28 虹の町
絵本を脇に持って、小岩井さんの手を引いて、ぼくたちは走った。
しばらくして、今朝の天気予報が外れたことを知る。
足を止める。水滴が鼻あたまに落ちて、顔をあげると、薄暗い灰色が空を覆っていた。振り返ると、小岩井さんが不安そうな目をしていた。
学生服のシャツの下に絵本を入れる。濡れないように、服の上から守るように抱いた。
再び走り出しながら、ぼくは『にじのまちのおはなし』の内容を頭の中で繰り返した。
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ユウタくんとマキちゃんは、いっしょにワッと声をあげました。
ふたりの目のまえには、大きなたきがあったのです。
みずのたいぐんが、ざぱざぱと、ながれて落ちています。
そこには、大きなにじがかかっていました。
「わぁ、ドーナツ? きれい」
「ちがうよマキちゃん。あれは、にじさ」
「にじってなあに?」
ユウタくんはこまってしまいました。
「わからない。神さまのための、橋かも」
すると、たきからはなんと、ヒゲをはやした神さまがあらわれたのです。
「ユウタくんの答えは、ちょっとおしいな。橋は橋でも、にじというのは、にじのまちへいくための橋なんじゃ」
「にじのまち?」
「ああ、にじのまちじゃ」
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だんだん雨足は強くなっていき、駆けるぼくらを追い立てるように降りすさぶ。
水気を含んだ前髪が視界に触れ、手の甲でそれを払って前を見据える。雨にさらされた肌が冷えたが、小岩井さんと握った手だけは、温かかった。
「平井くん、どこに行くの」
「滝だ。虹の町は、きっとそこから行けるはずだ」
声が乱れて弾んだ。小岩井さんが言葉にならない呻きを上げる。
握った手の感触が失せた。小岩井さんが手を打ち払ったままの体勢で、ぼくを睨んでいた。
「いつかの山登りで行った、あの滝へ行くつもりなのね」
ぼくは荒く呼吸をして、返事もせずに立ちすくんだ。
「あんな滝、もう二度と見たくないわ。あれを見れば、私は厭でも母さんを思い出す。母さんが死んだときのことを思い出すの。私の母さんは、滝に落ちて、自殺したのよ」
ごうっとした横風がぼくらを叩き、それと一緒に霧の雨が辺りを覆う。小岩井さんの表情がぼやけて見えて、ぼくは濡れた睫毛をぬぐった。
「なぜ母さんが死んだのか、未だに分からない。本が売れないからとか、編集部からひどい扱いを受けていたからとか、親友との折り合いがつかないからとか、色んな噂がささやかれていたけれど、私はそんな理由、信じたくない」
視界を取り戻したころ、小岩井さんの目からは一筋の涙がこぼれていた。
「母さんが言っていた。自分が昔書いた絵本を、子供たちが楽しそうに読んでいるのを見ると、胸が苦しくなるんだって。下ばかり向いて生きている大人が、ふと見上げる綺麗な青空に後ろめたさを覚えるように、母さんも、自分の汚れた手で書いた絵本で、子供たちを騙すのは、もう耐えられないんだって」
ぼくは唇を噛んで、彼女を引っ張って、無理矢理走らせた。
小岩井さんのお母さんは、どうして滝に飛び込んでしまったのだろう。小岩井さんのように、滝に流されれば純真な子供に戻れると思ったのだろうか。
「母さんはね、あなたは、大人になっても青空に感動できるような人になってねって、そう言ったんだけど、でもそんなのおかしいじゃない。子供に夢を与えられるような、母さんみたいな素敵な大人が、そんなこと絶対に言わないわよ。言うわけないっ」
走りながら、小岩井さんは喉を潰さんばかりに叫ぶ。
「あの母さんまでが汚れた大人だっていうのなら、私は大人になんかなりたくない。私も、子供の今のうちに、滝に落ちて死んじゃえばいいんだっ……」
豪雨を切るように走りながら、死んじゃえばいい、と小岩井さんが繰り返し叫ぶ。
やがて、眼前に見覚えのある山小屋が見えてきた。その脇にも、以前登った山道が伸びている。
走るのをやめて、ぬかるんだ地面に足裏をしっかりとつけながら、小岩井さんの手を握りなおして、ゆっくりと山道を歩いた。
言葉もなく、互いの呼吸の音だけに耳を澄ませる。
木々の葉っぱの間から漏れる雨が、じんわりとぼくたちの体温を奪う。制服の下の『にじのまちのおはなし』を抱きながら、出来る限り小岩井さんと寄り添って歩いた。
「もし虹の町に行けなかったら、そのときは、ぼくも一緒に死ぬよ」
小岩井さんは俯いたままうなずいた。
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神さまはいいました。
「さぁふたりとも。にじの橋にのぼってごらん。にじのまちにいくのだ」
「ほんとうにのれるのかしら、この橋」
ゆうきを出して、ユウタくんとマキちゃんは、どうじに橋にとびのりました。
ふたりはそのまま、にじのまちへとたび立ったのです。
「さあさあ、にじのまちへごしょうたい」




