パンの休日
街の中央広場では農村からやって来た二十代から三十代の五人の労働者が噴水近くの一隅を占拠し、癖のある強い言葉で自分たちの境遇を訴えている。通行者の何人かは足を止めて彼らを眺めている。ある者は真剣そのものといった目つきだが、大半は楽な格好でいた。なかでも一番労働者のそばにいるのは時代遅れも甚だしい、分厚いドレスに身を固めた女たちだった。彼女たちは愉しそうに顔をくしゃりとさせながら、目の前の男たちを無視して己の噂話に耽っている。まるで芝居を観に王立劇場まで来たというのに、やることといったら双眼鏡で以ってどこどこの席にはどの家のあの侯爵の息子さんがいる、なんて宝探しに夢中になる貴族令嬢みたいだった。実際にそういう光景を目にしたことなどなく、小説でそういう場面を見たことがあるからそう言っているだけだが、あの女たちを見ていると本当にそういうことが起こっていそうだと思わせてくれるものがある。女たちのそばには燕尾服を格好よく着こなす、髯もまだ生えていないようなとびきりの青年が固まっていたならば、と思うが、噴水広場のどこを見渡してもそういう人間は見当たらない。日中は彼らも仕事で忙しいのだ。あの労働者も早く帰って自分の仕事をすればいいのにと思うが、久々の休暇で羽を伸ばすおれが、彼らにそんなことを言えた義理ではない。
大方労働者の主張はこのようなものだった。昨年度、そして今年度と不作が続いている。自分たちは必至で領主に訴えた、頼むから税率を減らしてくれ、例年通り一律を貫いてもらっては自分たちは生活できなくなると。だが領主は不満そうに鼻を鳴らして、文句があるなら国に言いな、俺に言ったところでどうにもならんよ、俺にも自分の生活があるからな、国の方針に従うほかないのさ、と言った。だが領主の言っていることはあべこべだった、なぜなら自分たちは一定以上の余分な税を収めない限りその村を離れることさえできなかったからだ。土地を買おうにも金が要る、収穫高を上げるための農具や肥料にも金が要る。だが元手がないからどうしようもない。だから自分たちは、領主の邸宅に大勢で押し寄せて、彼を力で捩じ伏せるしかなかったのだ。尋問して、都市に入るための通行証を手に入れるしかなかったのだ。このことをお偉いさん方が聞きつければ、自分たちは反逆罪で逮捕されるだろう。見せしめに公の場でひどい目に合わせられるかもしれない。だがこうでもしないと誰も自分たちの惨状をわかってはくれないのだ。この国は階級間の交流がまったく途絶えてしまっている。自分たちはそういう国のあり方は間違っていると考えている。自分たちが安心して暮らせる制度が整えば、国も豊かになるだろうし、人間の心だってこれ以上荒れることはないだろう。ただ従うだけの人生にはうんざりだ。自由に主張でき、自由に場所を行き来できる制度の確立を望む。そういう声を議会まできちんと届けてくれる人間の出現を望む。そしてそれを実現するためにも、まずは自分たちに選挙権を与えてほしい。そういうことらしかった。
わからなくもない話だったが、果たして彼らは生活を豊かにするために、自分の仕事を向上させるだけの努力をしたことがあるのだろうかという疑問が浮かんだ。技術があれば、良いところで雇ってくれる。それはこの国でもよく行なわれている。むろんどうにもならない部分もあるにはあるが、それを天命として受け入れようというのが別の国の教義にあった気がする。もしもこの国の考え方を批判するために、たとえばそういう運命主義的な理論を持ってきているのであれば、彼らは誤った主張をしているということになる。他の理論であったとしても、彼らが果たして上辺だけの影響でないかどうかをきちんと推し量る必要があるだろう。だが、それを差し引いても、彼らが公衆の面前で自分の言いたいことを思い切り叫んでいる姿は、少なくとも彼らの前で雑談をする女たちよりも、気持ち良さの点でずば抜けている。親近感を持てるのは間違いなく前者だった。それを思うと応援したくなるのも山々だが、それで結局二十分ほど広場で時間を費やしてしまったのだが、彼らの輪に入ることは最後までなかった。おれにはこの一日限りの休日を満喫しなければならないという使命があるからだった。それに自分の境遇を悲惨に思う気持ちはこれっぽっちもなかった。あれは自分の仕事に誇りを持てない敗北者の言葉だと決めつけて、おれは中央広場を離れる。
都市の空気は複雑で、いろんな匂いが混ざり合っておかしな感じだが、それでも故郷の汗臭さに比べたらどれだけ極楽かわからなかった。だだっ広い村のどこに行っても汗臭い、というわけではないが、おれにとっての故郷の印象としてはそのくらいなものだった。ヤギの尻を嗅ごうが、木に登ってハチミツ探しをしようが、締め上げた鶏の最後の一声を聞こうが、この印象は変わらない。それに比べれば、この焼き立てのパンの匂いがおれにとってどれほどの価値があるか、あの大きな声の農家の男たちにだってわかりそうなものだ。パンの入った紙袋を脇に抱え、無駄に大きな建物の並ぶ坂道を歩きながら、おれは排水溝に唾を吐きそうになったが、寸前で思いとどまる。
