中編 王妃
サシャリアは離れた場所に腕を組んで立ち、面白そうにこちらを見る魔族を、正確にはその青い瞳から全体像へと意識を移した。
相手の底知れぬ魔力と身にまとう禍々しさをここに来て初めて認識した瞬間、ざあと音を立てて全身が粟立つ。
そして恐怖がサシャリアを支配する。人外の恐ろしい相手から目を逸らしたくなるが、あの二つの青い瞳を視界から外すことがどうしても出来ないでいた。
恐怖心を抑え込む為に強く拳を握りながら、サシャリアはふと疑問に思った。
椅子から立ち上がりそして一時の逡巡。
小刻みに震える唇を開く。
「何故、知っているの?」
魔族への問いかけは、危険だ。何故ならこちらの言葉尻を捕られて足元をすくわれる可能性を秘めているから。
―――――何故、貴方は私が冤罪だと知っているの?
敢えてそのように聞かなかったサシャリアは、恐怖の中にも冷静さを保っているといえる。
サシャリアの小さく震えた声とは対照的な響き。くく、と喉で嗤う音がした。
組んだ腕を解く魔族。彼の褐色の筋張った手が、短い金髪をかき上げる。髪をかき上げながら口角を上げた口を開いた。
「あの王は女を今の王妃にする為に、俺を呼び出した」
波音が、魔族の言葉に追従する。
挨拶程度の気楽さで発せられた、だが嘲笑を過分に含んだ言葉が意味するものに、サシャリアは目を見開いた。
両手を口に当てて叫びそうになるのを堪える。膝ががくがくと震え、立っているのがやっとだ。
「禁呪を…使った……」
魔族を呼び出す呪はその危険性から禁止され、禁呪と呼ばれている。
魔族は人間の理が通じない、彼らの理のみ支配されている相容れない存在だからだ。
呼び出したはいいが、気に障る言葉をかけたり態度を取れば、何をされるかわからないという危険な存在でもある。
現在、呼び出す呪は殆どが不完全で完全なものは僅かしか残っていない。
不完全な呪で呼び出されたとあっては気位の高い連中だ、高位の魔族ほど面白くないと感じるだろう。事実、それが原因で国を滅ぼしたという言い伝えもあるほどだ。
サシャリアは失念したままだが、人間に完璧に変化できる魔族は、ごく一部の高位な魔族だけである。
その高位と思われるこの場にいる魔族は、サシャリアの唇から洩れた音にならない空気の振動を捉える。
一を語れば十を知る頭の回転が早い目の前の人間に対して、褒美だとばかりに人の悪い笑顔を刷いた魔族は言う。
「禁呪を発動させたのは宰相だがな、俺が契約したのは王だ」
魔族に何かを持ちかけると何かを求めると、向こうから代償を求められるのは理だ。何者であろうと侵害する事は不可能な契約。
部屋を満たす明かりは、風もないのにゆらゆらと揺れる。
サシャリアの足元から伸びる影も、揺れた。
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この国に嫁いで、国王を見て、例に漏れずサシャリアも恋心を抱いた。
国内外に轟く美貌を華やかに彩る太陽の様な金の髪。燃える夕日を思わせる橙色の瞳は強い光を湛えている。明るく笑い、狩りや乗馬を楽しむ一方で書物も読む。政は独りよがりにならず周りの齢を重ねた臣下の意見もよく聞く。時には自分の意見を通し、或る時は引っ込める。
為政者としては若輩の部類に入るが、将来を嘱望されているこの国の若き王。
それが例え恋であれ憧れであれ、幼さから抜けきれない少女に対して想いを抱くなと言う方が無理だろう。
しかし、国王には心に決めた人がいた。幼い頃より交流のある公爵家の令嬢だ。両人はもとより周りも二人はいずれ…という公認の間柄であった。
結果は王と令嬢は結ばれず、政治的理由で王の横にサシャリアが立つことになった。
嫁いだ当初の内は、自分を見てもらいたいとサシャリアは思った。
手紙を書いて、差し障りのない内容ではあるが返事をもらって天にも舞い上る気持ちになった。
勇気を出して庭園を案内して欲しいと誘ったが執務を理由に、それ以外の誘いも全てやんわりと断られた。
王家の義務は子を生すことが含まれるし、姫として教育されてきたサシャリアも重々承知していたが、王は婚儀の夜以降サシャリアに触れようとはしなかった。
私的な時間さえ共有しようとはしなかった。
若く美しい国王陛下には、幼い頃より仲の良い公爵令嬢がいて、宮廷の誰もが二人の婚儀を望んでいた、と聞いたのはこの頃だったであろうか。
この国の侍女達も流石に大国の侍女であって、サシャリアに度を過ぎた態度を取るようなことは無かったのだが、王が今誰と会っているのかとか、昨日サシャリア主催のお茶会に来なかった婦人方は誰のお茶会に出向いたのかなどを、チクチクとサシャリアの心に針を刺しながら教えてくれた。
宮廷も小国出身の王妃より自国の公爵家の美しい令嬢へ肩入れをする。
否が応にも、ここではこの国の王妃であろうと自分は弾かれる異物なのだと認識せざるを得なかった。
嫌われてはいないだろうが、排除したいとの空気がひしひしと感じられ、それがまた無言であるが故にサシャリアは余計に圧力を感じた。
国王の慇懃無礼で、でも一線を画す自分への態度は初めて会った時から全く変わらない。
