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29 夢のある妄想

 丸太の階段を上りきると、目の前をイタチが疾走していった。つられて横を流し見ると、そこには戦時中からずっと潜伏したままの兵隊がいそうな、例の掘ったて小屋があった。雨風に打たれ、今にも倒壊しそうだった。

 ぼくは掘ったて小屋から視線を外し、なだらかに続いていく山道の先を見つめて、小岩井さんの手を引いた。


 ぬめついた斜面に何度も転びそうになる。疲弊で視界がかすみ、雨が黒々として見える。山全体が、ぼくたちの進行を拒んでいるかのようだった。

 それでも進む。

 なにがぼくたちをここまで動かしているのかは分からない。こんなに苦しい思いをしてまで進む意味なんて無いはずなのに、それでもぼくたちは一歩も退がらなかった。




 木々が開けて視野が広がる。水位をあげた滝が、轟々とうねりをあげていた。

 眼下を見下ろす。湖は以前の美しさを欠片も残しておらず、むしろ怪物かなにかの邪悪な開口を思わせた。

「虹の町どころか、虹すら見えないわね。こんな雨じゃ」

 激しい雨音の中で小岩井さんの声が混じって聞こえる。

 以前は涼しいと感じたこの場所が、この状況では凍えてしまいそうなほどに全身の熱を奪う。暴力的な豪雨によって、生きた心地すら忘れてしまいそうだった。

 怪物が口を開けたまま、ぼくたちが落ちてくるのを待っているように見えた。今ならぼくも、あっさり飛び込んでしまえそうだった。


 ぼくの荒んだ衝動を止めるのは、小岩井さんと繋いだ手の温かさだった。彼女も、ぼくの手の温もりに、必死にしがみついているように思えた。


「小岩井さん。夢のある妄想をして」

「夢のある妄想」

「ぼくたちが、いつもしていることだ」


 ぼくは目を閉じた。まずは周りの音を消して、自分の思考のみに身体を預ける。妄想の下準備に、いつもやっていることだ。

 小岩井さんが何か言った。ぼくは耳を澄ませる。

「叶わないことを想像するのが妄想なのに、どうして私たちは、こんな下らないことにこだわり続けるのかしらね」

「さぁ。たぶん、ぼくたちが駄目な子供だからだよ」

「きっとそうね」

 小岩井さんはそれっきり口を閉ざした。たぶん、彼女も今、妄想をしている。

 妄想なら、ぼくはなんでも出来る気がした。小岩井さんを連れてどこまででもいける。それがたとえ、虹の町だって。




 世界は真っ白だった。

 天地の境界も判別できないほどの白一色。ぼくは、小岩井さんと二人で並んで、その世界に立ち尽くしていた。

 サァ。サァ。

 あとは、砂をこすりあわせたような音だけが木霊(こだま)していた。

 ぼくたちは顔を見合わせ、首を傾げる。

「私たち、さっきまで雨の中に立っていたはずだけれど」

「そうだよね。もしかしてこれは、雨の音かな」

 小岩井さんは目を閉じて、耳を澄ませた。

「確かに雨の音ね。うるさいけど、でも、それほど気分は悪くないわ」

 ぼくはうなずく。身体が軽くて、さっきまで感じていた寒気が無くなっていた。頭の中は空白で満たされているし、不安も雑念もなかった。


 ふと、白い世界に、すうっと、細長い色の線が引かれる。幅は手のひらのサイズで、長さは三メートルぐらい。色は透き通るような青、もしくは水色。サファイアブルーだった。

「なんだろうね、これ」

 わからないわ、小岩井さんはそう言って、なんのためらいもなく色の線に触れた。

「なんだか、おもしろいわね。なんて言えばいいか分からないけれど、気持ちがいい」

「ほんと?」


 そうだ。ことの始まりは、誰だってそうなんだ。

 はじめは目に見えるあらゆる物すべてが未知で、そしてぼくは無知で無力だった。是か非かでしか物事を判断できないような小さな存在。だけど、その二つの感じ方でだって、知ることに違いはないのだ。

