繕い役を追放。「針は、誰でも持てる」と?冬に肩が裂けます
「十一年も、ですか」
背中で弾んだ声に、ハリエットの指先が縫い目へ沈んだ。爪の先に、表からは見えない一本が触れる。昨冬に足した糸はまだ働いていたが、その隣は次の寒さまで持ちそうになかった。
話を聞いているあいだにも、ハリエットは掛け布の上の衣装を裏返した。困った癖である。自分が暇を言い渡される相談まで、肩の傷みを確かめながら聞いてしまう。
「ええ。ハリエットには、わたくしが嫁いでくる前から世話になっているの。けれど、繕い役を一人置いておくほどの仕事かしらと思って」
モニカ・サージェントの声は、茶会の日取りを変えるときと同じ柔らかさだった。
「一着に何日もかけることがありますものね。わたしなら、一日に何針進んだか、きちんとお見せできます」
ペネロペ・ウィンドルが近づき、掛け布の向こうから衣装の肩を撫でた。表はなめらかで、細い皺が一本あるだけだった。
(針なんぞ、誰でも持てる——)
「こちらだって、どこも破れておりません。わざわざ先に糸を足す必要があるのでしょうか」
「ハリエットは用心深すぎるところがあるのよ。物持ちはよくなるけれど」
衣装は冬の夜会でモニカが着るものだった。踊れば右肩へ重みが寄る。袖付けの内側に残った古い針穴を、ペネロペの指は素通りした。
「針は、誰でも持てます」
ハリエットの指が止まった。細い針を一本つまんだまま、運針にちょうどよい長さだけ糸を引く。
「では、ペネロペに任せてみましょうか。若い人にも役目が要るものね」
「はい。数でお確かめいただけます」
ハリエットは針を通した。次の寒さには自分の手を離れている肩へ、もう一本を足すことはしなかった。
* * *
「この札は、いりませんね」
翌朝、ペネロペは衣装に下がっていた札を裏返した。〈三年前の冬、右袖付け内側〉〈昨春、腰の切り替え左〉と、糸を足した月と場所がハリエットの字で並んでいる。
「針数が書いてありません。何刻かかったかも。これでは働いた量が分からないでしょう」
ペネロペは紐を外し、札を屑籠へ落とした。ハリエットは拾わなかった。拾えば、まだそれを読む役目が自分にあるように見える。
昼には作業場の壁へ大きな紙が貼られた。衣装の名、その日の運針、始めた刻限と終えた刻限。ベッツィ・ノックスは紙の端を指で叩いた。
「一日三百二十針ですって。三百二十針! こうやって書けば、誰が働いているかひと目で分かりますよ」
「縫う場所によって一針の長さは変わります」
ハリエットが答えると、ベッツィは紙をもう一度叩いた。
「それでも三百二十針ですよ。数字はごまかしませんからねえ、三百二十針!」
午後、ハリエットはモニカの居間へ呼ばれた。奥方の膝には新しい控えがあり、最初の頁にペネロペの名が記されていた。
「長いあいだ、本当にありがとう。明日から繕い役はペネロペに任せます。あなたも少し楽にしてちょうだい」
「承りました、奥方様」
「それでね、役目が変わっても、お茶の相手もしてほしいし、わたくしの話も聞いてほしいわ」
モニカの手が伸び、ハリエットの袖を親しげにつまんだ。その指は、朝から針を持っていない者の丸い爪をしていた。
「でも、あなたとは今までどおりでいたいの」
「はい。お目にかかった折には、これまでどおりご挨拶申し上げます」
「あら、挨拶だけということではなくて」
ハリエットは袖を引かなかった。モニカの指が自分から離れるまで待ち、一礼した。
その日のうちに、彼女は糸を納める仕立て屋を三軒回った。冬絹の右肩には細い強撚、舞踏服の腰には柔らかな双糸、喪服の古布には染めの浅い糸。次にサージェント家から注文があれば、ペネロペへ番手を伝えてほしいと頼んだ。
三軒目で日が落ちた。冷えたパンを持って出るのを忘れたことには、そのとき気づいた。役目をなくした日の夕食まで冷えている必要はないので、ハリエットは通りの端で焼いた豆を一包み買った。
* * *
