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17 嗅いでしまえ

 ある日の放課後。

 小岩井さんと一緒に帰路についていたとき、ぼくは教室に忘れ物をしてしまったことに気がついた。

「小岩井さん、ぼく、教室にノートを忘れてきちゃったみたいなんだ。ここからは一人で帰って」

「そうなの。でも、一人で帰れだなんて水くさいわね。学校に戻るなら、私もお供するわ」

「小岩井さんは来ちゃだめだ。ノートはノートでも、あれは小岩井さんへの妄想や詩を書きつづった、とても恥ずかしいノートなんだ。見られたら多分、ぼくは死ぬ。どうか一人で行かせてくれ」

「私、平井くんのそういう正直なところ、嫌いじゃないわ」

 ぼくらは別れの挨拶をかわした。




 夕日の差し込む教室に入る。

 自分の机から、『ラヴィン・コイワイ』と書かれた恥ずかしいノートを取り出し、かばんに入れてほっと息をつく。


 そこからぼくは廊下を歩いて生徒玄関へ向かうわけだが、三組の教室からふと物音がして、そこでぼくは、とんでもない光景を目にしてしまった。

 なんと、三組の教室内で、田宮くんが女子の体操服を広げていたのである。

「なにをしているんだ!」

 ぼくが叫ぶと、田宮くんはこちらを向き、驚愕の表情を浮かべた。田宮くんの手にある体操服には、霧島さんの名前があった。

「霧島さんの体操服を盗むつもりか。田宮くん、君もとことん落ちぶれたものだな」

「ふん。小岩井というかわいい彼女を持つ貴様になど、俺の気持ちが分かってたまるものか。それに、悪いのは体操服を忘れていった霧島の方だ。盗まれたとしても、なんの文句も言えまい」

 田宮くんは、初めこそ狼狽していたものの、ぼくに核心をつかれ、いくらか開き直ってしまったようだ。

「その体操服を持ち帰って、一体なにをするつもりだ。ま、まさか」

「ヒヒヒ。そのまさかさ。臭いを嗅いだり、なすりつけたり、ぶっかけたりするのさ」

「生々しい表現はやめろ。それに、そんなことをしたら、霧島さんが可哀想だろう。さぁ、早くその体操服から手を離せ」

 ぼくが歩み寄ろうとすると、田宮くんがさえぎるように手を前に出した。

「おっと、それ以上近づくな。それ以上近寄れば、俺は即座にこの体操服に舌を這わせるぜ」

「外道め」

 ぼくの今の気分は、立てこもり犯を説得する刑事さながらに切迫していただろう。

「待て田宮くん、早まるんじゃない。このことがバレれば、きっと君は学校中から総スカンを食らうぞ。それでも君はいいと言うのか」

「あぁ、バラすならバラせばいい。霧島に仕返しが出来るのなら、いっそのこと、バレてしまえばいいんだ」

 田宮くんのそんな言葉に、ぼくははっとした。

「それなら、その体操服を持ち帰る前に、何故こんなことをするのか、ぼくに訳を聞かせてくれないか」

「はん、平井などには到底理解できないだろうが、冥土の土産に教えてやろう」


 田宮くんもそこそこに芝居がかった口調である。田宮くんは霧島さんの体操服を胸に、窓の外に広がるオレンジ色の校庭をあおぎ見る。

「俺は今日、霧島に告白した」

 ぼくは息をのみ、静かに田宮くんの声に耳をすませた。

「小岩井に振られてからというもの、俺はずっと考えていた。俺は、本当は小岩井のことなど好きではなかったのだな、と。小岩井と付き合った期間はたった一週間足らずだったが、その間にも、心のどこかで霧島のことを考えていた。いや、霧島のことが気になり始めたのはもっと前、たしかあれは、ここに入学してすぐ、霧島と同じクラスになったときだった」

