柔らかな秘め事
私は楽園にいた。温かく真綿のような雲に包まれて、天使の奏でる晴れやかな音楽に聴きほれていた。
これが夢だというのは、体の感覚からすぐにわかった。それでも、二度と目覚めたくないと心から思えた。
目を覚ましてしまえば、すぐさま課題という名の悪魔が私を攻めてくることだろう。
……と、天使の歌声が急に食器の割れる騒音に変わった。無理矢理現実に引き戻されて、寝ぼけ眼で置時計を眺める。
眼鏡をしていないのでかなりぼやけてはいるが、今日の半分がすでに終わってしまっていることはわかった。
台所から甘い匂いがする。その匂いに導かれるように、私はビーズクッションの抱き枕を引きずりながら布団を抜け出した。
「ホットケーキ?」
「ご名答。って、着替えろよな」
器用にフライパンを振って、ホットケーキを空中で半回転させる。そして振り向いた圭太は、これ見よがしにしかめっ面をしていた。
私はしかめっ面を無視して、割れた皿を探す。圭太にしては手際よく片づけられていて、破片一つ落ちていなかった。
「圭太も成長したんだねぇ」
「は? テレビだよ」
しみじみと呟くと、呆れたように眉を顰められた。どうやら、ドラマの音声に叩き起こされただけらしい。恨みを込めてテレビに視線を向けると、確かに夫婦喧嘩の修羅場が映し出されていた。
「てか早く着替えろって。昼メシ俺が全部食うぞ」
脅しをかけてくる圭太の視線は、私の太ももに注がれていた。際どいラインまで見えてしまいそうなほど短い薄手のズボンを、パジャマ代わりに愛用している。目が行ってしまうのも当然だろう。男の子は欲望に従順なのだから。
「なに~? 触りたいの?」
やらしー、と本音を漏らすと、ムキになった圭太がこちらを睨み付けてきた。
「キモいんだよ。姉ちゃんさ、迷惑って言葉の意味わかる?」
吐きつけるような言い方をされて、腹立ちまぎれに持っていた抱き枕で圭太を殴った。その時ちょうど、圭太がホットケーキを切り分けるために包丁を持っていたことに気付かずに――。
「……っ、危ね」
圭太は寸前で私の動きに気が付いて、防御の姿勢を取った。幸か不幸か、その動作によってけが人が出ることは免れた。しかし、布が裂ける音と共に、抱き枕の中からサラサラとビーズが流れ落ちた。
「イヤァっ」
私は目を覆って崩れ落ちた。ビーズを集めようにも、指の間から零れ落ちてしまい要領を得ない。なんとかかき集められた分は袋の中にまとめたが、クッションとして本来の役目を果たすことはもうできない状態になってしまった。
どちらが悪いかといえば、圧倒的に私だろう。けれど、私の理不尽な怒りは留めることが出来なかった。
「圭太、このクッションどれだけ大切にしてたか知ってるでしょ? 弁償しなさいよ!」
怒りに任せて詰め寄ると、圭太は鋭く睨み付けてきた。
「姉ちゃんが悪いんだろ。片付けはやっとくから着替えてホットケーキ食おうぜ」
湯気を立てる柔らかそうなホットケーキが載せられた皿を手渡されて、有無を言わせずにリビングへ押し込まれた。
酷いことをしてしまった。
俺の頭の中はパニックで真っ白になっていた。とっさに浮かんだのは、今しがた焼きあがったばかりのホットケーキのことだった。
あからさまに不機嫌顔の姉ちゃんを前にして食べるホットケーキは、味も柔らかさもあったものではなかった。
俺が片付けると言ったからか、姉ちゃんは抱き枕を置いたまま部屋にこもってしまった。弁償などできない代物を前にして、頭が痛くなる。
抱き枕にかかっているカバーは、限定生産のクルミンのイラストが入ったものだ。「百瀬クルミ」こと通称クルミンは強い人気を誇る仮想アイドルであり、俺の天使だ。その天使を、俺は自らの手で切り裂いてしまった。こともあろうに、クルミンの顔が袈裟切り状態になってしまったのだ。
