表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/21

「約束する。お前が困ったとき、お前が何かを欲しがったとき、俺は全力でお前の味方になる」

 ライブハウスを出たゼップは来た道をそのまま戻ってバス停に向かっていた。

 行きは徒歩だが、帰りはいつもバスだ。

 演奏で消費した体力を考えてのことだが、もうひとつ理由はある。

 ゼップはギターケースを背負って歩いているのだが、その足取りはひどく重い。

 それどころかふらついている。酔っ払いの千鳥足まではいかないが、よろめきながら

歩いている。


『ぅー……』


 ギターケースの隙間からヴァリ子の瞳が覗く。パチクリパチクリと瞬きしていて、


『…………ムぅー』


 と心配そうにゼップを見つめている。

 ジャラララララ、とギターの音がした。


「ん? あぁ」


 あの歌を演ったあとはいつもこうだ。

 吐き気と頭痛を嫌ってゼップは忌々しげに首を振る。


「ああ、くそ」


 妖精の世界にぶち込まれた者は、ありとあらゆる知識をまったく知らない言語で

四六時中、脳髄に叩きこまれる。

 その情報量は膨大であり、知識の伝授には脳回路が焼き切れるような苦痛を伴う。

 一つの脳に格納できる情報量には限界がある。それを軽く超える情報の濁流を受けた

子供は記憶と常識と、他人への信頼を失う。

 何も感じなくなってただ他者への警戒を残すようになったら、小人たちに捨て去られる。

 今、ゼップの頭にはその頃の記憶が薄っすらと蘇っていた。

 こちらの世界ではない歌を聴いて妖精たちに叩き込まれた記憶が蘇り、帰還者である

はずのゼップの意識を奪い去ろうとしていた。


『ぅーっ、ムぅーっ!』


 気が付けば、周囲の景色が変わっていた。


『ムムムぅーっ!』


 ゼップが立っていた場所はバス停だった。

 ギターケースのわずかな隙間から幽体を無理矢理伸ばしたヴァリ子の顔が、眼前に

あった。


「ん? あ、もう着いていたのか」


 口に出して言ったのは失敗だった。

 隣にいた、同じ年頃の女の子がすすっ、とゼップとの距離を開けた。


『ぅー……』


 ヴァリ子が悲しそうに唸る。

 まるで旦那を心配する幼妻のような表情だった。


(悪い。心配かけた)


 屋根付きのバス停だった。

 ゼップは時刻表を貼り付けたポールの前で嘆息して、ぼんやりと空を見上げる。

 車の音に他人の息遣い。風の音に他人の気配。

 気を抜くと、それら全てが妖精の囁き声に聞こえてくるようだった。

 バスに乗ってさえしまえば終点はムラサメ学園だ。

 乗車するまではずっと、この危うい状態で街中を歩くはめになる。気がつけば車道の真ん中に突っ立っていて、ドライバーに「死にてぇのか!」と怒鳴られていたことも幾度かあった。

 彼がそれだけのリスクを犯してまで演奏するのには理由がある。

 ゼップは妖精界で小人に捨てられたとき、ヴァリ子に助けてもらった。

 彼女がゼップを元の世界へ導くためには、ゼップと契約を交わす必要があった。

 妖精であるストラト・ヴァリ子がゼップへの意思伝達を可能にするために(それでも不完全なコミュニケーションになっているが)、彼に所有者になってもらう必要があったのだ。

 所有者になるということはストラト・ヴァリ子に歌を謳わせて、伴奏の役目を担うことだ。

 帰還者になった後、彼女を定期的に全力で歌わせる。それが契約だった。

 その契約のおかげで、ヴァリ子は『こちらの世界』で人型の霊体を得て、ゼップに

対して発声以外の、身体を使った感情表現も行うことができる。


『ムぅー……』


 ヴァリ子がゼップの目を覗く。

 ゼップはそこから、彼女の意志を汲み取る。


(周りは見ててやるから安心しろ、か?)