翌朝、ハリエットは一番の外出着で作業場へ入った。晴れの日に着るには地味で、暇を言い渡された者には少し上等だった。どちらの日かは決めかねたので、襟だけは前夜に整えてある。
まず小鋏の油を拭い、刃を薄紙で包んだ。糸巻きを色ごとに並べ、目打ちの先を布へ埋める。指ぬきは内側の汗染みまで拭き、最後に針箱の蓋を磨いた。
「まあ、そこまでしてくださらなくても」
受け取りに来たペネロペは、机の端に腰を預けた。ハリエットは返事をせず、太い針を左、細い針を右へ揃える。折れた一本は抜き、蓋を閉めた。
「こちらが針箱です。指ぬきは革用と薄物用。糸は手前から、絹、麻、綿でございます」
「分かっています。わたしも針子ですもの」
「ええ」
ハリエットはペネロペの膝へ針箱を置いた。受け取った両手に重みが移るのを見届けてから、指ぬきをその上へ載せた。
空になった繕い籠には、白い糸屑が一本残っていた。それもつまみ上げる。籠の縁から手を離すと、モニカの視線がハリエットではなく、空いた底へ落ちた。
「これで全部?」
「はい、奥方様」
「けれど、難しいものだけは見てもらえるでしょう? ペネロペが慣れるまででいいの。役目を戻すということではないのよ」
「新しいお役目にわたくしが手を出せば、ペネロペさんがお困りになります。すべてお任せいたします」
「手を出すだなんて。少し助けるだけではないの」
ハリエットは戸口へ向かい、掛け布の前で足を止めた。昨日まで見ていた冬の衣装が、同じ向きで置かれている。右肩へ指を伸ばしかけ、その手を膝の前へ戻した。
「わたくしはこの一着を、十一年、わたくしの布だと思うて繕っておりました」
モニカが控えの角を押さえた。ペネロペの膝で、針箱の中身が小さく鳴った。
「ハリエット、それなら——」
「お返しいたします」
ハリエットは衣装に触れず、一礼した。役目も道具も、難しいときだけ差し出す指も、残ってはいなかった。
「お茶には来てくれるのよね?」
「お招きいただき、都合が合いましたら」
モニカの唇が次の依頼の形を作りかけ、閉じた。
廊下を抜け、玄関を出る。外出着の袖口にほつれが一本あったが、ハリエットは門を離れるまで直さなかった。
* * *
翌日、サージェント家の衣装は破れなかった。半月後にも、ひと月後にも、目立った裂け目は出なかった。ハリエットが十一年かけて弱る前に足した糸は、持ち主が変わっても黙って布を支えた。
春の終わり、ペネロペは壁の紙へ運針を書き込み、ベッツィを呼んだ。
「先月より四百針も多いでしょう」
「四百針も! ほら、前より早く片づいているじゃありませんか」
「ほら、何も変わらないでしょう」
ペネロペは新しい札のない衣装を棚へ戻した。補強が尽きたものから、襟の形がわずかに崩れ、胴が片側へ寄った。それでも裂けてはいない。壁の数字には、どちらも現れなかった。
そのころハリエットは、ガートルード・モスの店で糸箱を開けていた。三軒の仕立て屋へ伝えた番手のうち、二軒からは小さな直しが回され、残る一軒からは古布の見立てを頼まれた。
「サージェント家の注文をよそへ回していただくつもりはありません」
ハリエットが言うと、ガートルードは糸巻きを棚へ押し戻した。四十年使った棚は傾いていたが、糸の並びだけは真っすぐだった。
「注文を回すんじゃない。目の利くところへ布を出すだけさ」
「ですが、わたくしはもう、あの家の繕い方ではございません」
「知ってるよ。だから名前を聞いた」
ガートルードは依頼票の上へ、太い字で〈ハリエット・クォーツ〉と書いた。家名の下でも、誰かの控えの余白でもない。文字はそれだけで一行を使った。
最初の依頼は、講に通う女の外套だった。ガートルードに連れられて集まりへ顔を出すと、女たちは布を広げるより先に長机の席を詰めた。
「そこ、空いてるよ。まず座って」
「袖口を見てもらいたいんだけど、その前に食べな。冷めるから」
「背中も引きつるの。あ、椀は大きいほうでいい?」
