セト
「――ん?」
目を覚ますと俺の視界を純白が覆っていた。錯覚を起こすほどの真っ白の空間。壁や天井を視認できず、ただそこには白で塗りつぶされていた。
俺は椅子に座っていた。
「なんだ? 俺、寝たよな……? またどこかへ移動したのか?」
寝ている間にどこかへ運ばれている。そんなことを考えると怖気が走った。自分の意思が関係なく何者かに左右されている。その事実が、おぞましさを促した。
と、不意に視界に白とは異なる何かが見えた。
それはいつの間にか俺の正面にいた。
妙齢の女性。顔の上半分、目以外の部分を覆っている白い仮面、白髪に白い肌、白銀の瞳、唇さえも白に染まっている。白のローブから伸びた白く細い手は膝の上に乗せられている。
彼女は俺の目の前に向き合うように椅子に座っていた。
「うお!? だ、誰だ!?」
「仮面使い様。お初にお目にかかります。セトと申します。以後お見知りおきを」
「よ、よろしく? えーと、フェイサーってのは俺のことですか?」
「はい。あなた様のことでございます。フェイサーとはすなわち、仮面使いのこと」
仮面。確かに俺は知識の仮面をつけた。そのことを言っているのだろうか?
「……あ、あなたは、事情を知っているのか? 俺がなぜこんなところ……あ、えと、異世界にいるのか」
「存じております」
「な、なぜ? どうやって? 誰が? あ、あなたの仕業なのか?」
「そうであり、そうではありません。セトはたゆたう存在。そこにおり、そこにいない。セトにはあなたに直接的に干渉する力はございません」
「い、意味がよくわからないですが?」
「案内人、という言葉が適切かと」
「異世界の?」
「あるいはあなた様の世界の」
意味がよくわからない。迂遠な言い回しに俺の頭は混乱していく。しかしどうやら事情を知っていることは間違いないようだ。
落ち着け。もっと冷静にならないと。こういう場合、どうしても気が逸ってしまうものだ。だが、それでは本質を見抜けない。そもそも俺が一番知りたいことはなんだ。
「……俺はなぜ異世界に連れてこられたんでしょうか?」
「仮面使いとしての素質があったためです。先ほど、あなた様がつけた知識の仮面を初めとした、多種多様な仮面。それを扱える存在はあなただけ。ゆえにあなたを召喚した、という経緯であると聞き及んでいます」
「……誰がそんなことを?」
「人間の言うところの、神にあたる御方、と考えていただければ間違いありません」
「神……神様の仕業だっていうのか。はっ……俺は無神論者だけど、否定もできないな。こんなことができる存在は神様くらいだろうし、むしろしっくり来た……あっ、失礼。年上にタメ口で話してしまって」
「問題ございません。セトは仮面使い様の案内人。従者のようなものでございます。敬う必要は欠片もございませんので」
「そ、そうか、ならこのまま話すよ。他に聞いても?」
「セトの話せることならば」
「じゃあ、さっきの話。俺が仮面を扱える素質があるからって言ってたけど、それは、どういうことだ?」
「あなた様の名は加納源治。十七歳。桜秋高等学園二年生。学力普通、運動能力普通、交友関係狭し、趣味はなし。中学生の頃、演劇部に所属。唯一の特技は演じること。お間違いないですね」
「あ、ああ。演技が得意って部分は微妙だけど、それが?」
「人間とは不思議なもので、常に演じて生きている生き物だとか。立場や状況、己の望み、相手の望み、それらの要素を加味し、適切な演技をする。その中でもあなたは演じることに長けている、そしてそれ以外に何もない」
「…………褒めてるのか貶めてるのか」
「どちらでもございません。事実に基づき述べさせていただいております。演技とは経験、知識、そして技術により表現するものであると聞いておりますが、しかしてあなたはそれらにも属さない特異な存在。ゆえに仮面使いとしての才能があると評されています」
「演技なんて。部内でも真ん中くらいの実力だったし、自分にそんな才能があるとは思えないけど。演技力って話なら、俺みたいな素人じゃなくて、プロの俳優とか一杯いるだろうに」
「さて、それはどうでしょう。今のあなたはそうですか?」
含みのある物言いだった。表情は無のまま。氷を思わせる感情の冷淡さに、俺は思わずたじろぐ。
「何を言って」
「酷く冷静ですね。異世界に転移し、超常的な現象に見舞われ、気づけばこのような奇異な場所へ連れてこられ、その上での状況説明を聞いて、尚も感情を平坦に保てています。そのようなことは平凡な人間には不可能かと存じます」
「俺だってかなり動揺してるさ。でも冷静にならないと、話も聞けない」
「状況を見れば、それが最適解でしょう。ですが人間は正しい選択をし続けることはできない。なぜならば感情があるからです」
「……何が言いたいんだ」
「あなたのそれは本当のあなたですか? それとも演じたあなたですか?」
澄んだ白銀の瞳に見つめられて、俺は何も言い返せない。心の奥底まで見透かされているかのような、そんな目に俺は思わず目をそらしてしまう。
「動揺さえも虚実であるならば、仮面そのものが本質なのかもしれませんね。ゆえに……なるほど、それこそがあなたの……ならば納得もいきます」
「……何が言いたい。あんたの言う神様ってのは俺に何をさせようって言うんだ。俺は何をすればいいんだよ」
「あなたの好きなように生きてください」
妖艶な笑みを浮かべ、セトは当たり前のように言った。
「好きにって……なんだよ、それ。何か理由があったんじゃないのか?」
「いいえ、あなたはあなたの思うように生きてください。その後に、あなたの願いも叶うでしょう。そしてそれは御方の望みでもある」
「意味がわからない……願いってのは日本に帰れるってことか?」
「あなたの真の願いが、その言葉通りならば」
セトは懐から仮面を取り出すと、俺に差し出してきた。
俺は戸惑いながらも仮面を受け取る。
知識の仮面とは違った趣があった。表面は赤一色。ごつごつとした意匠で、仮面というよりは兜に近い。これだけで防具に使えそうだが、顔前面部分しかないため扱いづらい。造りから仮面の域を出ないため、はっきり言って美術品以外の価値はないだろうし、芸術点は低そうだ。
「これは?」
「お使いください。あなたに必要な仮面です」
仮面を見つめていると不安になってくる。じっと見つめられているような感覚に陥って、どうしようもなく落ち着きがなくなってくる。
「これって――」
尚も質問をしようとして顔を上げた。
視界のほとんどは黒で覆われ、ゆらめく光が視界の下に見えた。辺りには木々。青臭さと焼け焦げたニオイが鼻腔をくすぐる。
ここは森。眠る前の情景とまったく同じだった。
夢、だったのか?
そう思った瞬間、俺は手元に視線を落とした。
そこには仮面があった。
「じゃああれは現実だったのか? ったく、なんだってんだ。勝手に連れてきて、勝手に都合を押し付けて……俺にどうしろって言うんだ」
頭を抱えた。思考は混濁しているはずだった。しかし心の隅では冷静な自分がいた。胡乱げな瞳でこちらを見つめている。その視線はこう言っているようだった。
『それは演技か、それとも本心か』
問答を否定しようとした瞬間、パキッと小気味いい音が響いた。