 こくこくこく、とヴァリ子が頷く。

 ゼップはヴァリ子に頷き返して、再びぼんやりと空を見上げる。

 心ここに在らず、といった様相だった。

 あの歌を普通の奴に聴かせれば、そいつも今のゼップのようになる。

 歌を聴けばまるで催眠術をかけられたように意識が霞みがかって、気がついたときにはもう忘れてしまう。

 あまり聴かせると妖精に魅入られてしまう。

 向こう側へ連れて行かれて、ゼップと同じように妖精に蹂躙される。ヴァリ子はゼップに、そう教えた。

 だから結局のところ、ヴァリ子の歌は『帰還者』以外には聴かせられない。

 そのせいで歌が広まらない。

 ヴァリ子の影響で音楽をこよなく愛するゼップだが、彼がスーパースターになることはけっしてありえない。


「あれ、ゼップさん?」


 ふと声がした。ゼップは気づけない。


『ぅーっ! ……ムぅぅっ!』

「ん?」


 ヴァリ子の強い呼びかけに、彼はようやく反応する。


「お、やっぱりそうだーっ。こんにちは!」


 ショートカットの金髪に褐色の肌を持つアクマの女学生だった。ゼップの知らない顔

だった。

 知らない顔だったが、彼女の隣にいる人物はよく見知った顔だった。


「ヨウコか。あと、」


 誰だ? とゼップは動きを止める。


「あうう、メフィーすよ! リッピと仲良し! もう何度も会ってますってばーっ」

「ん? そうだったな。すまん」

「うう、絶対うそだ! 思い出したふりしてるけど絶対覚えてなさそう!」


 ゼップは愛想笑いで誤魔化すが、メフィーの言葉は正しかった。

 まるで覚えていなかった。

 ゼップは他人の顔を覚えるのがひどく苦手だった。

 記憶障害と言っても差し支えない水準で、だ。

 今でも夢に見るほど妖精の世界が忘れられない分、こっちの世界のことを覚えているには限界がある。

 妖精が洗脳の効果が薄れないよう、日常生活に必要な記憶領域を削っているのが原因らしい。

 記憶障害に加えて、他人には不可視のストラト・ヴァリ子への異常な執着。

 その二つのせいで、人気者だったゼップ=ムラサメからは友人が離れていったのだ。


「演奏の帰りですか?」


 ヨウコがゼップに訊いた。


「あぁ、そうだ。お前たちは?」

「買い物の帰りなんです」

「カズヤは一緒ではないのか?」

「はい。一週間ずっとついていてくれたし、今日はメフィーちゃんが誘ってくれたから」


 ヨウコが柔らかく微笑む。


「カズヤさんねぇ――」


 彼女の横で聞いていたメフィーが不意に言う。


「あのひと、だめだめじゃない?」

「え? なんで? そんなことないよ?」

「でもさぁ、……ヨウコのこと確認したら逃げられたよ?」

「確認? なんの?」


 ヨウコはわかっていないようだが、ゼップにはメフィーが言わんとしていることが

わかった。

 わかったのだが、ゼップは何も言わない。


「うーん……」


 メフィーも頭を抱える。歯に衣着せぬアクマたちだが、本人を前にこれはさすがに言えない。


(カズヤか)