ハリエットの前へ豆のスープが置かれた。湯気で依頼票の字が曇り、彼女は椀を両手で包んだまま、すぐには外套へ手を伸ばさなかった。
「お代は、いくら?」
問われて、椀の縁に添えた指が止まった。屋敷では、何着見ても月の給金は同じだった。
「袖口と背中で、銀貨二枚をいただきます」
「じゃあ、襟も見て。三枚にしていいから」
「襟はまだ触らずとも持ちます。二枚で結構です」
女はスープをひと匙すくい、隣の者へ顎を向けた。
「この人、値段までちゃんと布を見て決めるよ」
「だったら私の上着もあとで。鍋にはまだあるからね」
仕事の相談と食事の勧めが、同じ勢いで重なった。ハリエットは豆を一粒も残さず食べ、それから初めて、自分の名が書かれた依頼票を裏返した。
夏には薄物が三着、秋には外套が七着届いた。サージェント家の衣装もまだ裂けなかった。春に少し傾いた襟も、夏に寄った胴も、十一年分の糸が最後のところでつないでいた。
半年目に、冬が来た。
* * *
モニカは、あの衣装で夜会へ出た。右肩から胸へ流れる布は灯りを受け、表には傷ひとつ見えない。
最初の曲が始まった。相手へ手を預ける。踏み出す。腕を上げる。
その一拍で、肩が開いた。
音はなかった。右袖が下がり、白い裏地が灯りの下へ現れた。
モニカの顔から色が引いた。片手で肩を押さえる。隣の婦人は目を逸らし、扇を閉じた。
「失礼を。すぐに下がります。どうか、そのままお続けください」
モニカは相手へ詫び、楽団へ詫び、衣装係へ詫びた。裂けた肩を押さえたまま、列の外を捜した。視線はペネロペを通り越し、扉、壁際、控えの間へ走った。
ハリエットはいなかった。
屋敷へ戻ると、モニカは裂けた衣装を作業台へ置いた。空の繕い籠も、半年前の場所にあった。
「直せるわね、ペネロペ」
「はい。裂けたところを閉じれば」
「次はどこが裂けるの」
ペネロペは衣装を裏返した。肩を見て、袖口を見て、腰へ指を滑らせる。針穴は古いものも新しいものも布の内側に沈み、どれがいつ足された糸か分からなかった。
「まず、この肩を直しませんと」
「次はどこ」
ペネロペの指が止まった。
「札に書いてあるはずです。ハリエットさんが残していた札に」
「札は、その、作業の量が分かりませんでしたから」
「どこにあるの」
壁には運針の数と刻限が並んでいた。モニカはその紙を一枚ずつ見た。どの紙にも、次に傷む場所はなかった。
「ベッツィ。捨てた札を戻して」
戸口にいたベッツィは、いつもなら半歩遅れて大きく繰り返すはずの口を閉じた。ペネロペの隣から離れ、鍵束を胸の前へ引き寄せる。
「屑は毎週、処分しておりますので」
「あなたも必要ないと言ったでしょう」
「わたくしは、貼り紙が見やすいと申しただけでございます」
モニカはペネロペの膝から針箱を取り上げた。磨かれていた蓋には、半年分の細かな擦り傷が走っていた。
「この役目は、今夜限りにします」
「ですが、奥方様、今月はもう千八百——」
「鍵を」
ペネロペは腰の鍵を外した。作業場の戸棚を開ける真鍮の鍵が、モニカの掌へ落ちた。
モニカは針箱と鍵を空の繕い籠へ入れた。籠を持ち上げようとして、片手では上がらず、裂けた肩から手を離した。
* * *
次の季節、サージェント家へ届く招きは減った。仕立て屋へ持ち込まれる夜会服の予定表から、モニカと同席する日が一つ消え、次の月には二つ消えた。客がガートルードの店へ置いていった席次には、壁際の椅子が一つ空いたまま描かれていた。
ハリエットはその紙を糸巻きの下から抜き、裏返した。裏は依頼票に使える。空席より、袖丈の数字を書く場所のほうが要った。
ある朝、モニカがガートルードの店へ来た。ハリエットは奥の台で外套を広げていたが、仕切り布が半分開いていたため、互いの姿は見えていた。
「長いお付き合いでしょう、ガートルードさん。母の代から、こちらの糸をいただいてきたのよ」
「四十年です」