 もともと、ここは色であふれていたのだろう。ぼくが生まれてから死ぬまで、数も種類も規模も一定を保っている。いつだって、変わるのは色ではなく、ぼくのほうだ。

 今は身をまかせることしか出来ない。未知を恐れて触れないで終わるより、一度入り込んでみよう。

 ぼくは小岩井さんと同じ、その色の線に手を伸ばした。

 サァ、サァ。まだ音は消えないけれど、指先はもうサファイアブルーに触れていた。


 すると、花が開いていくように、次々と色が増えていく。紅色、ブラウン、カーキ、深緑、クリームイエロー、鍵盤状に続々と、規律も法則性もなく現れていく色の配列。それは、ぼくたちの視界を徐々に埋め尽くしていった。パステルもビビッドも和色も洋色も一緒くたに、模様はストライプのようであったり、チェックのようであったり、旋毛状であったり、迷彩だったり、一見すれば無茶苦茶にしか見えない色と模様の展開は、見方を変えれば、抽象絵画を思わせるような華麗さがあった。

 視界を支配していく様に見とれるばかりで、ぼくたちは声も出せずに固まっていた。やがて、小岩井さんの感嘆とした吐息が漏れる。

「色も形も、認識して定義付けるのは、私たち人間なのよ」

「哲学的なことを言うんだね、小岩井さん」

「そんなつもりはないんだけど。つまり私たちは、この決めつけを止めてしまえばいいのよ。私たちが望めば、この景色も、自然と色と形を変えてくれそうじゃない」

「どういうこと?」

「私たち、虹の町を見たいんでしょ」

 ぼくは深くうなずく。

「そういえばそうだ。ぼくたち、そのためにここへ来たんだっけ」

 今一度、ぼくたちは色の大群へと目を向ける。

「虹の町が見たい」


 そう言うと、色が増殖をやめ、従順になった。色それぞれがグループを組むように寄り集まって、少しずつ一つに収束していく。

 もとの色の線、サファイアブルーの一本になるころ、雨の雑音が少し和らいだ。

 しばらくの静寂のあと、パンッ、はじけるような音がした。

 線が扇状に開いていく。

 色は約七色。赤、澄、緑、黄、青、紺、紫。扇子か、バームクウヘンみたいに開いたそれは、まさに虹だった。

 虹の橋が白い世界の至るところに現れる。よく見れば、一帯にモンブランやクリームなどのケーキの家が建ち並んでいた。

 はっとして、ぼくたちは360度いっぱいを見回す。


 空に、ぼくの記憶より気持ち大きいクジラが浮かんでいた。制服制帽のゴリラのお巡りさんが、泥棒の格好をしたクマを追っかけていた。イソギンチャクの家から、八足歩行のタコ人間が顔を出す。

 目をこすってよく見てみると、虹の町は、ぼく個人の妄想も入り込んでいることが分かった。

 全長40メートルくらいの巨人が山を工事していたり、西洋風のドラゴンが騎士を乗せて旋回飛行していたり、スターウォーズとか、X-MENなんかの映画キャラクターまで出てきた。なんでもありにもほどがある。


 横を見ると、小岩井さんがぺたりと地面に座りこんでいた。

「おかしいわね。さっきから私、母さんの姿が見えるのよ。母さんの顔なんて、もうほとんど忘れてしまったはずなのに」

 母さんが、笑ってるのよ。小岩井さんは震えた声でつぶやく。

「全部、ぼくらの妄想なのに」

「それでもいいわ。頭の中でならなんでも出来る。私たちらしいじゃない」

「ぼくたちらしい」

 浮遊する巨大岩石の上に、ロマンチックな古城があればいいな、と思えば実現する。月や太陽が二つずつくらいあればいいな、と思えば実現する。恐竜や未来人がいればいいな、と思えば実現する。

