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霧の町  作者: 相田 依人


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第五章

 霧に包まれ、辿り着いた町で、水瀬みなせ さくは、しおりという女性に出会う。

 そこは、霧の中に存在する町だった。

「帰りたい…」

 だが、帰り方がわからない。

 しおりの案内に導かれ、さくの新しい生活が始まる。


 乾物屋の仕事は、思っていたより単調だった。


 朝――らしい時間に店を開け、棚を整え、袋を詰める。


 客は多くない。


 だが、途切れることもない。


 町の人たちは、静かに品を選び、静かに去っていく。


 この町では、急ぐという概念が存在しないようだった。


 さくは、はかりに薬草を乗せながら、ふと考える。


 自分は、こんなふうに人と向き合ったことがあっただろうか。


「それ、多すぎるよ」


 背後から声がした。


 振り向くと、店主が笑っている。


「計るときは、ちょっと少なめにするんだ。最後に足せばいい」


「……どうしてですか」


「余裕ができるだろ?」


 店主は、当然のように言った。


「最初からぴったりにしようとすると、失敗するからな」


 さくは、はかりの上の薬草を見つめた。


 その言葉が、胸の奥に引っかかる。


 昼過ぎ、店を抜けると、しおりが軒先に座っていた。


「お疲れ」


しおりさん、サボってるの?」


「休憩よ」


 そう言って、しおりは干した果物を一つ差し出す。


 さくは受け取り、口に入れる。


 甘さは控えめで、どこか懐かしい味だった。


 しばらく沈黙が続く。


 この沈黙は、不思議と居心地が悪くない。


さくくんってさ」


 しおりがぽつりと呟く。


「昔から、ちゃんと相手の話を聞く人?」


 さくは少し考える。


「……どうだろう」


 即答できない自分に、苦笑する。


「聞いてるつもりだった…」


「つもり?」


「相手の言葉に…応えてなかった気がする」


 言葉にして初めて、自覚する。


 しおりは何も言わず、さくの横顔を見ていた。


「前に付き合ってた人がいてさ」


 さくは、視線を石畳に落とした。


「別れた理由は……聞いたんだけど…」


少しだけ間が空く。


「ちゃんと分かったかって言われると、分からないまま終わった気がする」


 霧の町の空気は、過去を語ることを責めない。


 だからこそ、言葉が自然にこぼれる。


「最初は…仕事が忙しくて、会えないって言われて…」


 さくは乾いた笑いを漏らす。


「僕は『仕事なら、仕方ない』って言ったんだ」


 しおりは静かに聞いている。


「でも、本当は違ったんだ…優しすぎて、物足りなくなったんだって…」


 喉が少し詰まる。


「僕は…どうして欲しいのか、聞かなかった…」


 風が吹き、軒先の風鈴が小さく鳴る。


 しおりが、ゆっくり口を開く。


「怖かったの?」


 その問いは柔らかかった。


 さくは小さく頷く。


「……うん……」


 言葉が重く落ちる。


「答えを聞くのが怖かった。自分が変わらなきゃいけないって言われるのが」


 しおりは頷きもしない。


 否定もしない。


 ただ、そこにいる。


 その距離が、さくには救いだった。


 そのとき、店の前で小さな騒ぎが起きた。


 少年が泣いている。


「帰り道が分からない……」


 少年は必死に涙をぬぐっていた。


 周囲の大人たちは困った顔をしている。


 この町では、道を見失うことは珍しくない。


 霧は、時に道の感覚を惑わす。


 さくは、気づけば少年の前にしゃがんでいた。


「どこに行きたいの?」


 少年は涙をこらえながら言う。


「おばあちゃんの家……帰りたい…」


「場所、覚えてる?」


 少年は首を横に振った。


 さくは言葉に詰まる。


 どうすればいいのか分からない。


 以前の自分なら、きっと誰かに任せていただろう。


「一緒に探そう」


 さくはそう言った。


 自分でも驚くほど、自然に出た言葉だった。


 少年が顔を上げる。


「分からなくてもいい。思い出せるところまで歩こう」


 しおりが、少し離れた場所でこちらを見ている。


 その視線に、背中を押される気がした。


 町を歩きながら、少年に話を聞く。


 赤い屋根。


 井戸が近い。


 猫がいる。


 断片的な情報を繋ぎながら、路地を曲がる。


 何度も迷う。


 何度も引き返す。


 それでも歩き続ける。


 少年の歩幅に合わせて。


やがて、古い家の前で少年が立ち止まった。


「ここ……」


 戸を叩くと、年配の女性が現れる。


「まあ……」


 女性は少年を抱きしめた。


「どこ行ってたの」


 泣きながら叱る声。


 少年も泣きながら謝っている。


 その光景を見て、さくの胸が強く締め付けられた。


 「連れて来ていただいて、ありがとうございます」


 年配の女性が頭を下げて、さくにお礼を言う。


 さくは、


「良かった……。僕は仕事に戻りますね」


 そう言って、今来た道を戻り始めた。


 仕事終わりの帰り道。


 さくは黙って歩いていた。


 待っていたしおりが隣に並ぶ。


えらかったね」


「……うん……」


 さくは正直に答える。


「少し怖かったけど…正しいことしたよね?」


「正しさなんて、ここにはあまりないけど…、さくくんの行動は正しかったよ」


 しおりは小さく笑う。


「なにより、あの子は嬉しかったと思う」


  霧が、ゆっくり濃くなっていく。


 町の灯りが、淡く滲む。


 さくの顔が、先生に褒められた小学生のように明るくなる。


 さくは足を止めた。


「俺さ」


「うん」


「逃げてたんだと思う」


 その言葉は、驚くほど静かに出た。


「相手の気持ちからも、自分の気持ちからも」


 しおりは何も言わない。


 だが、その沈黙が、さくに続きを話させる。


「もし帰れたら…」


 さくは空を見上げる。


「ちゃんと向き合いたい」


 霧の空は、相変わらず色を持たない。


「謝るとかじゃなくて……」


 言葉を探す。


「逃げないで話す」


 しおりが、ほんの少しだけ微笑んだ。


「うん」


 その声は、どこか寂しそうだった。


 町に夜が降りる。


 灯りが一つずつ点る。


 霧は静かに流れ続ける。


 さくは歩きながら思う。


 帰りたい。


 その気持ちが、少しだけ曖昧になっている気がした。


 だが――


 誰かと、もう一度向き合うために。


 そのために帰りたいと、初めて思い始めていた。

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