エルダ
翌日。
俺は村へと進み続けていた。道中で知識にあった山菜や果実を見つけては口にして、道中を急いだ。調理道具がない状態では生で食べられる山菜や果実は助かった。カロリーは低いが、それでも何も口にしないよりはいい。
筋肉痛はある程度は落ち着いたが、まだ痛みは残っている。歩く度に痛みが走るが我慢するしかない。
「はぁはぁ、くっそ。歩きにくいな」
草や石、木々がある中を歩くのは体力を著しく奪われる。
精神的な疲労もあり、俺の身体には相当な負担がかかっているようだった。
村へは今日中に到着する予定だ。あくまで急げばだが。
日が暮れるのだけは勘弁だった。空腹はなんとか誤魔化せているが、夜や怪物の恐怖は思い出したくない。一人で森の中、辺りは暗闇。そんな状態ではまともに寝られはしない。
朝から歩いて、休憩を何度か挟みつつ、ひたすらに進み続けた。
何度も道を失った。正直、もうどっちを歩いているのかよくわからなかったのだ。記憶を辿っても、道はわからない。方向音痴なわけじゃない。本当だぞ!
というか森の中の道なんてわかるわけないだろ!
どこも一緒に見えるんだよ!
必死に歩いて八時間。
今日も森で夜を過ごさなければならないかもしれない、そう思った時、突如として視界が開けた。
「む、村! 村だ!」
異世界に来て、初めて見た人家に俺は興奮を抑えきれなかった。
見えたのは茅屋の家だった。現代の建築物とはかけ離れていて、かなり質素だし、ボロい。それに家の周辺には青い布が張り付けられていたり、青い旗が置かれている。この辺りの風習なのだろうか。
だがそんなことはどうでもいい。人がいる。それだけでありがたい。
俺は森にさよならを告げて、村へと走った。
食事ができる!
地面で寝なくて済む!
そんなことを考えながら俺は村に入る。防柵もなく、門番もおらず、簡単に村に入ることができた。俺の知識にはなかったが、どうやら異世界の文明レベルは中世以前くらいのようだ。
周囲を見渡す。
「……あれ? 誰もいない?」
人っ子一人いない。人の気配もしない。しかし民家はある。
どういうことだ。何かあったんだろうか。ゴーストタウンにしては生活感があるが。
俺は不審に思いながらも村の通りを歩いた。少し進むと別の民家が姿を現した。そして同時に別のモノもそこにいた。
「グギャアアアア!」
森の中にいたあの怪物だ。
「おいおいおい! 冗談じゃないぞ!? なんで村の中にいるんだよ!?」
まさか村の人達を喰ったのだろうか。しかし口元にも辺りにも血痕は見えない。まだ誰も殺されてはいないのか。それともこの村には誰もいないのか。
どちらにしても俺と対峙しているこの化け物をどうにかしないと。
戦うか? それとも逃げるか?
相手は獣。走っても逃げられるとは思えない。だったら戦うしかない。昨日の今日で体中が軋むが、それでもやるしかない。少しの時間なら仮面の力は使えるかもしれない。
俺は無意識の内に右手の指を左のこめかみ辺りに引っ掛ける。そして顔の表面を引っぺがすように、勢いよく右側に右手を引いた。
仮面が現れる。同時に仮面から後頭部を覆う金属質の兜が生まれ伸びる。首筋から上半身へと鎧を形成するために、金属が這う。
そのまま下半身まで伸びるはず――だった。
だが、
「ぐっ!」
俺は急激な脱力感から膝を折った。すると鎧や兜は仮面へと吸い込まれてしまい、最後には仮面自体も消えてしまう。
どういうことだ。まさか仮面を使う力が俺には残っていない、ということなのか。
「ギャアアアア!」
「く、そ……!」
怪物は俺に迫ってくる。
殺される? 嘘だろ?
戦う力があっても、使えないのならば意味がない。
昨日の戦闘と長時間の移動のせいで、体力はほとんど残っていない。
逃げることさえできない。立ち上がることで精一杯で走ることなんてできそうになかった。
怪物は俺へと疾走する。尋常ではない速度で、俺を殺そうと地を駆けた。
僅か一秒。
奴の爪が俺に迫った――だが、パンッという小気味いい音と共に、何かが弾かれた。
「グギャアアアギャーーッ!」
化け物が叫んだ。
俺は咄嗟にその場から後方へと転がった。化け物はその場でのた打ち回り、俺がいた場所をも巻き込んだ。
俺の咄嗟の判断は間違っていなかったらしい。状況に適応できずにその場にいたら、大怪我どころじゃなかったかもしれない。
「逃げて!」
女の子の声が聞こえた。
俺は声の主を探さず、すぐに逃げようと踵を返した。足はまともにいうことを聞かないが、足を引きずりながら距離を取った。無様に駆けながら後ろを振り返った。
日を反射する美しい金色の髪。
透明だと勘違いするほどに透き通った白い肌。
舞い降りた天使を連想させるほどに整った顔立ち。
そして、人間にはあり得ない、長い耳。
首からは翡翠色の美麗なペンダントを下げていた。
彼女は手にした弓の弦を目一杯に引き、矢を穿つ。
空を裂く青い矢は化け物の眉間に直撃すると、同時に氷結する。氷の侵食は化け物の巨体をすべて覆った。遠くにいる俺にさえ、その気温の低下に気づくほどに、その現象は凄まじかった。
「はぁはぁ、た、倒した……のか?」
巨大な化け物を一矢で殺した?
