27 夢のある仕事
講習を終えて、小岩井さんに声をかける。
「夢のあるものを見たい」
小岩井さんはまばたきをして、ぼくを見つめた。
「久しぶりに、ね。平井くんがそんなこと言うの、ちょっと久しぶりな気がするわ。本当」
「そうかなぁ」
「そうよ。絶対そう。だって、ここ最近の私たち、ずっと勉強ばっかりだったじゃない。実は結構不安だったのよ。このままでいいのかなぁって。でも、安心した」
小岩井さんは、ちょっとにやけていた。下唇を噛んでごまかそうとしていたけど、声の調子までは隠せていなかった。
「それじゃあ今日は、とっておきの夢のあるものを見せてあげる。ファイナルウェポンよ」
「最終兵器。危なそう」
「全然危なくないわ。安全よ。むしろかわいいくらい」
よく分からないけど、ぼくは小岩井さんのあとに続いた。
小岩井さんが向かった場所は、小岩井さんの家だった。
「ファイナルウェポンが小岩井さんの家に?」
「そうよ。きて」
玄関を開ける。ちょうど、背広を着た小岩井さんのお父さんが、革靴を履いているところだった。
「やぁ二人とも。今日も勉強かい?」
「そうよ。父さんは、これからお仕事?」
「そう。パパ、これからお仕事だよ。今日は帰りが遅くなるけれど、するなら、Aまでだよ」
「父さん、まだ平井くんとは、Aもいってないわ」
「それならいいんだ。当分しなくていいぞ。ところで平井くん、君のパパは喫茶店を経営してるんだって? どうだい、パパのお店は儲かってるかい? 平井くんも将来はパパのあとを継ぐのかな?」
「平井くんには話しかけないでと何度も言ったはずよ。早く会社に行って」
「パパだって、たまには平井くんとお話したいよ。ねぇ平井くん、今後を考えて、今のうちにマネジメントの勉強をしておくのはどうかな?」
「早く行って!」
小岩井さんのお父さんはびっくりして、少し涙ぐんで、肩を落として家を出ていった。
小岩井さんは玄関を見つめて、はぁ、とため息を吐く。
「父さん、ここのところ、平井くんを知るために、あなたをストーカーしようとしてるのよ。もし追い回してきたら、こうやって追い払ってね」
「ぼくは、別に気にしないぞ」
「父さんは、平井くんのそういう所につけあがるの。ああいう大人に限って、タフでせこいのよね」
「残念な父親だ」
「全くよ」
ぼくたちは小岩井さんの部屋に入った。部屋は、やっぱり今日もほどほどに散らかっていた。
小岩井さんは本棚から、ある一冊の本を取りだした。
「夢のあるものとは、これのことよ」
本を受け取る。絵本だった。
『にじのまちのおはなし』、というタイトルだった。
「虹の町のお話。この絵本、どうしたの?」
「これは、私の母さんが書いた絵本なの」
「えっ」
絵本をまじまじと眺めてみた。そのうちに小岩井さんが、本棚から次々と本を出して、ガラステーブルの上に並べた。
二十冊くらいあって、どの本を見ても、ペンネームは『コイワイ』だった。
「私の母さんは、絵本作家だったの。たまに、フリーでイラストを描いたり、児童文学とかも書いていたのよ」
「なんて、夢のある仕事なんだ」
「自慢の母さんだったわ」
そうだよね、と言ってぼくは口を閉ざす。
ぼくは、小岩井さんのお母さんが、もうこの世にいないってことを知っている。
最初にそれを知ったのは、たしか、初めて小岩井さんとデートに出かけたときだった。きれいな滝と湖があるあの場所で、小岩井さんはお母さんを思い出して泣いていた。
「母さんは若くして亡くなってしまったけれど、彼女はたしかに、この世に夢のあるものを残していったの」
絵本の表紙には、何重もの色彩で彩られた、虹のかかる空があった。ページをめくっていく。
クジラが空を飛んでいて、モンブランケーキの家が建ち並んでいて、虹の橋が町中にかかっていて、タコが八足歩行で歩いていて、ゴリラがお巡りさんをしていて、色んな空想が、四方八方に夢を描いていた。
その本はつるりとした肌触りで、少しだけ重かった。ぼくがそう感じるのだから、小さい子供が持つと、もっと重いと思う。
「人が初めて触れる空想って、たぶん、絵本よね。小さな手で、この重くて大きい本を一生懸命ひらくの。すると、自分の中で新しい世界がひらいていく。なにも知らない子供ってね、私たちなんかよりずっと、作り話の中に入っていけるのよ。もしかしたら、作り話だとすら思わないのかもね。クジラは空を飛べるんだって思っちゃうし、世界のどこかの町には虹の橋がかかっていると思うし、ケーキの家は実在するし、タコは八本の足で歩くし、ゴリラがお巡りさんをすることもある。そんな風に、子供は絵本で勘違いして信じちゃうの。でもこれって、決して詐欺なんかじゃないのよね。これが、夢を与える、ってことなんだと思う」
夢を与える、とぼくは反芻する。
「絵本作家の作る夢はあくまでフィクションなのに、子供の頭の中で、夢は本物になっている。これって、すごく不思議なことよね」
「たしかに、不思議だ」
子供は不完全なのに、ある意味で完成した存在だなと思った。
無謀の裏を返せば怖いもの知らずで、無知の裏を返せば純粋無垢で、出来ないことだらけのくせして、なんでも出来ると信じている。臆面もなく、夢は実現できると思い込んでいる。大人にだって、ぼくたちにだってないものを持っているんだ。
ぼくは黙って『にじのまちのおはなし』を読んだ。小岩井さんは黙ってそれを見守った。
ぼくたちはもう、こういう、不完全で完全な存在にはなれないのだろうか。ぼくたちはもう、この『にじのまち』には、行けないのだろうか。
気持ちが高ぶって、ぼくは声をうわずらせる。
「小岩井さん。虹の町は、どこにあると思う?」
彼女の瞳が揺れた。泣きそうな顔をしていた。
「分からないわ」
「今から、探しに行こう」
「私たちには見つけられないわ。どんなに屁理屈をこねたって、この絵本は母さんが作ったもので、所詮はフィクションで、本物の夢は、純粋な子供の頭の中でだけなの。それに私たち、もう何年もしないうちに、大人になっちゃうのよ」
「でも、まだ大人じゃない。ぼくたちだって、まだ虹の町へ行ける」
片手に絵本を、もう片方の手で小岩井さんの手を取った。
「行けなかったら、どうするつもり?」
ぼくは首を振って、
「絶対に行ける」
つよく言った。