村を通過するなじみの商人から本を買い集め、都会で読まれている新聞や書物に多少は目を通しているが、それでも自分が直接見るのとはまるで違っている。父は言っていた、「都市の空気は自由にする」と。なんでも古くからある格言らしい。それだけを聞いても何もわからないし、最近流行している、都会の生活を写実主義的に書いた小説を読んでも、一体彼らのどこが自由なのかがさっぱりだったが、何度か来てみて、ようやくわかりかけているところだった。それは広場に腰を落ち着けて、縦横無尽に移動する人々、縦横無尽に他国の言葉を話す大小さまざま肌の色さまざまな人間を観察していれば自然と了解できることだった。こればかりは実際に来てみないとわからない。おれの知る限り、父は遊びを知らない人間だった。あの格言にしろ、自分の実感じゃなく、村の長老だったり坊さんだったりから仕入れたものなのだろう。
この街に来る一番の楽しみは、買い物をすることよりもあちこち歩き回ることだった。足の向かう先であればどこへでも飛んで行くつもりだった。だがなるべく人の少ないところがいい。都会人の声を聞くのも一興だが、あまり長く居座り続けるのも苦痛だった。この時ばかりは自分が田舎者であることを痛感する。おれの興味の対象は、このカラフルな街の裏方面にあった。裏とまではいかないにしろ、明かりの射さない場所での街の雰囲気を感じたかった。そういう場所になぜか心を惹かれてしまう。来る前は、店の主人と通ぶった話をしてみたいだとか、いっぱしの少年紳士みたく振る舞って、服もびしっと決め込んで、大通りを闊歩して人々の視線を集めてみたいだとか、いろいろ計画を立てるのだが、そのどれもがうまくいくためしがなかった。来るとだいたい、廃棄物の溜まったバケツがさして珍しくもない細い路地にいつの間にか来てしまう。酔った男に絡まれるのが嫌だから、実際に入ってみたことはなく、横切るのが精いっぱいというのが現状ではあるが、そのうちきっと入ることになるのだろうということは常々イメージしていた。その時は戻れなくならないよう、童話に出てくるのあの賢い子どもみたいに、パンをちぎって目印にしようということも心に決めていた。だがあんまり上等なものをばら撒いてももったいないから、実行する際は安物のパンにしようと思う。毒入りのものがあればなお良い。だから今回も断念せざるを得なかった。いつもパンは買うのだが、あと一歩が上手くいかなかった。だいたいいつも、家族へのお土産だとか何とかでなるべく良いものを買ってきてしまう。
朝早くに村を出て、街まで歩いてくるのにだいたい二時間半、訪れたことのない場所を中心に回るうちに、今はもう昼の三時過ぎだった。飯も食べていない状況だったが、不思議と腹は空いていない。あるいはすでにパンをつまみ食いしており、自分はそれを忘れているだけなのかもしれないが、どうでもいい話だ。今日はやる気を出して、百を超える窮屈な路地を訪れたが、そのどれもがおれには魅力的だった。だが魅力の差は多少あって、暗くてじめじめした場所ではあまりに物が山積しているために通行不可になっていたり、遠くからでも充分届くほどの異臭を漂わせていたりしていた。大量に仕入れてきた銃でもしまってあるのだろう木箱の重なる光景はおれをわくわくさせた。おんぼろの看板に何が書かれているのかを遠目に分析する遊びも面白かった。だが日差しのよく届く場所には人も多くおり、そういう場所には近づけなかった。声を掛けられたらどうしようということを考える前に、足が勝手にそこを離れていた。人間はもう大通りで飽きるほど見てきたから、なるたけ人の少ないところに行ってみたいのだおれは、という理由づけでとりあえず己を納得させている。暗くなる前に帰らなくてはならないから、都会の夜というものがどういうものなのかを、たとえ仮の姿でもいいから沢山知っておきたいという欲望も、手伝っているのかもしれない。
いよいよ太陽が傾きつつある。帰らなくてはならない時間帯になると、今日のおれは一体何をしたかったのかよくわからなかったと冷静になってしまう。買ったものと云えばパンだけだし、せっかく街まで出向いたというのに、友人にも会っていないし海産料理も食べていない。店主と通ぶった話もできなかったし気取った態度で大通りの真ん中を闊歩することもできなかった。仕事が苦痛というわけではない、こうして働いて食っていけているというだけでも感謝しなければならない。それでも都会帰りの一日目はちょっと気が滅入った。父もそろそろ潮時だから、覚えなくてはならないことも増えつつある。
もしもおれが小説の登場人物だったならば、おれはこの最後の時間を使って、どこかの路地裏に入るだろう、洞窟に籠って神の声を聞いたあの商人のように、どこからか天啓を受けて。その路地裏は、他とは違う雰囲気を持っているはずだ。特別何かに導かれたというのでもない、不思議な感覚だが、ここには是非とも入らなくてはならないという思いがおれの中にある。暗すぎるというのでもなし、かといって全体がよく見えるというのでもない、絶妙な光の射し込み加減である。その光はおれに過去の記憶を振るい出した。おれは確かにこの路地を知っているのだ。それはおかしい、父は遊びを知らない人間であり、こんな辺鄙なところにも来るわけがなく、おれを引き連れて街を訪れたことがあったのだとしても、おれの父親ならば間違いなくこんな怪しげな場所には来ないはずだ。だとすればおれは一人でここに来たというのだろうか。うんと小さい頃、父のもとを離れて。しかし身体の震えがないということは、当時のおれは別段恐怖を感じていたりだとか、そういうことはなかったのだろう。むしろ入ってみたくて堪らなかったはずだ。現におれは、今自分の立っている場所で何時間も過ごした記憶がある。