それでも王妃を蔑ろにする訳にはいかないのだろう。国王は公式行事にはサシャリアを伴って参加した。サシャリアにしてみればとんだ茶番劇だが、此方の不手際を口実に故国に手を延ばされては困る。
サシャリアは持てる能力を総動員して、落ち度の無いよう無難に日々を過ごす事にのみ腐心した。
そして時の流れと共に王妃としての執務上で小さな手違いが頻繁に起こるようになった。他愛のないそれであったが、余りにも数が多いと気づいたサシャリアは、誰かは知らないけれども自分を本当に排したい人物か居るのだと確信した。
良くも悪くも聡いが故に故国では女性の王族としても破格の教育を受けたサシャリアである。彼女は気づいてしまったのだ。
同時に自分の心の中に、国王に対する恋心がすっかり無くなっていたことにも。
どんな処分であれ、周りが考える方向へ流れて行けばどれだけ楽だっただろう。でもサシャリアの失脚は、祖国へ何らかの影響をもたらす。この大国が周辺国へ同盟を持ちかけ祖国に対して包囲網を敷けば―――――
そこまでは考え過ぎにしても、兎に角向こうが仕掛ける罠にかかりさえしなければ、避けられる事態は数多くある。
国王側は、王妃が何か失敗をしたらそれを理由に故国へ帰還させる計画だったと思われた。
肝心のサシャリアといえば、きわめて冷静に立ち振る舞って中々尻尾を掴ませないでいた。
保身が祖国の安寧へつながると考え、なるべく波風を立てず、一つを除いた義務は完璧に果たした。
この国の王妃といえど、元々は他国の姫だ。こちら側の事情は王妃の故国には多少なりとも伝わっているであろう。
当時、全くと言っていいほど落ち度の無い王妃に対してその身を危うくする手段を用いれば、確実に二国間の問題になるので流石に使えなかった。
豪奢な場所で息を潜めて生きる日々。
国王と並んでも何ら遜色ない彼の想い人たる公爵令嬢。彼女と彼女の取り巻きのご婦人方とも笑顔で挨拶を交わす。
これはサシャリアにとっては、故国を背負ったある意味戦いでもあった。勝たなくてもいい、だが負ける事だけは赦されない、戦い。
それは隙あらば陥れようとする人達に対するせめてもの抵抗でもあった。
神経を張りつめ、気を張る毎日。味方は自国から付き従う数人の侍女のみ。
追い詰められ疲れ果てて、全てを投げ出したいと何度も思った。
そんなある時、ルグリが王妃付きの騎士として配置された。
腕は立つのだろうが、いかんせん不愛想だ。
長身でがっしりとした体つきで短い茶髪。顔立ちはごくごく平凡であったが、印象的なのはその瞳だった。
深くて鮮やかな青い双眸はサシャリアの脳裏に焼き付いた。
必要事項以外は無駄口を叩かない、寡黙な騎士ルグリが側に居る時だけは穏やかな空気が流れる。
空っぽだった心が温かいものみ満たされるのに、そう時間はかからなかった。
ルグリが側付きになって半年が経った在る日。
背中の半ばまである一本の三つ編みにした真っ直ぐな銀髪を背で揺らす宰相が、自ら王の手紙を持ってサシャリアのもとを訪れる。
宮廷魔術師も兼ねたこの人物は魔術詠唱するせいなのか、顔のみならず声も美しい。
「確かにお渡ししました」
気が付けば、手が勝手に封筒を受け取っていた。
王家の封蠟を見ながら魅了の呪でも使ったのか、と少しだけ眉を顰めたサシャリア見やる宰相の紫がかった灰色の目が、すうと細められる。
嫌な予感しかしなかったが、拒否権はこちらに無い。
ペーパーナイフを取り出すと封を開けて手紙を読む。
そしてサシャリアは覚悟を決めた。
「今宵月が塔に差し掛かる時間…中庭で待っています……」
ミルガはサシャリアから手渡された便箋を震える声で読み上げた。
これは罠です、王妃様行かないでくださいませ。
ミルガは言いたい言葉をどうしても声に出しす事が出来ない。それもそのはず、正式な王からの書簡だ。疑うこと自体が不敬に当たる。
抽斗にペーパーナイフを仕舞ながらサシャリアは微笑んだ。
「ミルガ、支度を」
指定された場所に時間通りに出向くと、そこに待っていたのはルグリだった。
嵌められた―――――
解ってはいたことだが、後悔や申し訳なさを伴った重く苦い感情がサシャリアの胸に広がる。
よもやルグリへの想いを知られていたとは。完璧に隠しおおせていると思っていたサシャリアは己の判断を呪いたくなった。
状況がいまいち把握出来ないのだろう、不思議そうな顔をして近づく騎士に
「こちらへ来ないで…!!」
声を殺して相手を制するのが精一杯だった。
離れてはいたものの、夜更けに二人でいる場面を言い訳のしようが無い状況を、見回りの騎士に発見され。
身分を全てを剥奪されて丸裸にされた後、姦通罪という名の服を着せられて、ここルギリンテに送らた。そして今に至る。
ルグリの処遇はずっと気になっていた。
だが口にすることは憚られたし、おそらく命は無いだろうことも理解していた。
巻き込んでしまった後悔は、ずっとサシャリアの心の底にあった。
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サシャリアの罪が冤罪だと知る者は数少なく、巻き込んでしまった騎士はその中の一人だ。
秘めた想いを寄せた騎士。その騎士が初めからある目的を持って自分に近づいたとしたら…?
