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霧の町  作者: 相田 依人


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第七章

 霧は、夜になると少しだけ冷える。


 昼間は白く柔らかいのに、夜は粒が細かくなって、空気に溶け込むみたいに漂う。


 二人は、川沿いの道を歩いていた。


 川と言っても、水はゆっくり流れているだけで、音はほとんどない。


 橋の欄干らんかんにはさびが浮き、街灯の光が淡く滲んでいる。


 しおりは立ち止まり、川を覗き込んだ。


 水面は黒く、空の色だけを映している。


「……ここ、好きなんだ」


 小さく言う。


 さくは隣に立った。


「静かだから?」


「うん。それもあるけど」


 しおりは視線を水面から離さない。


「考え事しやすいから」


 さくは頷きながら、欄干らんかんに手を置く。


 冷たい金属の感触が、少しだけ現実に近かった。


 しばらく、何も話さない時間が流れる。


 やがてしおりが口を開く。


「私ね」


 声は、風に紛れそうなくらい小さい。


「喧嘩したんだ」


 さくは横を見る。


 しおりはまだ水面を見ている。


「その人と……」


 少しだけ間が空く。


「彼氏?」


 しおりは、わずかに頷いた。


「どんな……人だったの?」


 問いかけながら、さくは胸の奥がざわつくのを感じていた。


 聞きたくないのに、聞いてしまう。


 しおりは考えるように目を細める。


「真面目な人」


「へえ」


「ちゃんと計画立てて生きてる人。将来のことも、仕事のことも、全部」


 しおりは苦笑した。


「私は、そこが好きだった」


「だった?」


 さくが思わず聞き返す。


 しおりは少しだけ肩をすくめた。


「今も……好きかもしれない」


 正直すぎる言葉だった。


 さくは、欄干らんかんを握る指に力が入るのを自覚する。


 しおりは気付かないまま続ける。


「でもね」


 夜風が、髪を揺らす。


「一緒にいると、時々息が詰まりそうだった」


 さくは視線を向ける。


「どうして?」


 しおりは少し笑った。


「ちゃんとしてる人って、正しいの」


「……正しい?」


「うん」


 しおりはゆっくりと言葉を選ぶ。


「怒る理由も、注意する理由も、全部ちゃんと筋が通ってる」


 さくは黙って聞いている。


「遅刻すると怒るし、約束守らないと怒るし」


 しおりは水面に指先をかざす。


「私が将来の話を避けると、不安になるって言われた」


「それって……普通じゃない?」


 さくが言うと、栞は小さく頷く。


「普通だと思う」


 少しだけ笑う。


「だから困ったんだよ」


 沈黙が落ちる。


「嫌いになれなかったから」


 その言葉が、静かに夜に溶ける。


 さくは何も言えない。


 しおりは続ける。


「でも、私が欲しかったのは……」


 そこで言葉が止まる。


 少し考えてから、また口を開いた。


「正しさじゃなくて……」


 街灯の光が、川に揺れる。


「一緒に迷ってくれる人だったのかもしれない」


 さくの胸が、わずかに跳ねる。


 しおりは自嘲気味に笑う。


「わがままだよね」


「……そんなことないと思う」


 さくは思わず言っていた。


 しおりは驚いたようにさくを見る。


 さくは視線を逸らしたまま続ける。


「俺も……多分、同じこと思ってた」


 しおりは黙る。


「ちゃんとしてるのが正しいって分かってるのに」


 さくはゆっくり言葉を紡ぐ。


「それだけじゃ、足りない気がするって言われて…」


 しおりは、じっとさくを見つめていた。


 やがて、小さく笑う。


「似てるね」


 その言葉に、さくは苦笑した。


「俺はちゃんとしてないけど」


 しおりは首を振る。


さくはね…」


 少しだけ間が空く。


「優しすぎるんだと思う」


 さくは肩をすくめる。


「それ…、前にも言われた…」


 しおりは視線を落とす。


「……知ってる」


 さくが驚いて見ると、しおりはすぐに話を続けた。


「喧嘩した日ね」


 夜風が強くなる。


「私、その人に言われたの」


 しおりの声が、少しだけ震える。


「“お前は、誰かに流されるだけで、自分で選ばない”って」


 さくは言葉を失う。


「図星だった」


 しおりは笑う。


 でも、その笑みはすぐに消える。


「だから、言い返せなかった」


 沈黙。


 川の水が、かすかに揺れる。


「それで、外に出て……」


 しおりは空を見上げる。


「霧が出てたの…」


 その言葉に、さくの背筋がわずかに粟立つ。


「気付いたら、この町にいた」


 さくは、しばらく何も言えなかった。


 やがて、ゆっくり聞く。


「……後悔してる?」


 しおりはすぐに答えない。


 長い沈黙のあと、静かに言った。


「分からない」


 そして続ける。


「帰れたら、分かる気がする」


 さくは頷く。


 その横顔を見ながら、しおりはふと呟いた。


さくは、帰れると思う」


 さくが振り向く。


「どうして?」


 しおりは少しだけ考えてから言う。


「帰ろうとしてるから」


 さくは苦笑する。


しおりさんは?」


 その問いに、しおりは一瞬だけ言葉を失う。


 やがて、柔らかく笑った。


「……まだ、途中かな」


 夜の霧が、ゆっくり二人の足元を覆い始めていた。

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