その罪はどうやっても償うことはできないだろう。
何よりも問題なのは、姉ちゃんもクルミンの大ファンであることだ。というより、我が家でクルミンの大ファンを公言しているのは姉ちゃんだけで、俺はそんなものに一切興味はないというスタンスを貫いてきた。だからこそ、姉ちゃんのように大っぴらに落胆することが出来ないのだ。
今のオレにできることはただ一つ。どうにしかしてこのカバーを復元することだ。
正直、中のクッションはどうでもいい。姉ちゃんが昔から大事にしていたことなんて、さして重要なことではないのだ。
修繕するにしても、裁縫が大の苦手なオレが手縫いで直すのは膨大な時間を要する作業になってしまうだろう。それに比べれば買い替える方が簡単かつ確実なのだが、同じ製品は限定生産ということもあってプレミア価格が付いてしまっている。お値段なんと三万円。
とてもじゃないが、今のオレに支払える金額ではなかった。何とかして元に戻す方法を、と模索していたが、思いつくのはばれたらタダでは済まない方法ばかりだ。
しかし、それ以外に方法が思いつかなかったので捨て身の方法を選ぶことにした。
クルミンのイラストが一ミリたりともずれないようにしながら、裏面をガムテープで貼り付けるのだ。こうすれば見た目だけは元のようになる。安直にそう考えていた。
そんなオレだから、出来上がりを見た瞬間の絶望は言い表せなかった。
包丁が切り裂いた部分の繊維が、何本も飛び出していたのだ。さながらイソギンチャクのようになったクルミンの顔に、贖罪の気持ちを込めて土下座した。
「クルミン、ごめんんなさいっ!」
そこへ、タイミング悪く姉ちゃんが入ってきてしまった。
「直ったー?」
直るはずないとわかっていて、私は弟の部屋を襲撃した。せめてビーズクッションは弁償してもらわないと、安眠に支障が出る。
困り果てて呆然としている姿を想像しながら扉を開けると、予想外の光景が私を出迎えた。
「クルミン、ごめんなさいっ!」
弟が、抱き枕のカバーに向かって土下座をしている。 私がクルミンの話をするたびに嘲るような視線を向けてくるあの弟が、だ。グッズに向けて土下座するほどの、重度の隠れヲタだった。
私の声に驚いて、土下座の姿勢のまま顔だけをこちらに向ける。丸くなった目とその姿勢が、猫を思わせた。
これは笑わずにいろという方が酷な状況だろう。
「あのさぁ、謝るんならクルミンじゃなくて私でしょ」
ヒィと声を上げて何とか笑いをこらえる。弟は耳まで真っ赤になってクルミンのカバーを背後に隠そうとした。
それを取り上げて見てみると、見事に顔の真ん中が切り裂かれていた。それをこともあろうに裏側からガムテープで貼り合わせている。
修理ともいえない杜撰なやり方に、抱き枕カバーを弟に投げつけた。
「これ、あんたにあげるよ」
「……え?」
「これもう使えないし。私にはアリサがあるから」
クルミンと人気を二分するアリサ。私はどちらかといえばアリサ派だったから、これをあげても別に気にならない。というか、何が当たるかわらかない仕様になっているキーホルダーなんかは、クルミンばかりが出て困っていたくらいだ。それだけクルミングッズが集まってきてしまえば少しくらいクルミンが可愛く見えてきてしまうもので、時と場合によってクルミン派とアリサ派を使い分けていた。
弟がクルミンファンと分かった今、部屋にあるいらないクルミングッズの移送先が決定した。
困惑する弟の前に、クルミングッズを積み上げた。
「これもあげるから、新しい抱き枕買って。ビーズクッションの気持ちいいやつね」
カタログに載ったクッションを指定すると、弟は困惑したように頷いた。クルミンの限定カバーを買い替えると思えば安いもんだろう。
「てか、姉ちゃんまだ着替えてないんだ」
少し落ち着きを取り戻した弟に安心して、私は太ももを見せつけてやった。