9 女の子の部屋/夢のある大人
実をいうと、ぼくは女の子の家に入るのは今日が初めてだ。
なので、ぼくは小岩井さんの家の前でがちがちに固まってしまい、小岩井さんが手を引っ張ってきても、ぼくは身じろぎ一つ出来なかったのである。
「女の子の部屋に入るくらいでなによ。平井くんってひとは本当、意気地なしったらありゃしないわ」
「待ってくれ小岩井さん。ぼくは、小岩井さんという人物を、一種の伝説の生き物のようにとらえているんだ。一角獣とか、麒麟とかと一緒だ。幻影の世界の住人なんだ。そんな尊ぶべき神のように崇拝している女の子の部屋に、恐れ多くもぼくの汚い足で蹂躙するなど、とてもじゃないができないよ。ぼくは、もう帰る」
「平井くん、あなたは、とても面倒くさい男ね。いくらなんでも夢を持ちすぎだわ。でも、安心して。この日のために、部屋はちゃんと掃除してあるんだから。それに、平井くんの足が汚いだなんて、それはあなたの被害妄想よ」
「そうなのか。でも、紙くず一つ落ちていたら、ぼくは失望してしまう。少しでも生活感のある貧乏くさい部屋だったら、ぼくは失望してしまう」
「紙くず一つ落ちていないし、生活感も全くないわ。私が信用できないというの?」
そんなことを言われたら、ぼくにはどうすることも出来なかった。ぼくは大人しく、小岩井家の敷居をまたぐこととなった。
二階の小岩井さんの部屋へ向かうべく廊下を歩いているとき、リビングを通りかかるのだが、リビングには小岩井さんのお父さんがいた。小岩井さんのお父さんは、ソファにどっしりと腰掛け、新聞紙に無言で目を通していた。
「父さん、紹介するわ。私の彼氏の、平井くんよ」
「その男は、金の匂いがしない。その男と付き合い続ければ、お前は将来、1DKのおんぼろアパートに住むはめになるだろう。悪いことは言わない、今すぐ別れなさい」
小岩井さんは呆れたように、アメリカ人みたいに肩をすくめた。
「私の父さんは、娘であることが恥ずかしくなるくらい、夢のない大人なのよ」
「不憫なことだ」
それからぼくらは小岩井さんの部屋に入った。
小岩井さんの部屋は、小岩井さんの臭いで満たされていて、ぼくの心もほんのりと満たされた。
部屋は、本当にきれいにしてあった。ぼくの部屋みたいに衣類が脱ぎ散らかされているわけでもなく、ぼくの部屋みたいに飲み終わったジュースの缶が放置されているわけでもなく、ぼくの部屋みたいに雑誌が捨てるように置かれているわけでもなかった。
極端にものが少なく、そのせいか、小岩井さんの言う通り、部屋には生活感がなかった。
しかし、部屋にはプーさんグッズが散見された。
ぼくは、小岩井さんとの初デートで山登りに出かけたことを思い出した。
「小岩井さんは、やっぱり熊が好きなの?」
「熊も好きだし、プーさんも好きだわ。プーさんだけは、片付けられなかったの」
小岩井さんはベッドに座り、ぼくは学習机の椅子に座った。
そしてぼくは、また小岩井さんの部屋を見わたす。
「生活感がなさすぎて、プーさんのこと以外、なにも感想が出てこないよ」
「生活感を一切拒絶していたのは、どこの誰だったかしら」
「やっぱり少しくらい、普段の小岩井さんの生活を想像できる余地が欲しかった」
「平井くん、あなたは一体、何様なの? 私の部屋がどういう状態であれば、あなたは満足できるというの」
「気が変わったんだ。ぼくはやっぱり、小岩井さんの普段どおりの部屋が見たい」
そういうわけで、ぼくらは小岩井さんの部屋を、もとの小岩井さんの部屋にするべく、ほどほどに散らかった部屋に戻した。
「これが、本当の小岩井さんの部屋か。ぼくの妹の部屋よりは散らかってないけれど、でも、ほどほどに散らかっていたんだな」
「それ以上言わないで。恥ずかしくて、顔から火が出てしまうわ」
「これならぼくも、小岩井さんの私生活を妄想できるぞ。ぼくは、しばらくここで、小岩井さんの私生活について妄想を広げてみる」
「好きなだけ、私の私生活を妄想するといいわ」
すると、唐突に部屋の扉が開いた。
扉から顔を出したのは、小岩井さんのお父さんだった。
「さっきはあんなこと言って悪かったよ、平井くん。ところで平井くんは、将来、どこの大企業に就職するんだい?」
「父さん、あなたは出ていって。私たちは、あなたのような夢のない大人が嫌いよ」
「そんなことを言って、きさまら、これからセックスをするつもりだろう。セックスは駄目だ。子供にはまだ早い。子供が大人の真似をして、子供が子供を産むという行為が、どれだけ背徳的で愚かなことなのか、お前ら子供には分からんのだ」
「私と平井くんが、セックスなんてするわけないでしょう。私たちはもっとプラトニックで、妄想と空想を共有しあえるような、とても神聖な仲なのよ」
「それならいいのだが。ところで平井くん、君はもちろん、将来は公務員に腰を据えるつもりでいるのだろう?」
「早く出ていって!」
小岩井さんのお父さんはショックを受けたような顔をして、肩をすぼませて部屋を出ていった。
ぼくはそんな二人の様子を眺めていて、ふと、自分の兄貴のことを思い出した。
「ぼくの兄貴は、夢見がちな大人になってしまったよ。ぼくの兄貴は、大学を中退し、フリーターをやりながら、将来はバンドマンになると言っている。もしかしたら兄貴は、成人してしまっただけで、まだ子供なのかもしれない」
「あら、でも、すてきなお兄さんをお持ちだわ」
「ぼくは、そうは思えない。だってあいつ、バンドマンになりたいくせに、最近はギターをほっぽり出して、パチンコにばかり出かけているんだぜ。本当に、どうしようもない兄貴さ」
「それは、ちょっといただけないわね。夢中で追いかけられるものだから夢だというのに。平井くん、平井くんのお兄さんはもはや、夢見がちとすら呼べないわ。ただの、どうしようもないやつよ」
「小岩井さんの言う通りだ。あれはただの、どうしようもないやつだ。ぼくらは、夢のある大人になろうぜ」
「私たちは、夢のある大人になるのよ」
小岩井さんと指きりげんまんをした。