遠目に眺めるだけで、実際に入りはしなかった、というところが今も昔も変わらず、自分の成長のなさを実感するところではある。とすればあの天啓は、昔のおれからの遺言なのかもしれない。あの頃の自分を脱して、怖くはない、怖くはないがなぜだか今まで入ることのできなかった、両手を思い切り伸ばせばそれだけで両端の建物に触れることができるほどの細長い裏路地、どこまで続いているのかわからない闇の洞窟についに侵入する時が来たのだと、未来のおれ、つまり現時点でのおれに語りかけてきているのかもしれない。だとすればおれのやるべきことは一つだ。右足を踏み出す。この調子で左足も前に出す。急に視界が狭くなる。見えていた景色が変わる。この感覚は、あたかも次の文章に入った途端に雰囲気の一変する、そういうテクニックの上手い冒険小説みたいだった。劇を嗜んでいたならば、おれはここで、この感覚はまるで幕間が効果的でない大衆劇のようだと口を挟んでいたことだろう。そしていちいち、この光の効果は登場人物のこういう心情を表しているだろうだとか、そこに配置されている小道具はシナリオのここの場面で最も効果的に観衆の目に映るだろうだとか指摘するだろう。おれは劇作家が小説の主人公にはなり得ないということを悟る。登場人物は常に、劇の知識とは無関係でなくてはならないのだ、でなければ自分が劇の登場人物のように動き、話していることのおかしさに耐えられないだろうから。おれだってそうだ、小説の主人公みたいに、何かの天啓を受けてこうして念願の路地への侵入を果たせたというのは、おれが無知な少年だったからに過ぎない……。
さすがにパンを撒きはしなかった。かねてからの望みだったが、いざ来てみるとそうでもない。それに明るすぎる。もう少し暗い方がおれの好みだった。しかし進むうちにおれの理想とする路地裏になってくるだろうという期待を抱いてとにかく前へ進み続ける。
人の姿は見当たらなかった。いる気配すらなかった。どうやらここは街にすらその存在を忘却された可哀想な場所であるらしい。むろんここまで廃棄物を捨てに来ることもないし、限られた人間にしか知られていない隠れた名店が夕方の一時間だけ営業している、なんてこともなさそうだった。風の音だけが妙に印象的だった。遥か上空で風は唸っていた。首を持ち上げると屋根と屋根の隙間から青い空が見えた。目を凝らせば少し赤みがかっているようだった。さっさと帰って寝なければ、明日がつらくなるだけだ。気がつくとおれは何が何でもここを離れなければと思い始めていた。しかし引き返そうという思いはなく、このまま前に進んでいけばじき出口に辿り着くだろうということを一生懸命考えていた。道は一本に長く続いている。左右にそびえる建物も変わらない。ただ排気口の形が変わったりしているだけだ。同じ人間が同じような生活をしているのだろうと思った。だが果たして人が住んでいるのかどうかも疑問だった。風が吹いている。それを差し引いてもここは異様に冷えている。日差しが適度に入って来てはいるが、おれにはそれが信じられなかった。早くここを出なければならない。
女を途中で見かけた。おれは足を止める。
女はものほしそうにおれを見上げている。脚は畳まれている。女は脚を動かせないようだ。女は建物のそばでうずくまり、目だけを光らせていた。伸びっぱなしの前髪が女の目を覆い隠していた。その分、おれに届く視線はより鋭利だった。
女はほとんど静止状態のまま、ただおれだけを注視していた。元は綺麗な絹色をしていたのだろうが、薄手のワンピースは鈍く傷んでおり、それが白なのか茶なのか、またその茶がどのような経緯で白を汚してしまったのかをあえて想像しない。しなびたスカートの裾からひょろりとした脚が覗いている。主従関係がひっくり返ってしまいそうな、思わず釘づけになってしまう脚だ。基準よりはだいぶ細いらしいが、しかし美しかった。泥がついていようが、産毛の処理ができていまいが、ちょっとした手入れで見違えるほどになるだろうことはずっと以前から直感していた。踵はひび割れている。右の親指の爪が欠けている。だがあれだってクリームを塗ったり付け爪をしたりすれば何の問題もない。一旦靴下を身につけてしまえば、あとは本当の正体がどうなっていようが関係なくなってしまう、少なくとも最初のうちは。時間が経って、良い出会いにも恵まれて、いよいよその相手がこの女の靴下を脱がす段になってそこで問題が噴出する。女は自分を偽り続けなければならず、そのために靴下を手放せないからだ。手提げ鞄に入っている何十種類ものスキンクリームだって見られてはならないのだし、付け爪だってふとしたひょうしに外れてしまうことも考えられるから誰の目にも晒してはいけない。この相手が信用の置ける男であれば、女はむしろ自分から靴下を取り去り、クリームを床にぶちまけて、付け爪を思い切り引き剥がして、なおさら歪になってしまった己の爪を相手に委ねるだろう。寛容な人間であれば、喜んで女の右の親指を舐めるはずだ。その親指は、本来爪で覆われていなくてはならない皮膚が一部露出しており、そこに触れればちょっとどころでない痛みを女に味わわせる。付け爪に頼ったが最後、本来の爪はもう自身を治療する術を失い、後は腐るのを待つだけだ。それだけますます女に苦痛を与えることとなる。腐敗の進行を止めることはできず、できることと云ったら痛みを忘れることだけだ。仮初の爪を装着している間だけ、女は痛みから逃れることができる。