つ美咲。
「うう、お兄ちゃんのばか……」
あー、やっちまった。何か埋め合わせをしないとな……そんな事を考えていたところ、不意にドアを開ける音がした。
「美咲?陽毬?」
返事がない。しばらくして、暗闇の中、体が浮かび上がる感覚に襲われた。
「ちょ、おい……」
おれの体は宙に浮き、いや、正確には腕やら腰やら、誰かが触っている。
「放せ、おい!」
ごつごつとした大人の男の手がおれを持ち上げている。可愛い妹たちとは正反対の、雄臭い雰囲気。頭の中では、遠くから聞こえてくるような、不思議な声が響いていた。
ーーわっしょい、わっしょいーー
くっ、これが陽毬の言っていたやつか。ドッキリか何かか?そう思うと全然怖くないぞ、このお祭り野郎たちめ!
ーーわっしょい、わっしょいーー
おれは家の外へと運び出された。神輿ーーおれだーーは月空の下、上下に揺れながら進む。仰向けなのがいかにも罰ゲームらしいじゃないか……って、どこへ向かっているんだ?
男たち(?)の掛け声は、祭囃子から徐々に遠ざかり、すすきの野に分け入っていく。おれは草の中で溺れたように、息をつぐので精一杯だった。
ーーわっしょい、わっしょいーー
道無き道のその先に、町で唯一の駅があった。改札?そんな洒落たものはなく、神輿はプラットホームへと雪崩れ込む。これは、「出て行け」ということだろうか?故郷を捨て、祭りにも出ないおれには、もはや居場所がないーーだからここから出て行けと。きっとそうだ……ん?
動きがおかしい。神輿の"担ぐ"感じじゃなくて、体が左右にスイングする感じ。この動きは……
ーーわーっしょい、わーっしょい!ーー
轟音と共に列車が向かって来る。宙に放り投げられたおれの体へと、一直線に。
「美咲!陽毬!」
ああ、祭りに行ってさえいれば……
「お兄ちゃん!お兄ちゃん!」
陽毬の声か?でも、ここが天国なら……
「め、女神さま」
「寝ぼけてるの、お兄ちゃん?」
呆れたような陽毬の声。いつの間にか掛けられていたブランケットの中で、おれはゆっくりと目を開けた。
「浴衣、似合う?」
窓から差し込む夕日に、おれは目を細める。浴衣姿の陽毬がそこに居た。
「うん、よく似合ってる。……えーっと、今日の祭り、お兄ちゃんも行こうかなー、なんて」
「ふふ、わっしょいされた?」
くっ、お前が変な事を言うから、変な夢を……その時、ふと視線に入った、手首を掴まれたような痕。いや、まさかな……
「おれ達もわっしょいしに行くか、陽毬。美咲は?」
「お母さんに浴衣してもらってるよ。っていうか、お神輿は無いよね?」
「ふふ、……陽毬が神輿になるのです!」
おれは今朝方の妹の口調を真似ると、グイッと抱き抱えて持ち上げた。その時、ちょうど着替えが終わった美咲が部屋に入って来た。
「あーっ、またベタベタしてる、もう!」
「わーっしょい、わーっしょい」
ふざけるおれと陽毬。
「ぷっ、幽霊だっけ」
浴衣の袖で口元を隠して、美咲が笑った。
ーーわっしょい、わっしょいーー
すこし不思議なお話でした。