 ゼップは昔を思い出す。

 ストラト・ヴァリ子を抱えて元の世界に戻ってきた頃のことだ。

 元の世界に戻っても元のゼップには戻れなかった。

 ヴァリ子だけが友達だった。ヴァリ子以外のことはほとんど忘れた。

 ゼップはとりあえず入院させられた。

 入院している間、家族はずっと構ってくれた。ゼップが何も言わなくても、毎日

話し続けてくれた。

 ゼップはずっと無視していた。ギターばかり弄くっていた。

 なのに、家族は毎日病室に来てワイワイ騒いでいた。

 ゼップは唐突に言語を思い出して、家族に訊いた。


「今の俺は、前と違うだろう。気味が悪くないか?」


 ゼップはかつてのゼップを思い出せていなかった。

 今の自分が以前の自分と違うことはわかる。喋り方も考え方も、表情筋の使い方も

変わった、ということだけわかっていた。

 そんな状態の彼に、彼らは即答した。


「家族じゃん」「家族だろうが!」「家族なんだからぁぁ」


 ――ああ。

 ――そういえばこのひとたちは、家族だったか。

 ――俺が世界中に嫌われても誰の役に立たなくなっても俺を忘れない。

 ――俺がピンチのとき、無条件で味方になってくれるアクマたちであったか。


 そういった具合にゼップは家族を思い出した。

 彼は一月ほど入院して、ひとまず学校へ戻った。

 元々授業は適当に受けていたので勉学についてはあまり変わらなかった。

 ギターをやたらと弄くり回すようになったり、他人の話にまったく興味を持たなくなり、他人の顔を覚えることが障害レベルで困難になったことは大きな変化だった。

 自称友達だった連中は、みんなゼップを気味悪がってどこかへ行った。

 誰も近寄らなくなった。

 ただ二人を除いては。

 カズヤ=アサクラがそうだった。

 ヨウコ=クサワケもそうだった。

 毎日毎日、ゼップがいくら無視してもカズヤは以前と同じように「一緒に遊ぼうぜ!」と誘いに来た。

 ゼップは、最初はそいつが誰だったのか思い出せなかった。

 それどころか、毎日声をかけられたのに顔も名前も覚えられなかった。

 一ヶ月通い詰められて、ようやく二人がしつこく声をかけてきていることに気がついた。

 ヨウコのことはわからなかったが、カズヤがかつての友だったことは薄っすらと思い出した。

 だからゼップは訊いた。


「気味が悪くないのか、俺のこと。前と違うだろう?」


 カズヤは即答した。


「友達だからな!」

「確かにそうだったと思うが、俺に近寄っているせいで他の奴らと縁が切れているだろう」

「あいつらなんてどうでもいい。友達だったお前を助けない奴らなんて友達じゃねぇ!」


 ゼップが返答に困っていると、カズヤはしんみりしながら言った。


「……部屋も隣で、一番仲良かったじゃん、俺ら」


 だから。とカズヤは言った。


「嫌なんだよ。みんなみたいにお前を放っていっちゃったらさ、お前と一緒にいて楽しかったのが嘘みたいじゃんか」


 だから。と、カズヤはもう一回言った。


「……思い出してくれよ。じゃないと俺、いい加減泣くぞ? 最近けっこう辛いんだぞ?」


 そして、最後に言った。


「友達じゃん」


 ――。

 ――。

 ――ああ。

 ――そうか、こいつは。

 ――俺が俺を忘れても、俺のことを覚えていてくれる、味方になってくれる奴なんだな。


「ああ、そうだった。友達だった」


 だからゼップは言った。


「すまない。忘れていた。すまん。許してくれ。でも思い出した」


 そしてゼップは誓った。


「もう二度と、死ぬまで忘れない。死んでも忘れない」

「お、おおお……? 絶対だな? ……うそじゃないよな?」


 後にも先にも、カズヤが泣いたところをゼップに見せたのはこの一回きりだった。

 カズヤ=アサクラは他人でありながら家族と同じ事を言った。

 だから彼ならもう一度信じてもいいとゼップは思った。


「……? 変なの、ゼップさんも黙っちゃって」


 ヨウコの一言でゼップは我に返る。


(ヨウコか)


 カズヤの妹分だ。

 カズヤにとって大事な人間だから顔も名前も覚えた。

 カズヤは彼女に何かあったとき、いつも悲しむ。

 いつも辛そうにする。

 だからできることなら彼女には幸せになってもらいたい。

 そうすればカズヤも幸せだろう。


「ゼップさんが変わってるのは今に始まったことじゃないじゃん?」


 歯に衣着せぬメフィーが真実を言う。


「メフィーちゃん、失礼だよ」


 さすがにヨウコが難色を示した。


(ふむ)