とにかくそういうことになっている。あれからずいぶん時間が経ってしまっており、あれ以来ずっと付け爪を手放したことなどなかった。夜になれば外していたものを、一週間に一度、一ヵ月に一度とだんだんと間隔が伸びていき、今では二度と外すもんかと死守する始末。だから先ほど、女が決意して爪を引っ剥がした時だって信じられないくらいの痛みが女を襲ったはずなのだ。それでも女は涙を堪え、そのうえ指を男に差し出した。男は女の固い信念を心で感じ、感じたままに体を持ち上げ、静かに指を口に含む。これはこの男にとってせめてもの礼儀だった。女がこれほどの覚悟で指を差し出してきたのだとするならば、こちらも全力でそれに応えなければならないのだというような。むろん女の顔はばらばらになる。男は口から親指を離す、小さな声で謝る。だが女は、親指を舐められることが自分に信じられない苦痛を与えるということを承知した上で、その弱点を他人である男に委ねたのだ。女への痛みを気にかけて、途中でその行為を中止するというのは女への侮辱行為でしかない。現に女は自分の指が男に舐められる時だって絶対に引っ込めようとはしなかったのだから。女の頬は涙に濡れている。それほどの苦痛が女を襲った。男の新鮮な唾液は一瞬にして女の充血した柔らかい皮膚に侵入し、時を待たずして男の甘噛みが、まるでギロチンのように襲いかかってくる。それは女にとって未知の感覚だった。痛み自体はあった、でもそれは、自分から付け爪を外した時にはまるで及ばなくて、それどころか微かな快ささえ感じた。ただ、自分の爪の欠損部分に襲いかかってくるものはどんなものでも苦痛には違いないので、反射的に涙が出てしまっただけだ。今頃になって、つまり彼が慌てた様子で口から指を離した段になって、やっと自分が、どうして泣いているのかがわからなくなったのだ。確かに痛かった、だって思い出してみれば、この男は自分を愛する証として、最初だけではあったものの、ちゃんと力を込めて噛んでくれたのだから。……しかしながら男のその実直さも相まって、この時、女は快楽という感情を初めて知ることとなる。男は女のきょとんとした様子にしばし言葉を忘れる。女の涙を拭おうと、思わず伸ばした手は空中で止まってしまい、口も半開きのまま動かせない。女が何かを言い出すまで、こちらからは何もしてはならないという雰囲気がある。女は気絶したように動かない。よってこちらも静かにしていなければならない。謝ったはいいものの、あれが果たして状況に適したものだったのかの判断がつかなくなる。女は確かに泣いている、それは間違いない。しかしそれがどういう種類の涙なのか、最初は苦痛に泣いているのかと思ったが、どうもそうでもないらしい。その証拠に女は震えていない。こちらを恐怖の目で見てもいない。おそらくこれは、この女が初対面の相手に向けてとる反応だ。女は快楽という初対面の訪問客に戸惑いを隠せないのだ。得体の知れない相手だからして女から不用意に近づくこともできない。男は気長に待つことにする。どれほど待てばいいのかは、女と快楽だけが知っていることだ。この間に男は冷静さを取り戻し、上げたままだった腕をベッドに下す。女はまだ動かない。空中の一点を見つめたまま、訪問客の応対に追われている。快楽はどうやら、女にとって苦手な相手のようだ。女は打ち解けるのに時間がかかるだろう。快楽は初対面の相手でも躊躇なく話しかけられる性格で、その時だって女の玄関先で、果たしてどちらが招待した側なのかがわからなくなるくらい喋りまくっている。女はどうしたらいいか、このまま突っ立ったまま話すのもなんだし、まずは客間まで案内するべきだろう、きっとそうなのだろう、けれどもその際、どのタイミングで快楽のコートを受け取るべきか、手の差し出し方はどうしようか、左手を忌み嫌う人も世の中にはいるだろうから、右手を使って部屋まで誘うのが無難なやり方だろう、という風にしていろいろ考えたあげく、あちらから無作法に女の家に上がり込んでくるまで何もすることができない、そういう性格の持ち主であることはあり得る話だ。快楽のことが嫌いではない、むしろもっと自分から話しかけて仲良くしたいと思っているはずだ。けれどもそれを上手く言葉に出せない。無理にでも言おうとすると変な言葉遣いになってしまったり、まるで場違いな話題を提供してしまったりすることは、今までの経験からとっくに予想ができている。女は冷静を装って、己が落ち着くのを待ち、文章を頭の中で吟味した後で慎重に話を切り出すべきなのだろうが、そんなことを今その場でやろうとすればするほど空回りすることも女にはわかっている。だから何もできない。この態度の取り方は決して非難さるべきものではない、女に悪気があるわけではないのだから。すると悪いのは、女の気持ちを察するだけの余裕もない快楽の方である、ということになる。快楽はこれまで他人の気持ちをじっくり考えたこともなく、ただ己の心の動くままに生きてきたに違いない。それで何となしに生活できてしまうのがこの世の中なのだからして……
「ちょうだい」という女からの声でおれは正気に戻った。おれは思考の糸を裁ちバサミで切り、この女がどういう言葉を自分にかけてきたのか、その論理を辿った。そしてどうやら、女がおれに何かを求めているらしいということだけは理解できた。その何か、というのも、大方の予想がついた。「何を?」とおれは、それでも女に尋ねる。
「それ」
