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イナクの初恋~少女の箱~【ラピスクロニクル】

作者: うめやす.
掲載日:2026/04/13

汚い箱と宝箱

少年イナクは、気がつけば教会の孤児院にいた


親の顔は知らない

自分を捨てたのが誰なのかも分からない


知っているのは、教会の前に捨てられていたということだけだった


八才を過ぎた頃には、イナクの素行はかなり悪くなっていた


毎日のように誰かと喧嘩をして、子分を作って、盗みもやった


あいつらはたくさん持っている

俺たちは何も持っていない


余ってる奴らから盗って、何が悪いんだ


本気でそう思っていた


孤児院は教会の一部で、シスターが管理していた


そいつはいつも言っていた


「神様はあなたたちを愛しています」


そして、ここにいる子供たちはいつも言うのだ


「やさしい神様、ありがとう」と


まるで呪文みたいに

これ以上ひどい目に遭わせないでくれと

媚びているみたいに


イナクは、そのやり取りが嫌いだった


そんな言葉、口にしたくもない


愛されているなら、どうして俺たちはここにいる

愛されていないから、俺もあいつらもここにいるんだろ


そう思っていた


そんな中で、もう一人だけ、その呪文を言わない奴がいた


イナクより少し年下の、ナルという女の子だった


ナルは、いつも汚い箱を大事そうに抱えていた

中には、親が昔に交わした文通の手紙が入っているらしかった


そいつはよく一人で箱を開けて、手紙を取り出して読んでいた

口を開けば、その手紙に書いてある話をする


イナクは、そんなナルが嫌いだった


華奢で、小さくて、そのくせ口だけは達者で

いけすかない話ばかりする奴


自分は愛されていると

古びた手紙を握りしめて

まだ信じている惨めな奴


彼女のそういうところ全部が、イナクの癇に障った


ナルには妙なところがあった


気づけば延々と一人で泣いている


目障りに感じて、ある時イナクは聞いた


「どうしたんだよ」


するとナルは、いつも同じことを言った


「お腹がすいた、苦しいの」


孤児院の食事は、たしかに十分ではなかった

だが、まったく食べられないわけじゃない


ナルだって食事はしていた

ひもじいのは、ここにいる子供なら誰でも同じだ


それなのに、ナルだけは何度も泣いた


あまりに泣き続けるので、イナクは盗んできた食べ物をナルに与えるようになった


何を渡しても、ナルは嬉しそうに食べた


イナクは泣くことしかできないナルを見下していた

犬に餌をやるみたいなものだと思っていた


そのうちに気づいた


ナルの空腹は、普通じゃない


どうせ何かの病気なんだろう

運の悪い奴だ


そう思った


イナクにとってナルは、ただ煩わしいだけの存在だった


だが、ある日


サラという女が、イナクを引き取ると言い出した

しかも、ナルも一緒に


イナクはうんざりした

ナルの世話を、これからもさせられるのかと思ったからだ


けれど、ギルドに引き取られてから、ナルは空腹で苦しまなくなった


サラの料理を食べると平気になるのだと、ナルは言う


最初、サラの料理を食べたナルは、なぜかぽろぽろと涙をこぼした

しばらくのあいだは、いつも涙を落としながら食べていた


ただ、ある日を境に、まったく涙を見せなくなった


イナクには意味が分からなかった

でも、とにかくナルは前みたいに泣かなくなったのだ


それだけは、面倒が減ってよかったとイナクは思った


イナクとナルは同じベッドで寝ている


夜になると、ナルはよく震えながら泣き出す


イナクが手を握って、頭を撫でてやると

少し落ち着いて、そのうち眠る


なんで俺がこんなことを


いつもそう思っていた


ナルは毎日のように、あの汚い箱から手紙を取り出して読んだ


父親と母親が、若い頃に文通していた手紙らしい


イナクは、それが嫌いだった


自分には親が残したものなんて、何一つない


それに、どれだけ立派なことが書いてあったところで

結局、ナルは孤児になっているじゃないか


ある日、どうしても苛立ちを抑えきれずに、イナクは言った


「そんなもの読むなよ」


ナルは手紙から目を離さなかった


「ナルを捨てた奴らなんだろ」


それでも、ナルは目を離さないまま言った


「手紙に、そんなこと書いてないもん」


「じゃあ、なんでナルはここにいるんだよ」

「捨てられたからだろ。俺と同じじゃないのかよ」


「わからない」


ナルは手紙を見つめたまま、泣きそうな声で言った


「でも、書いてあるもん」


「何がだよ」


「書いてあるもん」


しばらくしてから、ナルはぽつりと言った


「だったら、イナクにも読んであげようか」


「え」


予想もしなかった言葉に、イナクは返事ができなかった


イナクは字が読めなかった


覚える必要なんてないと思っていた

