後編 魔族
体勢を崩したサシャリアの体は、そのまま床へ崩れ落ちる筈であった。
しかし、そうはならなかった。
何故なら、魔族が咄嗟に手を伸ばしてサシャリアを支えたから。
求めて伸ばした両手は、望んだものに触れることは叶わず、指先が床を向いていた。サシャリアは自身の右肩へと顔を傾けている。魔族は左手をサシャリアの腰に回したまま引寄せ、背中を支えていた右手を後頭部へと伸ばし、白い顔を己の方へと向ける。
まだ温かい身体。サシャリアが生きていた残り香のように体温は留まっている。魔族が抱きとめていなければ、もう動かない身体はいとも簡単に冷たい床に横たわるだろう。
開いたままの目蓋。サシャリアの琥珀色の瞳は光を失い、無機質に魔族を映しているだけで、ついさっきまで流した涙はもうこれ以上流れることはない。
何かを言いたそうに少し開いた口は、騎士の名前も侍女の名前も呼ぶことはもう永遠にない。
白い肌はどんどん熱を失い、徐々に青白くなってゆく。
魔族の怜悧な青い双眸は、命を失ったサシャリアをじっと見ていた。そうして見据えたまま、己の唇をまだほんのり温かい唇に重ねて、過去を掬い取った。
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不完全な陣での召喚。いい気分ではなかったのだが、魔法陣と呪文から紫の魔力が薄っすらとではあるが感じられた。
古い古い、王家と同じくらいの歴史を持つ、魔術師一族の血筋とそれに準ずる魔力。
まだ残っていたのか。魔族は少し驚いて、興味をひかれた。
魔力の痕跡もこちらを呼び出すむこうの手の内の一つなのだろう。気に食わなければ、さっさと殺してしまえばいい。そう思いながら持て余した時間を潰す程度の好奇心を満たすためだけに、召喚に応じた。
魔族を呼び出した相手はこの国の王で、陣を敷いたのは紫がかった灰色の目をした宰相。
二人は覚悟をしての召喚であったが、いざ魔族が現れると驚愕の表情を浮かべた。その後の恐怖を含んだ表情をまるべく表さないようにしたのは、為政者としては及第点をくれてやってもいいだろう。
万が一を考えて、宰相の一室で陣を構えたのも、まあまあか。
思いながら魔族は口に出して言い放つ。
「面白い輩が、この俺を釣ろうとしたものだ」
一切の感情を排した言の葉に含まれた魔の力が、部屋を勢いよく縦横に駆け抜け、閉め切った窓を開け放ち、燭台の灯りを一瞬にして掻き消した。
明かりが消える一瞬に浮かんだ人間の二人の驚き怯んだ様子は、すぐさま闇に溶けた。
暫くして、ぽつ、ぽつ、と燭台に明かりが灯る。
光は部屋の中央に立つ魔族の鬱金色の短い髪と底知れない青い双眸を照らした。その魔族の足元の陣は、人間から見れば完璧なのだが、いかんせん魔族からしてみればあちこちが破綻している、歪な上に未完成の陣である。
魔族は無言のままで王と宰相を見ていた。
王はこくりと喉を鳴らした後、意を決して口を開く。
「取引がしたい」
単刀直入に要件を言った。
「王!それは!!」
焦った宰相が王へと顔を向け、嗜めようとした。だが眉を寄せた王は首を横に振る。見事な金髪を燭台の光が彩った。
「これしか方法が無いのだろう?」
思いつめた声に宰相は沈黙でもって応えるしかなかった。
様子を眺めていた魔族は、王の本質が真っ直ぐな人間であることと最終手段で禁呪に手を出したとのだろうと当たりを付ける。
人間の間では禁止されている魔族に対する呼び出しの陣と、陣を描く時に唱える呪。
理性も常識も持ち合わせている人間のそれも王が、何故ゆえに禁呪に手を出したのか。
直球で取引を持ちかけるからには、絶対に得たいものがある筈だ。危険と愚を犯してまでも手に入れたいものは何なのか。
陣と呪はおそらく不完全であると予想した宰相。彼は己が持つ人間としては結構大きなしかも紫の魔力による陣と呪は、おそらく魔族の好奇心を刺激するのではないかと予想した。好奇心を刺激された魔族は召喚に応じるだろうと。
宰相の読みは当たった。
「で、何が望みだ?」
同性が聞いてもどこか蠱惑的な低い声に促されるように二人の顔が魔族へと向かう。
橙色と紫がかった灰色の二つの視線を無造作に受け止め、腕を組んだままで魔族は言葉を続ける。