女はおれの抱えていた袋を指差す。その中には計六つのパンが入っていた。自分の分はここに来る途中で食べてしまったらしい。残りは弟と、妹三人と父親と、それから仕事仲間へのお土産だった。
「どうして?」とおれはいつの間にか質問していた。口に出した後で、そんなのわかり切っているじゃないか、あまりに残酷に過ぎると自分を責めたものの、一旦口から出た言葉を回収できるほど柔軟な性格でもなかった。
「お腹が空いてるの」と女は先ほどと全く声色を変えないまま言った。だが女はただ目をこちらに向けるだけで、手を伸ばしてきたりだとか、あまりのものほしさに立ち上がり、こちらに詰め寄ってきたりだとか、そういう行動を一切取らなかった。あるいは女はこういうことに慣れているのかもしれない。そしてその多くの人間が、食べ物を分けてくれないことを承知しているのかもしれない。おそらくそうなのだろう。女のその口調からは、空腹に悩む人に特有の必死さがまるで伝わってこなかった。見た目からして満足のいく食事を取れていないことは明白だった。それでもこの態度を崩さないということは、女にもそれなりの覚悟があるのだろう。世の中はそういうものだと理解していながらも、それでも懇願するしかない世の中だった。
「どれがいい?」
おれは女のそばで中腰になって袋を開けた。中からは香ばしい匂いが漂ってきた。一日食事を抜いただけでも、おれであればこの匂いだけで逝ってしまうだろうということを考えたが、女はあくまで冷静だった。女は慌てることなく、袋の開き口を自分の方に向けて、しわをきちんと伸ばし、パンが全部よく見えるようにする。そして手に取ることなくじっくりと観察し、やがてパンから目を離す。
「いくつ?」
おれは悩んだ。どう答えたらいいものか。とにかくおれは、袋からランダムにパンを取り出した。干しブドウ入りのスコーンだった。おれはそれを女に差し出した。女はすぐにスコーンを咥えた。噛みつく力は人並みにあった。おれは女が上手に嚙み千切れるよう、スコーンを持つ手に力を込めた。女がついに噛み千切ってしまうと、パンの欠片がぼろぼろと地面に落ちた。おれは欠けてしまったスコーンを眺めた。思っていたよりも小さな噛み跡だった。
「おいしい」と女は咀嚼した後で言った。そして舌を巧みに使い、奥歯に挟まった欠片まで丁寧に食べた。それも終わると、あの何とも言えない無常の目でまたおれを見つめてきた。おれはまたスコーンを取り出した。不思議なことに、女はこのパンを自分では受け取ろうとはせず、先ほどのように顔だけを前に出してかじりついてきた。さっきは少し噛み千切るのに時間を要したが、今回は上手かった。相変わらず噛み跡は小さかったが、おれは先ほどと同じくタイミングを合わせて干しブドウ入りのスコーンを女の口元に近づけて、女の食事を手伝ってやった。変な心持ちだった。
二つ目のスコーンも食べ切ってしまうと、おれの手には何も残っていない。おれは粉で白くなった指先を眺めた。先ほど想像したことを思い出し、自分の爪を眺めてしまう。当たり前のことだが、自分の爪が綺麗で欠けるところもなく整った形をしていることを確認した。確認が終わると、おれは女が見ている前で粉のついた指先を舐めた。スコーンはおれが一番好きなパンだった。だから、もしも弟や妹がスコーンを選んでも大丈夫なように、それだけは四つも同じものを買っていた。だから袋の中にはまだ残っていた。
おれは袋からまたスコーンを取り出して、女に差し出した。だがもうお腹がいっぱいなのか、女は反応しなかった。
「じゃあ、いただきます」
せっかく出したのだから、食べるしかない。三つも足りなくなってしまうが、後でどうにでもなる。買いに戻ってもいいし、途中で我慢できなくて、パンを四つも食べてしまったのだと言い訳すれば、仕事仲間は笑いながら自分の分を遠慮するだろう。父はおれをぶつかもしれない。がやはり遠慮するに違いない。後は兄弟姉妹の早い者勝ちと云ったところだが、その時はその時だ。とにかくおれは夢中で食べた。女が陰気に見つめるなかで、おれは中腰のままとにかく食べた。おいしかった。女の視線が気になって仕方がなかった。それがまたおれを早食いにした。
食べ終えるとまた手持ちぶさたになってしまう。おれはまた指を舐めようとしたが、ふと思いついて、女に指を近づけてみた。どういう反応を見せるかが気になった、というのもあるが、想像の中のあの男がこの女の足先を舐めているイメージをどうしても頭から離すことができず、それに影響されての咄嗟の行動だった。
だが、女はおれの指を眺めるだけで、たいして表情を崩さなかった。若干期待していた向きもあったが、当然の反応だったので、おれは指を戻し、適当に上衣で拭いた。自分でしたことの意味がわからない。何もすることがなくなったので、女の左側に移動して、袋を胸に抱えたまま地べたに座った。雨水か何かで湿っていたようで、尻が冷たかった。女はおれから目を離さないまま、こちらに顔を向けたままだった。瞳の色は、食べ物を欲しがっていた時と変わらない。けれども今は、もうお腹がいっぱいのはずだから、その目は食べ物でない別の何かを求めているのだろう。だが面倒だったので考えるのはやめにした。これ以上女の瞳をじろじろ眺めているのも気が引けた。なるようになれと心の中で唱えながら、無言で女の脇に居座り続けていた。