 ゼップにとってメフィーの発言は別に痛くも痒くもない。

 しかし、ゼップはふと思った。

 親友のそばにいつもいる女。

 ヨウコ=クサワケはいったい、ゼップ=ムラサメをどう思っているのか。


「お前もそう思うか、ヨウコ」

「え?」


 弱気になったわけではない。

 ただ、なんとなく訊いてみたくなった。


「お前も、俺を気味が悪いと思うか?」


 ゼップは今でも、かつての自分を完全に思い出せていない。

 そんなゼップを、ヨウコはどう思っているのか。


「そそそ、そこまでは言ってないっすよゼップさんッ?」


 メフィーが慌てて訂正する横でヨウコがぽかん、としていた。

 だがゼップが真剣な顔で答えを待っているのを見て、すぐに顔を引き締めていた。


「……ゼップさんは、どうですか?」

「む?」

「私のこと、気味が悪いと思いませんか?」


 ヨウコは逆に訊いていた。


「人間なのにアクマみたいになってしまう私のこと、気持ち悪いと思いませんか?」

「そんなことは一度も思ったことがない」

「だったら、それと一緒です」


 ヨウコは屹然と答えた。


「私もゼップさんのこと、気味悪がったりしません。だってゼップさん優しいです」

「優しいか?」

「はい。私がカズちゃんのお部屋にいるとき、いつも私が好きな曲、弾いてくれてますよね?」

「…………」

「そんなひとのこと、嫌いになるわけがないです。いつも私の味方でいてくれるひとを

嫌いになったりしません」

「…………」

「――? あの、変ですか? 変な事言いましたか、私……」


 ゼップは黙ったまま、固まってしまっていた。


『……ムぅぅ?』


 ヴァリ子がゼップの眼前で手を振って、意識を確かめる。


「おー……? なにこれアタシ、超邪魔者?」


 メフィーがエキストラに格下げされていた。


「おい、メフィー、だったか」

「あ、はい。ご指名ですか!」

「次のバスが来るまであと何分ある」

「えー……五分ちょい?」

「公衆電話はどっちだ」

「あっちですが?」


 通りの向こうを指差すメフィー。


「わかった。少し、ここでヨウコと待っていろ」


 ゼップが走る。


「ちょっとーッ! 赤ァァァ!」


 信号のことである。

 行き交う車の波に塞がれた道路。

 ゼップはそこを、ギターケースを背負ったまま俊敏な動きで駆け抜ける。

 クラクションも急ブレーキもなかった。

 それくらい彼は速かった。

 ゼップは無傷で公衆電話まで到達する。

 小銭を入れて、


「ヴァリ子、寮の電話番号」

『ムぅー♪』


 ピ、ポ、パ。


「ゼップです。カズヤはいますか。探してください。至急の用件です」


 待つこと数分。


『もしもーし』

「カズヤか?」

『俺だー、どした? 電話してくるなんて珍しいじゃねぇか』

「今、ヨウコといるんだが、このまま取られたくないなら、さっさと取り戻しに来い」


 無言。


『はぁッ? 何言ってんだ、お前』

「ムラマサ通りのバス停だ。早く迎えに来い」

『友達が一緒じゃないのか?』

「いいから迎えに来い。あいつはお前の女だろう」

『いやいやいや、それ違うそれ違う。妹! ヨウコは確かに女だけど、俺の妹!』

「なんでもいい。とりあえず来い」


 こういうところで、やはりゼップはアクマだった。

 彼は嫌だった。

 大好きな二人が互いに無理矢理、納まるところに納まろうとしている今の姿が大嫌い

だった。