あれは彼女がやったのか?
もしかして矢の効果なのか?
あれじゃまるで、魔法のようじゃないか。
ここが異世界なのだと知識でしか知らなかった。でも見てしまった。化け物の存在、耳の長い彼女と魔法のような現象を。
セトのような存在がいるのならば、魔法があっても驚くに値しないのかもしれないが。
俺はいつの間にか足を止めて、戦いを見守っていた。すでに距離が離れていたこともあったのだろう。彼女の姿やその戦いぶりに魅入ってしまった。
化け物は氷漬けになっていた。動く素振りもなかったが、やがて氷塊の表面に亀裂が走ると、全身が砕け散った。
中身は生き物だ。凍らせる時間もないはずなのに、一瞬にして肉体も凍結させたのか。そんなことは現実に可能なのか。いや、ここはそもそも地球ではない、異世界なのだ。ならば俺が知っている現実や常識は通じない。
あれはそういうものなのだろう。
砕け散った化け物を凝視していた少女は、安心したように息を漏らすと俺のところまで歩いてきた。
近づくにつれて、より彼女の美しさが顕著になる。まるで物語の世界から飛び出してきたような、そんな陳腐な表現しかできないほどに美しかった。
俺の眼前まで少女は近づいてきた。目の前で見ると本当に人間なのか疑いたくなるほどの透明感だった。いや、耳が長いから人間じゃないかもだけど。
少女は顔をしかめたまま俺を睨んでいた。なぜそんな表情をするのか判然としないが、俺は色々な動揺があったせいか、ただただ戸惑うことしかできない。
そうこうしていると少女が険しい顔のまま、整った口を動かした。
「…………あんた、無事?」
「あ、ああ。うん、無事だ。あ、ありがとう、助けてくれて」
「え?」
素直にお礼を言ったつもりだったが、なぜか何言ってんだこいつみたいな顔をされてしまった。あれか、可愛い女の子を前にして動揺しているのがバレたのだろうか。
女子と二人きりになって緊張のせいでまともに話せず、どもったり、無言でいたり、ふへへっ、とか気持ち悪い愛想笑いを浮かべてしまって、何こいつキモって思われた時のことを思い出してなんかいない。
あの時の心底軽蔑するような顔を俺は忘れられない。
おいやめろ。マジで。俺の心が死ぬ。
ってか、俺余裕だな。死にかけたのに。彼女のおかげだろうか。
俺は少女をまじまじと見つめた。正確にはちら見だけど。軽めの鎧をつけていて、背中には矢筒の先端が見えた。露出は多めで、スカート姿だ。ブーツはただの革製ではなく防御力を優先してか、金属で覆われている。
なんというファンタジー。これがファンタジーじゃなくてなんというのだろうか。そうか。異世界はこういう異世界か。
俺は妙に納得がいってしまって一人で頷いた。しかしすぐに、はっと我に返り少女を見た。やはり、彼女は俺へ奇異の視線を向けていた。やめて、トラウマが(略
彼女が何か言ってくれるかと思ったが、会話をする気はないのか、視線を逸らされてしまった。心情的には逃亡を図りたいが、そうも言っていられない。
「え、えと。俺は加納源治。いや、源治加納なのか? まあ、源治でいいよ」
「…………あたしはエルダ」
仏頂面で視線を合わせないまま、エルダは自己紹介した。
無口な子なのかな。助けてくれたってことは良い人、だと思うけど。
一応は俺の話を聞いてはくれそうだった。さっさと立ち去らずに、俺や化け物をちらちらと見ている。
「あ、あのさ、その化け物。何なの?」
「クリムゾンウルフ。この辺りに生息してる魔物。知らないの?」
そんなことも、なんて言葉が隠れているような気がしたが無視した。スルースキルだけは俺の自慢だ。世の中、傷つくことが多すぎるためである。そのため目立たず、できるだけ平穏に、空気のように過ごすことが肝要なのだ。
こんなことばかりに慣れてしまって、演技が身についたのかもな……。
俺の心が抉れる前に話を戻そう。
魔物。なるほど、魔物か。
俺もゲームくらいはする。魔物という言葉は知っているし、一般的だ。
ふむ、どうやらこの異世界は俺の知っているゲームやら小説、漫画に登場するファンタジー要素が多分に含まれているようだ。
エルダは訝しげな視線を俺に向けていた。俺は誤魔化すように咳払いをして、二の句を継げる。
「そ、そうかぁ! こ、この辺りに生息しているのは知らなかったなぁ! ここに来たのは今日だし。俺って、田舎者だしなぁ!」
「田舎から出てきた旅人? ……そう。だからか。変な恰好だし」
どうやら少しは誤魔化せたようだ。若干、警戒心が解けたような気がした。そもそもそんなに警戒する必要があるのだろうか。男に対してなのか、それとも俺の反応がおかしかったからなのかはわからないが。
「最近、魔物が活発化していて、この村から依頼があったから来たのよ」
「うん? 依頼って?」
俺はただ聞き返しただけなのに、エルダは一気に不愉快そうに眉根を寄せた。
「……冒険者だから」
小さくつぶやくと、魔物のもとへと戻っていった。すると魔物の頭部に生えている角をナイフで切り取ると腰に下げた鞄に詰め込んだ。
何かに使うんだろうか。ああ、あれか。討伐した証拠みたいな?