女が近づいてきた。さも当然であるかのようにワンピースの肩紐が外れている。女はおれの肩に手を置いて、おれを上から眺めている。長い髪がおれの耳をくすぐった。その感触で堪らなくなり、おれは髪を払いのけた。髪はごわごわしていて癖が強い。おかげで髪は耳から離れてくれた。その代わりに女はもっと近づいてきた。肩紐は中途半端にずり落ちているが、女はそれを直そうともしないしまるで気にかけていない。だがそれなりに矜持はあるようで、衣服は女の身体から完全には取り去られていない。あるいはそれは女の作戦かもしれなかった。現におれは、女の手のうちで転がされているような感覚に陥っていた。このまま転がされ続けていてもいいかもしれないとぼんやりと考えていた。女の唇が接近してきても、おれは特に抵抗をしなかった。ただ、今まで経験したことがないほど頭が真っ白になっており、その空白を満たしてくれるのを待つみたいにして、おれは女の目ばかりを覗き込んでいた。だが女はおれを見てはおらず、何も見ていないような虚ろな色をしていた。
女はおれに乗っかってくると、唇を斜めに差し込んできた。一度すぐに離れると、また接触した。今度は長かった。路地裏で暗いせいもあり、あらゆる明かりが女の身体で遮られていた。おれは姿勢を崩していた。その証拠に右の肘と、左の腕が濡れた地面に当たって冷たい。女の力は強かった。まるで鋼鉄だった。それはおれの肩を掴む女の手から充分に伝わってきた。しかもそれは、たった一撃に最大限の威力を込めるといった攻撃的なものではなく、じりじり相手を壁際まで追い詰めるといったような戦略的なものだった。だからおれが背中まで地面につけてしまうと、女はいよいよ全体重をおれにかけてきた。唇は塞がれており、口で息をしようとするとうまくいかないので息苦しかった。
そのうち唇が離れるが、女の顔はまだおれのすぐ近くにあった。建物の隙間から入り込んでくるはずの日差しはちょうど女の頭で遮られており表情はよく見えない。左右から垂れ下がる髪も邪魔して、横からの僅かな光でも駄目だ。だがおれは女の浮かべている顔がどういうものであるかを容易くイメージできた。だからこちらも真顔になるしかない。しかし下半身はどうにもならなかった。血圧の上昇も反射的なものだった。それに女が気づいているのかいないのかはともかくとして、まずは自分の姿勢を取り戻したかった。だがそれと同じくらい、このまま倒されたまま、女に好き放題されたいという望みもあった。パンの袋がないことに気づいたのはその時で、倒された時に横に放り投げていたらしかった。右に首を動かすと、女の髪の隙間から、茶色いパンの袋が中身をぶちまけて転がっているのが見えた。クロワッサンが二つとマフィンが汚い砂の上で横倒しに転がっている。それだけを確認すると、また女と真正面から向き合う。女の体重が肩と腹から伝わってくる。だがやはり軽い。軽すぎて妙な気分になりそうだった。けれどもおれは確かに女の体重を感じていた。さっきまで氷みたいだった女の手がおれの身体で温かくなってきていることも伝わってきた。
女は動かない。おれも動けなかった。正直に言えばおれは女を求めていた。あまりに急だったから、思考が働かないのだ。むしろ思考は働いていたのかもしれなかった。自分が女に押し倒されていること、この後に待っている展開もきちんと描けた。だが、それを現実にするのに躊躇いがあるらしかった。あともう一つ壁を突破できればおれは自由になれるはずなのだが、おれ自身その壁を壊したくないらしいのだ。本当は壊したいに違いない。女は美しいのだから。そしてベンガルに生息する凶暴な獣のように女に掴みかかり、逆に女を押し倒して、そのまま何の前座もなく行為に及んでいただろう。おれに立ち塞がる壁というのはちょっとでも触れれば途端に崩壊してしまうようなやわな造りなのだ。だが触れなければ絶対に壊れたりはしない。もしも目の前の女が美しくない女だったとしても、状況は変わらず、おれは女に押し倒されるがまま呆然としているしかなかっただろう。そしてこれだけのことを考えられているということは、自分は冷静であり、ついに獣になり損ねてしまったことを決定づけていた。
女もまた冷静に違いなかった。女のことはよくわからないが、初めて会った人間に欲情するなど考えられない。男であればそういうことはあり得る。それはおれがこの女に遭遇し、このまま通り過ぎても良かったのに、わざわざ立ち止まってしまった時点で弁明の余地がない。身体目的でなかったとはいえ、もしもこの女が老婆であったりぶくぶく太っていたとしたならばどうなっていただろう。その時は踵を返してさっさとこの街とおさらばしていただろう。だがそうはせず、むしろ女にどうしようもなく惹かれてしまい、妄想に憑りつかれてしまったほどだ。状況がもう少し違えば、おれはあるいは獣になっていたかもしれなかった。女もそれを見越して先手を打った。だがそれがむしろおれを冷静にさせて、獣になる道を鎖してしまった。それで女に感謝をするのも変な感じだったので、黙っているしかなかった。
女はおれの腹に乗っかったまま姿勢を正す。悲しい顔でおれを見下ろす。女の手はおれの胸に添えられているが、心臓の高鳴りで胸が上下しているのがわかる。女は指先でおれの胸をゆっくりなぞっている。何かの文字でも描いているのかしらんとも勘ぐったが、それを分析できるだけの力ももう残っていない。