 めまぐるしく展開していく空想。

 七色の虹がぼくたちに拍車をかける。

 虹の町とは、そういう場所だった。



 雨の音は、もう止んでいた。



 ぼくたちは手をつないだまま、あの滝と湖の前に立っていた。

 雨があがったばかりの滝には、色のスペクトルがくっきりと映えた虹がかかっていた。雨雲の間から光の柱が差し込み、滝の水飛沫がきらきらとしていた。飛沫がプリズムを生み、景色がよりいっそう輝く。虹だけは、妄想と比べても謙遜のない美しさがあった。

 もしかしたら虹は、自然が作り出した空想の体現なのではないかと思った。

「本当にあったのね、虹の町」

 ぼくと小岩井さんは、虹が姿を消す最後まで、その景観を眺めつづけた。


 ✳︎ ✳︎ ✳︎


「にじのまちは、いかがだったかな?」

 ヒゲを生やした神さまがにっこりと笑いました。

「すっごく、たのしかったわ」

「ゆめみたい。ボクも、にじのまちにすみたいなあ」

 ユウタくんとマキちゃんはそれぞれいいました。

 神さまは、うれしそうにヒゲをなでました。

「そうだろう、そうだろう。でも、今日はもうおそいから、おとうさんもおかあさんも、しんぱいしているぞ。またいつでもきていいからね」

 ユウタくんとマキちゃんは、神さまにまた遊びにくるやくそくをしました。

「にじのまちは、いつでもキミたちを待っているよ」


 ✳︎ ✳︎ ✳︎


 夏休み最後の日。沢木くんの家でお別れ会をしたあと、ぼくは、小岩井さんと霧島さんと三人で帰り道を歩いていた。


「沢木くんが遠くへ行っても、わたしのことを忘れないようにするには、どうしたらいいと思う?」

 霧島さんが、泣き腫らした真っ赤な目をして言った。ぼくと小岩井さんは足を止めて考える。

「有名人になればいいんじゃないかしら?」

 小岩井さんの提案に、霧島さんは少し考えて、強烈に思いついたような顔をした。

 霧島さんは、小岩井さんの手を握って目を輝かせる。

「小岩井さん、わたしとアイドルグループを組もう。わたしたちなら、余裕でいける」

 霧島さんの思いつきそうなことだな、とぼくは思った。

 小岩井さんは静かに首を振る。

「残念だけど、私は遠慮しておくわ。霧島さんはアイドルより、モデルを目指したらどうかしら」

「どうして? このわたしが、せっかく名案を出したというのに」

 小岩井さんは小さく笑いかけて、夕日を全身で受けるように歩いていく。

「私、夢ができたから」


 ぼくも霧島さんもきょとんとして、小岩井さんを追いかけた。小岩井さんの言う、『夢』のニュアンスは、今までと違って具体的なもののように思えた。少なくともぼくには、彼女の声がいつもよりずっと凛として聞こえた。


「夢って、小岩井さん。どんな夢ができたの?」

 霧島さんが、小岩井さんに追いついて尋ねる。小岩井さんは頬を上気させて、ふんと鼻を鳴らした。

「まだ教えられないわね。夢というものは本来、自分の中で密かに抱くものなのよ」

「じゃあヒント。ヒントくらいはいいでしょ」

「夢のある仕事よ」

 それを聞いて、ぼくはちょっとにやついた。にやついたのが、二人に気付かれなくて良かった。


 アイドルも夢のある仕事だ、と霧島さんは勧誘を続けたが、小岩井さんは頑として譲らなかった。

 ぼくは知っている。さっきのお別れ会で、小岩井さんが沢木くんにプレゼントした、手作りらしき一冊の絵本のことを。


 ぼくは、小岩井さんの隣に並んだ。

「小岩井さん」

「なによ」

「やっぱり親子だね」

「うるさいわね」

 夕暮れの空は雲一つない快晴だった。

 今日はきれいな星が見られそうだね、とぼくは言った。

最後までお付き合いいただき、まことにありがとうございました。

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