「俺はお前とヨウコに期待している。こちらがウンザリするほど、仲が良いところを見せてくれると信じている」

『うあー……なんだそりゃ……』


 ゼップは知っている。こう言えばカズヤは断らない。

 他のことは忘れても、ゼップはカズヤを忘れない。


『ちっくしょ――覚えてろよテメエ。兄妹揃って俺を弄びやがって!』

「来るのか?」

『迎えには行ってやる! でもお前の期待には絶対応えない! それだけは無理だ!』


 がちゃん! と乱暴に電話が切れる。


『ムぅ♪』


 ヴァリ子が親指を立てて、ゼップの功績を褒め称えた。


「そういうわけだ。カズヤが来る。ヨウコはここで待っていろ」

「どーゆーわけっすか……」


 メフィーがツッコミに格上げされていた。

 ちょうどバスが来た。


「つべこべ言うな。さて(こいつは誰だったか、まぁいい)お前は俺と一緒にバスに乗って帰宅だ」

「なんすかそれェェ! ていうか、あなた、あたしの名前もう忘れてるでしょ!」


 ゼップはうるさいのを先にバスに押し込める。バスはそれなりに混んでいたので、

ゼップは乗車口を塞ぐような形で立っていた。

 彼は、ヨウコの方へ身体を振り向かせる。


「えーと……」


 あまりの展開にヨウコは、……どうしよう、という感じだった。


「カズヤが迎えに来るのを待っていればいい」

「……どうして、そんなことを?」

「お前をいい女だと思ったからだ」


 ゼップは気後れせずに言った。


「約束する。お前が困ったとき、お前が何かを欲しがったとき、俺は全力でお前の味方になる」


 帰還者ゼップ=ムラサメはヨウコ=クサワケの顔を二度と忘れないだろう。

 たとえ妖精が再び彼をさらったとしても、彼は家族とカズヤとヨウコを忘れないだろう。


「好きなんだろう、あいつのこと」


 ヨウコが全身を硬直させた。


「カズヤもお前もそこから逃げているように見える。俺とリッピはアクマだから、それが何故なのか、わからない。でも俺たちは何があっても、お前たち二人の味方だ」

「…………」

「本当の兄妹じゃないんだ。一度きりの人生なんだ。好きに生きればいい」

「ちがいます、そんな、」

「だったらどうして、カズヤを兄と呼ばない」

「…………」

「気づいていないとでも思ったか? 我慢する必要があるのか?」

「……だめですよ」


 バスの扉が閉まり始める。


「だって――私が好きになっちゃったら――」


 彼女の言葉は生憎、ゼップの耳にはそれ以上、届かなかった。

 ドアが完全に閉まり、エンジンの駆動音と共にバス停が遠のいていく。


『…………ムぅ』


 ギターケースの隙間から相変わらず、ヴァリ子が身体を伸ばしていた。


(あいつは最後、何を言っていたんだ?)

『ぅー…………ムムぅ』


 押し黙ったヴァリ子はゼップと目を合わせて、静止する。

 ゼップも思考を解読すべく、集中する。


(それは、あの子を迎えに来るカズヤが聞かないと意味がない、か?)


 こくこくこく、とヴァリ子が頷く。


(では、しょうがないな)


 ゼップは目を閉じて微笑した。


『…………』

(ん? どうした?)


 ヴァリ子が何かを伝えようとしている。

 彼女は不安を抱き締めるように、自身の胸に自分の両手を押し付けて、きゅっ、と唇を結んでいた。

 ゼップがその、怯えに濡れた目をじっ、と見ている。


(私と出会ったときのことを覚えているか、と訊いているのか?)