突然女の雰囲気が変わった。あるいはそれは光の射しこみ方によるものなのかもしれなかった。おれが劇作家であれば、このもつれ合う男女を夕陽の最後の輝きで照らすことだろう。小説でもきっとそうするはずだ。でないと場面が盛り上がらない。このまま何もせずに女が立ち上がり、肩紐を元に戻し、スカートを軽くはたいてから静かに男の元を去るというのは、展開としては無難だけれども、それでは最後を締めくくるのにちょっと寂しい。だからここは場面効果に頼るしかないのだ、そうしてそこに意味深いメッセージを込めるしかないのだ。しかし空は青く澄み渡っている。ところどころ赤みがかっているのも先ほどと全く同じだ。おれはここで何時間も時を過ごしたものと思っていたが、どうも勘違いのようである。そのうちに女はおれの腹から降りる。おれが体を起こすと、女はおれの横で姿勢よく待ち構えている。相変わらず顔の全貌は明らかにされない。だがおそらく前髪を上げれば美しいのだろう。そう思うしかない。おれはじっと女を観察していたが、やがて女の方から立ち上がる。おれの視線の先には、あれほど熱望していた女の細い脚が目前に迫っている。骨ばって、武器みたいに尖っている。そして美しい。しかしおれにはその資格がなかったので、それに触れることは許されていない。
上の方でため息が聞こえた気がした。女はおれを横切ると、地面に落ちたパンを一つずつ拾い、胸に抱えた。空になった袋を裸足で踏みつけて、おれから離れていった。おれは声が出せなかった。何か喉元からとんでもない苦しさが込み上げてきたが、おれはそれを押し殺さなければならなかった。それは叫ぶべき女の名前をついに聞き出せなかった、ということも理由の一つだったが、あまりに緊張が続いて喉がからからに乾いていたから、というのもあるだろうが、女を引き留めてどうするのかという迷いがまずあったから声を出せなかった。女はあらゆるチャンスをおれに与えた。だがおれはそのどれもを撥ねつけて、ついに女を呆れさせた。いまさら足掻いてもどうしようもない。家族のお土産に買ったパンは全部奪われてしまった。代償はあまりに大き過ぎた。家族分のパンを買うだけのお金はもう残っていない。
おれは立ち上がる。走っている間にポケットからなけなしの銀貨を取り出す。幸い女はふらふらと、まるで鷺のようにのんびり歩いているために、追いつくのは造作もない。追いつくとおれは女の右手を掴んだ。向こうが振り向くよりも早く、おれはその手に銀貨を握らせる。息つく暇もないままに女を追い越して、一本に長く続く道を走っていく。後ろで男の声が聞こえた気がした。だがそれも風に吹き飛ばされてしまった。目の前はどんどん明るくなっていった。間もなくしておれは何の変哲もない坂道の通りに立ち尽くしていた。息を整えている間に何度も振り返りたくなったが我慢した。さっさとここを離れたかったが、脚は震えて正常に動いてはくれない。何人かが声を掛けてきてくれたが、そのたびにおれは軽く手を上げてにこりと笑い、小さな声で「大丈夫」と答えた。答えるごとに恥ずかしくなる。いつまで経っても息が整わず、このまま何人もの都会人に屈辱を味わわせられるのもちょっときつかったので、おれはその場を小走りで後にした。無事に村まで帰れるかどうかが心配だったが、体力はむしろ有り余っているほどで、スキップの一つでもしたいくらいだった。
「そういう取引は珍しくもないと思うよ」と仲間の男は言った。「ここでもたまに噂になっているじゃないか。どこどこの家の息子が、一夜にしてあの家の娘と関係を持った、だとか。まあただ聞いただけなのと実際に体験するのとは違うだろうし。僕もよくわからないや」
「正直かなりどきどきした。もう少し状況が違えば、間違いなく襲いかかっていただろう」
そうおれが言うと、男は笑った。
「どうなんだろうね。兄さんは果たして、自分が襲いかからなかったことに満足しているのか、それとも不満なのか」
「どうだろう。実際にどちらの経験もなくちゃ比べられないな」とおれは言った。
男は隣のベッドで体をもぞもぞと動かしている。彼は自分の最も気に入る体勢でないと我慢ならない潔癖性なのだ。ようやく毛布が適切な位置に収まり、姿勢もそれで安定すると、横向きでおれに話しかけてくる。
「兄さんのことだから、明日にはもうその女の人のことなんて忘れているんだろうね」
「まあそうだろうな。でなくちゃおれはいつまでも立ち直れないだろうから。……でも、これだけ後悔しているってことは、やはりおれは、獣になるべきだったんだろうか」
「そうしていれば、パンを失うこともなかっただろうし、銀貨だってその女の人に取られることもなかっただろうからね」
「それもあるけど。一番は、あの時襲いかかって正解だったのかどうかであって」
「はあ、話がまた元通りだよ。そんなに思い悩むんだったら、もう眠ろうよ。くよくよしている兄さんなんて兄さんらしくもない」
「だったら話を聞いてくれよ。でないととても眠れない」
男は乾いた声を出しながら身体を起こす。ベッドに座って前屈みになる。
「よしわかった。今日は徹夜だ」
「そこまで起きているつもりもないけどな。うるさくすれば下にも迷惑だろうし、それにあんまり長く明かりをつけていると、近所で怪しまれる」
「上等じゃないか。満足するまで話してくれよ。聞くからさ」
そこでおれもベッドから起き上がった。