「そんなに前から、霧島さんのことを」

「俺は控えめに見ても顔は悪くないと思う。だから面食いの霧島もよく話しかけてきたよ。俺は剣道部に入り、霧島も剣道部のマネージャーとして入部した。ささやかながらも幸せな中学生活が幕を開けた、そんなある日」

「ごくり」

「なにを思ったか、俺は剣道部の部室でおなってしまったのさ。それを霧島に見つかった」

「どうして部室で。せめてトイレの個室でやれよ」

「いや、霧島の使用済みタオルが部室に置きっぱなしだったから、衝動的に」

 なんと残念な男なのであろう、田宮くん。

「それから霧島は、一切俺に話しかけてこなくなった。マネージャーも辞めちまうし、かたくなに俺を無視し続け、そして、俺の陰口を校内に流しまくったらしい」

「田宮くんが変態として裏で有名なのは、霧島さんとの一件が原因だったのか」

「だが、それでも俺は、一年のあの頃からずっと、霧島のことが諦められなかったんだ……」

 ぼくは気付いた。田宮くんは窓の外を見つめたまま、頬に一筋、涙を伝わせていた。


「俺は別に、本気で付き合おうと思って、今日霧島に告白したわけではない。ただ、この思いを伝えたかっただけなんだ。だけどあの女、俺の熱い告白を聞いて、なんて言ったと思う?」

 田宮くんは床に膝をつき、下を向いてぽつぽつと涙を落とした。ぼくはゆっくり、田宮くんに歩み寄っていく。

「『ちょっ、喋んないで、息くさい』と、こう言ったんだ……」


 田宮くんの前でぼくは腰を降ろした。田宮くんの息は、本当にくさかった。でも、ぼくはこう言ってやるのだ。

「全然くさくないぞ田宮くん。君の口臭は、原始的な男の香りがする。君の口臭の魅力に気付けないなんて、霧島さんも女としてまだまだだと思うぜ」

 田宮くんは涙をぬぐい、体操服をぼくに差し出した。

「ありがとう、平井に話したらすっきりしたよ。お前に免じて、この体操服はもう諦める」

 ぼくは首を振った。そして、霧島さんの体操服を、田宮くんの胸に押し返す。

「嗅いでしまえ、田宮くん」


 田宮くんは唖然としてぼくを見つめ返し、また一つ涙を流した。

「いいのか、嗅いでも」

「あぁ、好きなだけ嗅いでしまえ。あいつは田宮くんの気持ちを無視して、それだけのことを言ってしまったんだ。あんな女の体操服なんか、嗅いでしまえばいいんだ」

「舐めても、いいのか」

「いや舐めちゃ駄目。嗅ぐだけでがまんしろ」

「ありがとう、平井。俺は嗅ぐ。俺は嗅ぐぞ。霧島の体操服を、嗅ぐのだ」

 そう言って田宮くんは霧島さんの体操服に顔をうずめた。ぼくは田宮くんの肩に手を置く。

「いい臭いか、田宮くん」

「くんくん。あぁ、とてもいい臭いだ。霧島の臭いしかしない。帰ってこの臭いを思い出しておかずにする」

「すごいぞ田宮くん。臭いのみをおかずにすること自体、上級者の技であるのに、その臭いを思い出しておかずにするとは。君はもはや超越者だ」

「すーはーすーはー。家に帰ってちゃんと思い出せるよう、今死ぬほど嗅いでやる。すーはー」

「その調子だ田宮くん。もっとやれ。死ぬほど嗅いでやれ。どうだ、いい臭いか」

「ぺろぺろ。あぁ死ぬほどいい臭いだ。ぺろぺろ」

「はっはっはっ、舐めちゃいかんと言っただろう、こいつめ」

「へへへっ」

「……なにをしているんだ、おまえら」


 ぼくらは顔を上げる。

 ぼくらの背後には、思いっ切り顔をしかめて立ち尽くす、霧島さんがいた。

「犯人はこいつです」

 ぼくは、体操服に顔を埋めたままの田宮くんを指さして、そう告げた。

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