「さっさと言え」
魔族が王に向けるあまりにも尊大な態度と命令口調。王は怒りを宰相は苛立ちを顕わにした。魔族が面白そうにくつりと喉を鳴らすと二人は我に返り感情を引っ込める。これはわざと挑発しているのだ。王と宰相は平静さを取り戻す。
躊躇う王は、大きく息を吸った後。
「今の王妃を誘惑して欲しい」
「単刀直入だな。理由を言え、王」
「……幼馴染を私の王妃にしたい」
ふうん、と途端に興味が失せた声。尚も王は言い募った。
「愛する人を、王妃としたい。父もそうだった」
王の口から出た言葉。自分の父たる前国王は、生涯たった一人しか伴侶を持たなかった。周りは血統維持の為に反対したのだが、頑として拒否をして、最終的には後宮を閉鎖した。
王と王妃は子宝にも恵まれ、そんな二人に育てられて自分も、父や母のように愛する人を王妃にしたいのだと。
これだけが願いなのだと。
饒舌ではなく、淡々と、だがありったけの想いが籠った言葉を宰相は聴いていた。
魔族と取引をするのは宰相ではなく、幼い頃より共に学び遊んだ王である。呼び出しはしたものの、契約に関しては宰相はどこまでも部外者なのだ。じっと様子を窺っている宰相は、何かあれば魔法を使うつもりなのが見て取れる。その証拠に両眼の紫がほんの僅かだが濃くなっていた。
無駄な警戒をする、と魔族は口の端を歪める。魔族にかなう筈がないと宰相自ら知っているクセに、何とも愚かなことよ。
顎に手を当てて思考を巡らす。答えは既に出ていた。問題は代償に何を貰うかだ。
魔族が王を見る。王は魔族の視線をまっすぐに受け止める。薄っすらと嗤いながら魔族は口を開いた。
「お前の次世代を寄越せ」
王と宰相はあまりのことに凍りついた。一瞬にして重くなった部屋の空気。意に介せずに魔族は尚も言葉を続ける。
「それ以外は応じない」
次世代、すなわち王と王妃になるであろう女性との間に出来る子供達。彼、彼女らを代償に寄越せと魔族は言い放った。
青褪めた顔の王は唇を噛みしめ、ぎり、と拳を握った。何の為によその国から来た王妃を初夜の義務以外は一切抱かなかったのか。その理由を取引に差し出せと魔族は言う。
溢れる怒りを抑えようと更に王は拳を握り込む。苦しそうな荒い呼吸をしながら橙色の双眸は行き場のない憤りでギラギラしていた。
「―――――」
気づかわしげに、幼い頃から呼んでいた王の名を宰相が口にする。
時間だけがせわしなく通り過ぎた。
部屋に響いたのは、嫌悪と憎悪が混ざった、王の怨嗟の声。
「承知した」
魔族はニィと嗤いながら言う。
「契約成立だ」
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サシャリアの気持ちを向けさせるのは、魔族にとてはとても容易いことだった。
王の計画は、王妃であるサシャリアの不義を口実にしてサシャリアを退けた後、昔からの想い人たる公爵令嬢を王妃とする、というものだ。が、しかし他国から嫁いだサシャリアは中々尻尾を掴ませなかった。この一点を取ってみても中々に頭が切れると判断できる。
契約時に魔族から王妃の護衛騎士を一週間後に交代させろと言われた王は、その通りに護衛騎士を交代させた。新任の護衛騎士がサシャリアを誘惑させるのだろうと予想していたからだ。サシャリアの相手が王よりも見目良い容姿であれば、王の自尊心はいたく傷つけられたであろうが、サシャリアが心を密かに寄せた護衛騎士は、見た目も剣の腕もそこら辺に居る平凡な騎士だ。
あの程度が貴女にはお似合いだと心の中で毒づきながら、遅々として進まない計画に王が苛立ち始めた頃、極秘事項として公爵令嬢の婚姻話が王の耳に届いた。理由は、これ以上公爵令嬢を独りにしたままでは、別の意味で醜聞となると。
意を決した王は手紙を書いてサシャリアを夜中の庭に呼び出した。
巡廻の騎士には、いつもと異なる時間に庭を周る様に指示を下し。
王はサシャリアから全てを取り上げた後、唯一与えた姦通罪と共にルギリンテに送り出した。
騒ぎが収まった頃、積年の想いを遂げて王と公爵令嬢は婚姻を結び。
月日が流れ、サシャリアは息絶えた身体を魔族に預けていた。