散らばっていた破片がかちりと音を立てて嵌った、そんな気がした。
戸惑いながらも「ルグリは…」と騎士の名を口にした。
「貴方だったのね」
魔族をじっと琥珀色の瞳は、あの頃と変わらない。むしろ夜の闇が落ちた所為で一層深みを増したかのよう。僅かに乱れた髪が、切ない表情と相まってほんのりと色香を漂わせる。
眺めながら魔族は事もなげに答える。
「お前を誘惑するという、王との契約だからな」
契約?そうね、契約だわ。王と魔族の間に交わされた私を陥れるという契約。
私が失脚しないものだから、痺れを切らした国王陛下は、禁呪に手をだした。
二つ年上の陛下の学友でもある、あの宰相が陣を描いて貴方を魔族を呼び出したのね。
結果、陛下は望みのものを手に入れた。
なら、目の前の魔族が求めた代償は―――――何?
世継ぎはまだだけれど二人の仲は睦まじいと、ここに来る兵士たちは自慢げに言っていたわ。
国内が安定しているのであれば、国外に隙を見せてはいない。
様々な思考を巡らせているサシャリアの胸を不意に熱い塊がのぼる。
身体をくの字に折って激しく咳き込みながら、ぼんやりした頭で思い至った。
代償は、私だ。
私の感情を利用して、尚且つ禁呪を使ってまで、そこまでしてでも私を排したかったの。
解ってはいたけれど、それでもサシャリアの心は悲鳴を上げる。
痛くて辛くて悲しかった。
咳と相まって琥珀色の目を透明な膜が覆う。
こんな時、背中をさすって気遣ってくれたのは。
はっ、と顔を上げて声を出す。
「ミル―――――」
語尾は咳でかき消された。
「あの女なら二日前に死んだ」
止まらない咳をしながら魔族を見るサシャリアが、二つの青に映りこむ。
「お前が一人で逝くことがどうしても嫌なんだそうだ」
死ぬ寸前、残ったほんの僅かな命と引き換えに俺がお前の最後を看取る、そういう契約だ。
魔族の低い声が、絶望しかなかったサシャリアの心に小さなあかりを灯す。
命の灯がもう間もなく消える。
心残りだったミルガも、自分より先に逝ってしまった。
そう思ったら、全てがどうでも良くなった。
視界が徐々に霞んでいき、波音も聞こえなくなってきつつある体を、ゆるりと魔族の方へと向かわせる。
その場に立ったままの魔族の表情はいつしか消えており、サシャリアは魔族の方へとゆっくりと歩を進める。
この人はあの人ではない。
魔族はルグリではない。ルグリは魔族が人間の形態を取っただけで。
でも、それでも。
もうじき私は死ぬ。なら最後に触れてもいいだろうか。
ようやくの思いで側まで来たサシャリアは距離を置いて歩みを止め、人ならぬ存在と真正面から向き合った。
心と同様に震える細い手を躊躇いがちに魔族の方へと伸ばす。
焦がれてやまなかった青い二つの宝石がそこにある。
晴れ渡る故国の空を凪いだ昼の深い海を思わせる青い色は、今この瞬間、魔族の双眸にしか存在しない。
あの宝石を覆い隠す瞼に、眦に、触れたい。
小さく開いた唇の代りに、熱を帯びた琥珀色の双眸は雄弁に想いを語る。
ほら、あと少しよ。
叶わなかった願いが叶う。触れたかった存在に触れることが出来る。
サシャリアの心に湧き上がる温かい気持ちは、涙となって琥珀色の目から溢れた。
微笑むサシャリアの手は、ざり、と音無き音を立てて空を掻いた。
伸ばした白い指先は求めたものに触れることなく、サシャリアの身体と一緒に崩れる。