「本当にわからないんだ、あの時の自分というものが。記憶も混乱していて、自分の実際にやっていないことまで記憶に入り込んでくるから、それを選別する作業だけでも大変だ。あの出来事自体、妄想に近いものだから仕方ないのもあるけどな。でも女に干しブドウ入りのスコーンを食べさせてやって、その後に女にのしかかってこられたことだけは、皮膚がちゃんと覚えていてくれている。その感覚は今でも鮮明に残っている。それが問題でな。全部が妄想で片づくのならそれでいいんだが、女のこの痕跡がいつまでも残るものだと思うと、おれは我慢がならなくなる。さっさと忘れてくれればいいんだが、一度身についた技術がよほどのことがない限り忘れたりしないように、この痕跡もいつまでも残るんだと思う。今でさえ、なにせ今日あったばかりのことだから、こうして笑いながら話もできるが、もう少し時間がたって、いよいよこの痕跡が呪いじみてくると、おれはこの痕跡に支配されてしまうんじゃないかと心配でたまらない。そうなれば仕事だって手につかなくなるだろう。お前に頼る機会も多くなるかもしれない。大きな失敗もしでかして、親父から見放されてしまうかもしれない。……まあ実際にはそういうことにはならないだろう、それはわかっている。だが、女のことを考えると、どうしてもそういうあり得ない未来まで考えてしまう。それくらい、女との経験は特別なものだったんだ」
「でもおそらくだけれど、彼女はああいうことを毎日のようにやっているかもしれないんだよ」
「ああ、おそらくそうなんだろう。女はあれから五分と経たないうちにおれのことなどすっかり忘れて、パンを小分けにして保存し、銀貨を使い果たすことだろう。あるいは非常時に備えてどこかに隠しておくのかもしれない。それは理屈でそうとわかる。でも! このおれの肩とか手とか腹とかに染み付いちまった女の痕跡はそれでも失くならないんだよ! お前と話していないと、おれの脳裏にはいつも、おれを見下ろす女の冷たい目だとか、おれのもとを去る女の後ろ姿だとか、おれのすぐ近くで立ち上がった時におれの真正面に見えた女の骨ばった脚とかが浮かび上がってくる。歩いているうちはまだよかった、歩きに集中していて、考え事をしなくて済むからな。しかしベッドに入るともう駄目だ。暗ければ暗いほど、女と出会った路地のことを思い出してしまう。この気持ちは一体何なんだろうな。おれは確かにあの女に惚れたんだろう。でも、それは普通の恋とは違ったものらしいんだ。もし本当に恋をしていたんなら、おれは多分、女がおれのもとを去るのを許さなかっただろう。けれどもおれは、パンを抱えているのを見ても何も思わなかったし、銀貨を渡す時だって、これはもう完全に、おれたちはもう一生会うことはないのだということを自分から認めてしまっているじゃないか。しかし家に帰って来てみると、女のことが頭に浮かんできてしまう。女ともう一度会いたいと思う。しかしもう二度と会うことはないのだということもわかっている」
「普通の恋とは違う、それは間違いないだろうね。だって兄さんにはちゃんとした思い人がいるのだから」
「そうだな。仲良くなった実感はあるにしろ、告白もまだだけどな」
「でもいつかはそうするんだろう?」
「うん」とおれは言った。「おれはあの子を愛している。これも疑いのないことだよ。あの子と話していると、不思議と落ち着く感覚がある。楽しさの点で云えば仲間としゃべっている時には及ばないが、それとは違った楽しさがある。話をすることで、お互いを肯定し合っているような、そんな楽しさだ。もう少し稼ぎがよくなれば、おれは声を掛けに行くだろう。他の男がいたからと云って、諦めはしないはずだ。だが一方で、あの路地の女のことも生涯引きずるに違いないということもはっきりしている。あれはあの子に対する好きとは全く異なっている。第一おれはあの女など好きではないのかもしれない。あの女ともっと話していたい、そうしてお互いを肯定し合いたいというような欲望は感じなかったからな。だが一方で、何も話さずともお互いを認め合うことができるんじゃないかというような、また別の肯定の形が表れていたような気もする。そばにいるだけで、何も話さずとも、お互いの存在を肯定し合い、生きていけるようなそんな関係性だ。それはあるいは女の経験豊富さに由来するものなのかもしれない。男であればみんな、一度はああいう女のそばで居眠りをしてみたい、という欲望を抱くのかもしれない。であればこれは恋ではないんだろう。子どもが母親のそばにいれば安心するみたいに、あの女はあらゆる男にとって安心できる存在なのかもしれないな。自分の全てを許してしまえるような場所であり、言葉などなくともお互いを肯定できるような、かなり原始的な欲求だ」
「語るね。このまま一夜を明かせそうだ」
「そんなことはないよ。お前と話せていくらかすっきりした」
「でも、兄さんはそんな女の人のところから逃げてきてしまった。受け入れることを拒んだ」
「そこがおれを、この先もずっと苦しませるであろう核心的な部分なんだ」
仕事仲間の男は黙って首を振った。そして腕を上げて伸びをした。
「そろそろ明かりを消そうか。明日も早いからね。これ以上は危険だ」
「そうだな。無理させてごめんな」
「いや、ぼくも楽しかったよ。……でも信じられないな。話には聞いていたけれど、まさかぼくの最も身近な人間が、そういう目に会うなんて」
そう言いながら男は蝋燭の炎を吹き消してベッドに横になる。おれもここで疲れがどっと出て、勢いよく倒れ込む。
「おやすみ、兄さん」
「おやすみ、相棒」
窓を開けてはいるが、風は一切吹いていない。少しだけ夜空を眺めていたが、雲が多くて星はほとんど見えなかった。