孤児院ではシスターが読み書きを教えてくれていたが、イナクは最初から覚える気がなかった


次の日から、ナルは手紙を読み上げてイナクに聞かせるようになった


たくさんある手紙を、一番最初から、丁寧に


ナルの両親は、そこそこ裕福な家の出らしかった


同じ学校に通う幼馴染で

父親は剣の名手で、学生の大会で何度も表彰されていた


母親は少しだけ魔法が使えて、薬剤を扱う勉強をしていた


二人はずっと仲が良くて

別々の学校に通うようになってからも、文通を続けていた


やがて学校を卒業して、父親は軍に入った


その時に、父親は長年胸に秘めていた想いを打ち明けて

母親はそれを受け入れた


両家の親は猛反対したらしい

それでも二人は、半ば強引に婚約まで進んだ


父親が軍に入って寮生活になると、二人は簡単には会えなくなった

そのぶん、文通は増えた


最初はたどたどしかった父親の文章も、手紙を重ねるごとに上手くなっていった


そのことをイナクが言うと、ナルは少し嬉しそうにした

それからナルは、イナクに文字を教えてくれるようになった


この頃から、イナクはサラに料理を習うようになった


ナルは、サラの料理を食べると苦しまない

だったら、自分にもできるかもしれない


そんなふうに思ったのだ


いつの間にか、イナクはナルのために何かしたいと思うようになっていた


イナクはナルが読み聞かせてくれる手紙が好きだった


誰かを思いやること

心配すること

褒めること

喜びを分け合うこと

悲しみを一緒に抱えること


そういうものを、イナクは知らなかった


でも、ナルはそれを持っていた

自分が汚い箱としか思わなかった宝箱の中に


そして、惜しげもなくイナクにも分けてくれた


嬉しかった


そして、憧れた


手紙は、父親が訓練期間を終えて正式に軍へ配属されたところで終わっていた


その頃には二人は結婚して、一緒に暮らし始めていたらしい

もう文通をする必要がなくなったのだろう


ある日、サラは娘のミナを連れてきた

ナルと同じくらいの歳だ

ここで一緒に暮らすらしい


突然のことで驚きはしたが、イナクはそこまで気にしなかった

孤児院では、もともと大勢の子供たちと暮らしていたからだ


ただ、ミナは少し変わっていた


本当に、何も知らなかった


言葉も

服の着方も

食べ方も

トイレの使い方さえも


イナクはナルと一緒に、ミナの世話をした


手取り足取り教えなければ、何もできなかったからだ


少し前のイナクなら、きっとそれを煩わしいと思っていただろう


でも、今は違った


ミナに些細なことを教えるたびに

自分も誰かに与えられてきたことに気づいた

だからミナに与えてあげられるのだと


そのことが…嬉しかった


そして、この頃にはもう

イナクはナルに特別な気持ちを抱いていた


丁寧に手紙を読んでくれた

文字を教えてくれた

自分にはなかったものを、惜しみなく分けてくれた


ナルだって恵まれていたわけじゃない

それでも、自分が持っているものを全部、イナクにも渡してくれた


少し前までイナクは

ナルのことを、親に捨てられ

自分宛でもない手紙にしがみつくしかない可哀想な奴だと思っていた


でも、違った


本当に可哀想だったのは

何も知らないくせに、自分こそ正しいと思い込んでいた俺の方だった


ミナが家に来てから、ほどなくしてサラは亡くなった


知らない大人が突然ギルドに来て

死んだと告げて

それで終わり


遺産として残された金は、かなりの額だった


けれど、ギルドには子供が三人だけ残された

そして、最年長はイナクだった


自分が何とかしなければならない

そう思った


イナクは、かつて嫌っていた教会のシスターのところへ頭を下げに行った


九才の自分一人で、ナルとミナの面倒を見られるとは思えなかったからだ


シスターは、快く助けてくれた

どんなことでも、惜しまず教えてくれた


そのたびに、イナクは思い知った


自分が、どれほど愚かだったのか


昔の自分の口から出るものは

不満と

批判と

無知な見下しばかりだった


今では、それが恥ずかしい


ナルみたいに

誰かに与えるために、この口を使いたい


人のために生きて

家族を作って

守りたいものを守れる男になりたい


そうなれたら、どれだけいいだろう


ナルは、俺にたくさんのものをくれた


何も持っていないと思っていた俺に

温かさを

憧れを

生き方をくれた


彼女と、ずっと一緒にいられたら

ナルと家族になれたなら

ただそれだけで、俺は世界一の幸せ者だ


いつの間にか、俺の口はあの呪文を言えるようになっていた


「やさしい神様、ありがとう」


カウントダウン ~転生したら配管工になった~【ミナ・ラピスクロニクル】 完結済

赤さびの魔女【ナル・ラピスクロニクル】 連載中

に登場するイナクとナルの昔話です

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