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ついさっきまで重なっていた唇が僅かに離れた。
「護衛騎士がまさか契約した魔族とは、王も知るまい」
一方の唇から低くて艶のある声は、だがサシャリアの耳には届かない。
面白半分、暇つぶし半分で護衛騎士ルグリに擬態した魔族。ルグリとしてサシャリアと接し、侍女ミルガの身体を一時的とはいえ乗っ取ったことで、サシャリアの行動をミルガの身体に残る記憶から知った。
あの日、呼び出されたサシャリアがペーパーナイフをしまった抽斗から入れ違いに出したもの。それは王からの手紙だった。昔から現在に至るまでの手紙は、届いた順に重ねていた。そう多くない手紙の束から真ん中あたりで差し障りのないものをサシャリアは迷いなく抜き取る。
「ミルガ、いい?」
二通ある王からの手紙の内、つい先程受け取った方へ視線を落としたままでのサシャリア。命令ではない問いかけに、ミルガは無言で首を縦に振った。視界の隅でミルガの承諾を確認したサシャリアは真っ直ぐにミルガを見る。
ありがとう、と動かしたサシャリアの唇が声なき感謝の言葉を紡ぐ。続いてミルガに皿と燭台を用意させた。
蝋燭で火を点けた身代わりの手紙が皿の上でその身をくねらせる。何かの終わりを告げるかのような、とても静かな炎だった。サシャリアから受け取った手紙を胸に忍ばせたミルガは、証拠を残すため全てが灰になる前に、手筈とおり適当なところで水差しの水をかけて手紙の火を消した。
訴える訳ではない。
サシャリアは、私は罪を犯してはないこれは冤罪だと、真実をただそれだけを故国に伝えたかっただけなのだ。王からの手紙をどう利用するかは、兄である国王が決める事でサシャリアが関与することではないし、出来るはずもない。
ミルガが何とか持ち出したその手紙を故国に送る為に、手間と暇と時間をかけて二人は壁掛けを刺繍をした。最初の何枚かは様子見を兼ねて故国に送った。
慎重かつ巧妙に手紙を忍ばせた壁掛けが、兄で国王の部屋を飾っているとの口上を聞いた日の夜。寝台で一人咽び泣くサシャリアの声を聞きながら、ミルガは止まらない涙を流した。
魔族は濡れた頬をペロリと舐める。蒼白い頬は流れた涙と相まって、既に冷たかった。
つい先程、王との取引とその内容を告げた時も、王の行動ではなく禁呪を使った事実に対して反応をした。王妃としてのサシャリアの資質は全くもって問題ない。愛することは出来ないが、この国を共に支えて欲しいと真摯に言えば、王とサシャリアの二人はある種の同盟関係がおそらくは結べたであろう。
でも、この国の王はそれをしなかった。
前国王と王妃。親として為政者として非の打ち所がない関係が当たり前として育った王は、前国王と王妃の関係が目指すべき理想そのものになってしまっていた。理想を一番身近に
触れて育った。
しかしその前国王は、自分と王妃の良好な関係は、非常に稀有なものだと自覚していた。よって血統維持の為にしっかりと予防線を張っていたのである。
だから「私の代は後宮を閉鎖する」と宣言したのだ。
血統がいか重要かは、王族であれば叩き込まれている。故に前国王は、後宮を「自分の代で」ではなく一時的な閉鎖を意味する「自分の代は」に留めて逃げ道を作った。完全には潰さなかった。
王が自ら望んだ契約で、今の王と王妃の間に新しい命は生まれない。己の父と母を理想とする以上は、後宮も閉鎖したままにするだろう。
魔族は代償は王の次世代だと断言した、だから閨の相手を変えても王に次世代は絶対に訪れない。
そこのことろを公爵令嬢との間のみと誤解するのは向こうの勝手で、魔族の知った事ではないのだから。
喉で嗤う魔族の声が、明かりの消えそうな部屋に響く。
「代償は、お前ではない」
餞別の言葉を添えて、魔族は手を離す。
どさり、と小さな音と共にサシャリアの身体は冷たい床へと今度こそ崩れ落ちた。
青い視線で見届けた魔族は、蝋燭の光と共に部屋を去る。
床に横たわるサシャリアとミルガの為に、寄せては返す波音だけがこの場に留まり続けた。
三昼夜が経ち、四日目の朝に二人の遺体が発見された。手続きに則って海へと葬られることが即座に決まった。