第六章
彼女にフラれ、アパートに帰る途中で霧に包まれた大学生の水瀬 朔。
灯りに導かれ、見知らぬ町に辿り着いた朔は栞という女性に会う。
「帰りたい」と思いながらも、見知らぬ霧の町での生活が始まる。
夕暮れが近づくと、この町はわずかに色を失う。
完全に暗くなるわけでもない。
ただ、どこかだけ現実より薄くなる。
まるで、記憶の中の風景みたいに。
古本屋を出たあと、朔と栞は並んで歩いていた。
石畳は乾いているのに、足音はやけに柔らかい。
「……この町、夜になると静かすぎない?」
朔が言うと、栞は小さく笑った。
「夜だけじゃないよ。ここ、ずっと静か」
「そういう意味じゃなくて……なんていうか……」
言葉を探して、朔は空を見上げる。
薄い雲が、動いているのか止まっているのか分からない。
「……時間が、息を潜めてる感じ」
栞は少し驚いたように朔を見る。
「うん」
それだけ言って、視線を前に戻した。
「最初に来たとき、私も同じこと思った」
風が吹く。
けれど、洗濯物は揺れない。
しばらく沈黙が続いた。
やがて栞が、ぽつりと言う。
「ねえ、朔…」
名前を呼ばれて、朔は少しだけ肩を強ばらせる。
まだ、その呼ばれ方に慣れていない。
「うん?」
「もしさ」
栞は歩く速度をほんの少し落とした。
「帰れたら……どうする?」
朔はすぐには答えなかった。
足元の石を見つめる。
霧の粒が、靴の先に淡く光っている。
「……普通に生活すると思う」
「普通って?」
「学校行って……バイトして……」
そこまで言って、言葉が止まる。
「……多分」
栞は横目で朔を見た。
「“多分”なんだ」
朔は苦笑した。
「正直、分からなくなってるんだ…」
少しだけ間が空く。
「前はさ…、ちゃんと決まってた気がするんだよ」
「……前?」
「うん」
朔は視線を遠くに投げた。
「ここに迷い込むまでは…」
栞は何も言わない。
ただ、歩調を合わせている。
「ここに来て、わからなくなってさ…」
「……うん」
「大学を卒業して、会社に入って…。けど…そういうことの前に変わらなきゃいけない自分があるんじゃないかって…」
朔は小さく息を吐いた。
「ちゃんと分かってるのかって言われると、はっきりとは分からないんだけど…」
栞の指先が、わずかに動く。
「どんなふうに変わりたいの?」
少しだけ沈黙が落ちる。
朔は空を見上げたまま答えた。
「元カノに、優しすぎて物足りない……って言われたから……、もう少し…自分の意見を言えるように…」
言ったあと、自分で苦笑する。
「簡単そうなんだけど…難しいんだ…」
朔は首を振った。
「それが正しいかどうかも…、まだ分かんないんだけどね…」
風が止む。
遠くの商店の軒先で、風鈴が揺れずに鳴った。
栞はしばらく黙っていた。
そして、
「ねえ、朔」
「うん」
「優しいってさ…」
少し言葉を探す。
「……逃げ道にもなるんだよ」
朔は「ハッ」とした表情をし、その後、小さく頷いた。
栞は続けない。
それ以上は言わない。
沈黙が、二人の間に落ちる。
朔はその言葉を、胸の奥で転がす。
意味はまだ、形にならない。
けれど。
どこか、痛かった。
「……栞さんは?」
朔が訊く。
「帰れたら…」
栞の足が、ほんの一瞬だけ止まりかける。
「会いたい人、いるんでしょ…?」
栞は少しだけ笑った。
「うん…」
その笑顔は、柔らかいのに遠かった。
「いるよ…」
「大事な人?」
朔は何気なく聞いたつもりだった。
けれど、声が少しだけ硬かった。
栞は気付いているのかいないのか、前を向いたまま答える。
「……大事だった人、かな」
朔は言葉を失う。
胸の奥が、わずかに締めつけられる。
理由は分からない。
ただ、嫌だった。
その感覚に戸惑いながら、朔は足を止めない。
「まだ……好きなの?」
問いは、思ったより低い声で出た。
栞はすぐに答えない。
空を見上げる。
夕暮れの色が、少しずつ薄れていく。
「分からない」
そう言った。
「会ったら、どう思うのか」
少しだけ間が空く。
「……確かめたい」
朔の胸が、静かに軋む。
「そっか……」
それだけ言う。
それ以上、何も言えない。
栞は横目で朔を見る。
何かを言おうとして、やめる。
二人はそのまま歩き続ける。
やがて、霧が少しだけ濃くなる。
町の灯りが、柔らかく滲む。
「ねえ、朔…」
栞が小さく言う。
「ここに来た人ってね……」
「うん?」
「帰りたいって思いながら、帰れなくなる人もいるんだ」
朔は黙って聞いている。
「怖くなるの」
栞は続ける。
「帰ったあと、自分がどうなるのか……」
朔はゆっくり頷いた。
「けど…俺は帰りたいよ……」
栞は少しだけ驚いたように朔を見る。
朔は視線を前に向けたまま言う。
「まだ分からないことばっかだけど……」
拳を軽く握る。
「分からないまま終わるのは、嫌だから」
栞の足が止まる。
朔は数歩進んでから気付き、振り返る。
栞は、じっと朔を見ていた。
その視線は、どこか揺れている。
「……変わったね」
小さく、そう言った。
朔は困ったように笑う。
「全然だよ」
「ううん」
栞は首を振る。
「変わり始めてる」
その言葉に、朔は何も返せない。
栞はまた歩き出す。
けれど。
ほんの一瞬だけ。
朔の袖に触れそうになった手を、そっと引っ込めた。
霧が、ゆっくりと二人の足元に集まり始めていた。