本当、何もわからん。
状況を整理すると、この村を脅かしていた魔物を討伐するために依頼を受けたエルダが、たまたま魔物に襲われていた俺を、助ける形で魔物を倒した、ということか。
運がよかった。エルダがいなければ俺は死んでいた。
しかしなんで仮面の力が使えなかったんだろうか。昨日使ってしまったから、数日は使えないとか? それとも俺が疲労していたからか?
少し検証する必要がありそうだな、これは。
エルダはまだ魔物を調べているようだった。俺は興味をそそられて、彼女の後ろから動向を見守った。
エルダは魔物の腹部を探っている。すでにほとんどの氷は溶けかけているようだった。よく見ると、魔物の腹部分にはポケットのようなものがあった。カンガルーみたいな感じだ。
その中に手を突っ込んで、中から石やら、光る何かを取り出していた。全部赤い。
「何してるんだ?」
エルダはちらっと俺を一瞥して、小さく嘆息した。いや、その面倒だな、みたいな感情をですね、ほんの少しでいいので隠してくれませんかね。立場的に何も言えませんけどね、ええ。
「クリムゾンウルフは紅い物が好きなの。そういうものを見つけると自分のお腹に隠す。その中には貴重なものがある場合があるから調べてるのよ」
「へぇ……紅い物は何でも?」
「いいえ。固形物だけ。でも赤自体は好きだから、好戦的よ。獲物をいたぶって血をすするのが習性だから」
「な、なんだよその習性。恐ろしすぎるんだが」
「でも見た目よりは強くはないわ。青い物が嫌いだから、戦えない人も少しは対策もしやすいしね。ただ一凌ぎしかできないけれど」
だから家に青い布とかがあったのか。それで家の中に隠れていた、ということか?
「……変な奴ね。もっと何かないの?」
何かとは何だろうか。ああ、魔物に関してか。確かに襲われていた相手だ。怖いとは思うし、バラバラになっているから気持ち悪いとも思う。でも、俺って自分で言うのもなんだけど順応性だけはあるんだよな。日本で生きるためには一番必要な能力だろ? 空気に徹するためにも、その場に順応することが重要だからさ、ははは!
「いや、別に」
「……変な奴」
おい、聞こえてるぞ、その呟き。
しかし俺は何も言わない。文句を言っても、多分蔑視が飛んでくるだけだと思う。エルダという少女のことを俺はほとんど知らないが、恐らくそういう性格だ。ちょっと変なことを言ったら、バカじゃないの、みたいなことを言いながら蔑んでくるのだ。女子ってそういうとこあるよね。
俺の悲しみの過去など知らないエルダは、自分の仕事を続けていた。
「ダメね。大したものはない。相変わらず変な物ばかり」
どうやらエルダが興味を持つ物をクリムゾンウルフは持っていなかったようだ。確かに出てきたものは石やら変な形のレリーフやら、価値がなさそうなものばかりだ。
だがなぜか異常に気になった俺は、ガラクタの山に近づいた。何かがありそうな気がする。何かはわからない。しかし確実にそこにあると、俺の中の何かが言っていた。
【探せ。そこにある】
俺は幻聴を振り払わず、無意識の内にガラクタの山に手を突っ込んだ。しばらく探ると、不意に何かが指の先に触れた。妙に温かく、妙に冷たい。不可思議な感触。
俺はそれを掴んだ。
それは赤黒い仮面だった。
無表情でうすら寒さを感じるような顔をしている。赤が血のようにも見えるほどに不気味だった。装飾はない。他の仮面に比べるとシンプルな造りだった。
これは仮面なのか、それともただの仮面なのか。
……わかる。これは仮面だ。
感じる。触るだけで、脈動を感じる。まるで生きているかのような、生命の覇気が仮面からは発せられていた。
様々な仮面があるとは知識の仮面を被った時に知っていたが、まさかこんなタイミングで手に入れるとは思わなかった。
案外、普通にそこら辺に落ちていたりするものなのか?
それとも、これは俺が引き寄せたのか、あるいは仮面が俺を引き寄せたのか。
俺はただ魅了されるように仮面を見つめた。