 ヴァリ子が、こくこくこく! と何度も頷く。


(覚えていないな)


 ――本当に? と、上目遣いでヴァリ子が見上げてくる。


(あぁ、本当、)


 思いかけた瞬間、ゼップの意識がぐらり、と揺らいだ。


(いや、待て)


 ――ゼップはふと、ヴァリ子と初めて出会ったときのことを唐突に思い出した。

 ゼップは小人に捨てられて、わけがわからなくて、ひとりで膝を抱えて途方に暮れて

いた。

 やがて座っているのにも飽きて、当て所なくふらふらと歩き回った。

 深緑の森が延々と続いているような世界だった。

 背丈ほどある大きな葉をつけた草を掻き分けていくと、どこからともなく音が聞こえた。

 楽器の音と歌だった。

 今まで聴いたことのある歌の、どの歌にも分類されない歌だった。

 ゼップは音に誘われるままに茂みを抜けて、湖のほとりに出た。

 透き通った水の上。

 水面をステージに見立てて踊るのは蛇だった。

 胴体から生やした二本の腕で器用にギターを演奏する蛇だった。

 ゼップの姿を見た蛇は飛び上がるほど驚いて、ギターを落としてしまった。

 そしてそのまま脱兎の如く逃げ出した。

 小人の影響で警戒心を強めるゼップは、しばらく待った。

 しばらく待って、蛇が帰ってこないと確信したゼップは古ぼけたエレキギターを拾い上げた。

 ゼップは、自分の手でギターを鳴らしてみた。

 鳴らし続けた。

 ……やがて、へたくそな演奏を茂みの影から聴いていた蛇がゆっくり出てきた。

 演奏を止めたゼップは、蛇と見詰め合った。

 その場では警戒心よりも、蛇の演奏に対する興味が勝った。

 蛇の上手な演奏を聴きたくなったゼップは、蛇にギターを返したのだ。

 それから長い間、蛇の演奏を聴いて、彼女が明るい曲から悲しい曲へ演目を変えたときにゼップは思い出した。


(初めて出会ったとき、俺は、自分が誰かよく思い出せないけど、元の場所へ帰らないとだめなんだ、ってお前に言ったんだっけな)


 こくこくこく、とヴァリ子の首が縦に動く。


(そうしたらお前、言葉が通じない俺に、下手な絵を描いて必死に教えてくれたんだったな。もうあなたは狂っている。向こうに帰る方が辛いかもしれない、って)


 こくん、とヴァリ子が小さく首肯した。目の端に涙が膨らんでいた。

 その涙を見て、ゼップは気づいた。


(そうか。俺がこっちの世界に戻ってきて後悔していないか、不安なんだな?)


『ムぅ』とヴァリ子の口から声が漏れる。肯定の『ムぅ』だった。


(俺が今、幸せなのか。こっちに帰ってきて歌に振り回されて、後悔していないか。ヨウコたちみたいに、普通の恋をしてみたくないか、それが不安なんだな?)


 ヴァリ子が強く頷く。


(なるほど)


 孤高のギタリストであるゼップ=ムラサメは思った。

 考えるまでもなく、答えは決まっている。


(ラヴェ・アヴェラ)


 へっ? という様子でヴァリ子が目を丸くする。

 ゼップは、あなたを愛している、と言ったつもりだった。


(後悔なんかしていない、ということだ。こっちに帰ってこれてよかったと思っている。お前に出会えて感謝している)


『…………』


(お前がいてくれるからひとりではない。だから、感謝している)


 丸くなっていたヴァリ子の目が潤んで、涙をこらえるように細くなる。


『…………ムぅ』


 ヴァリ子はゼップにすり寄って、彼にしなだれかかった。

 彼女は至近距離でゼップと目を合わせる。必死に訴えかける視線だった。


(わかっている。俺は、お前のものだ)


 その情愛を受けながら、ゼップは思う。

 ――こいつが見えないみんなからしたら、基本的に俺は気持ち悪いだけなのだろう。

 けどまぁ、いいか、とも思う。

 一度きりの人生だ。助けてもらった、惚れた女に思うまま捧げるのも悪くはない。

 それがゼップ=ムラサメという、一人の男が生きると決めた道だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