「でしたら、前と同じ番手を届けてちょうだい。ペネロペが辞めてから、間に合わせの糸しか手に入らないの」
ガートルードは注文書を一度見て、棚へ戻した。
「番手をお決めになるのは、どなたで?」
「以前と同じものでいいのよ」
「どの布の、どの場所に使うんです」
モニカの手が、外套を広げたハリエットのほうへわずかに動いた。呼びかける前に、ハリエットは糸を一本抜き、布へ置いた。仕事の途中だった。
「長く納めてきた家なのよ」
「奥さん。うちはあの家に売ってたんじゃない。この人の目に売ってたんだ」
ガートルードは顎でハリエットを示した。モニカは注文書を持ったまま立っていたが、ハリエットは外套から顔を上げなかった。
その日の午後、講の女たちが店へ押しかけた。先頭の女は巻いた布を抱え、次の女は古い机の脚を一本持ち、最後の女は戸板ほどの看板を背負っていた。
「店の奥じゃ狭いだろう。空いてる部屋があるんだよ」
「窓は南向き。冬でも指がかじかまない」
「机は一本ぐらつくけど、ガートルードさんなら直せるって」
「わたしは糸屋で、大工じゃないよ」
「似たようなものだろ。細いものを真っすぐにするんだから」
ガートルードは机の脚を奪い、接ぎ目を調べ始めた。女たちはハリエットの返事を待たず、布の包みを台へ積む。
「仕事場を持っておくれよ。店を通さず頼みたいものも増えたんだ」
「家賃は皆の直し二着分。それ以上は取らない」
「朝のスープは向かいから運ぶ。椀は自分で洗うこと」
ハリエットは看板を受け取った。まだ何も書かれていない板を指で撫でると、木目の端にささくれがあった。
「お受けします。ただし、仕事のお代は一着ずつ、わたくしが決めます」
「それでなくちゃ困る。安すぎたらこっちが叱るよ」
数日後、南向きの部屋へ直した机が入った。壁には糸棚、窓辺には新しい空の繕い籠。戸口の看板には、〈ハリエット・クォーツ 繕い〉とだけ書かれた。
仕立て屋三軒から仕事が届き、講の女たちは用件のある者もない者も椀を持ってきた。ハリエットは預かった布ごとに札を下げ、傷む場所と月を記し、その下へ自分で決めた値を書いた。
* * *
冬の朝、仕事場の戸が鳴った。ハリエットは豆のスープへ蓋をし、針を布から抜いて立ち上がった。
戸口にモニカがいた。供もつけず、両手で古い繕い籠を抱えている。中には針箱と指ぬきが入っていた。
「少し、お話しできる?」
「どうぞ、奥方様」
モニカは椅子へ座らず、部屋を見回した。名前のある看板、札の下がった衣装、今日の仕事を記した控え。最後に、窓辺の籠へ目を落とした。
「屋敷へ戻ってほしいの。前よりよい部屋を用意するわ。お給金も、あなたが望む額を聞きます」
ハリエットはモニカの顔を見た。針箱を抱えた指は、籠の持ち手へ食い込んでいた。
「この半年、何を着ても落ち着かないの。どこが傷んでいるのか、誰に聞いても分からなくて。あなたなら、見るだけで分かったでしょう」
蓋をした鍋の内側で、スープの雫が一つ落ちた。
「それに、わたくしたち、ずっと近しくしてきたではないの。仕事の話だけではないわ。前のようにお茶を飲んで、話を聞いてちょうだい。今までどおりに戻りたいの」
ハリエットは椅子へ戻り、預かりものの布を膝へ載せた。針穴の先を確かめ、糸を指の腹でならす。
「針は、誰でも持てます」
モニカの唇が開いた。籠の中で、指ぬきが針箱へ当たった。
ハリエットは針へ糸を通した。モニカの顔から視線を戻し、控えに記した今日の一着を広げる。
戸が閉じたあと、鍋の蓋を取った。スープはまだ温かく、豆も底へ沈みきっていなかった。ハリエットは朝食を終え、椀を洗ってから机へ戻った。
南の窓から冬の光が差していた。彼女は自分の名で預かった一着の肩を裏返し、まだ裂けていない場所へ針を入れた。
表から見えない一本が、まっすぐに通った。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




