第四章
彼女にフラれた大学生の水瀬 朔。
アパートに帰る途中で今までに経験のない濃い霧に包まれる。
灯りを見つけた朔は、灯りを頼りに歩く。
灯りに導かれ着いた先は、木造の家が並ぶ見知らぬ町だった。
その町で声をかけてきた女性……栞。
彼女が案内する、霧の町での生活が始まる。
朝なのか、夕方なのか。
目を覚ましたとき、朔には判断がつかなかった。
障子越しに差し込む光は淡く、色を持たない。
時間というものが、霧に溶けてしまったようだった。
身体を起こすと、畳がひんやりしている。
部屋は静かだった。
外から、かすかに人の話し声が聞こえる。
朔は戸を開けた。
町は、昨日と同じ色をしていた。
柔らかな橙色の灯り。
湿った石畳。
白い霧が、遠くでゆっくりと揺れている。
「起きた?」
振り向くと、栞が立っていた。
手には紙袋を持っている。
「朝……なのか?」
朔が聞くと、栞は少し考えてから笑った。
「たぶんね」
その曖昧さが、この町では自然なのだと、朔は理解し始めていた。
栞は袋から包みを取り出し、朔に渡した。
「パンみたいなもの。食べられるから」
包みを開くと、素朴な焼き色の生地が現れる。
香ばしい匂いがした。
一口かじると、驚くほど普通の味だった。
普通であることが、妙に安心を呼ぶ。
「今日は、少し歩こうか」
朔が食べ終わると、栞はそう言って立ち上がった。
朔も後を追う。
町は静かに動いていた。
路地の奥で、女が布を干している。
軒先では、男が古い時計を分解していた。
小さな子どもが、石を並べて遊んでいる。
どれも穏やかな光景だった。
だが――
どこか色褪せて見える。
まるで記憶の中の風景を見ているようだった。
「みんな、ここで暮らしてる」
栞が言う。
「帰れなかった人?」
朔は思わず聞いた。
栞は少しだけ頷いた。
「帰らなかった人もいる」
朔は言葉を返せなかった。
古本を並べた店の前で、栞が立ち止まる。
「ここ、好きなの」
戸を開けると、乾いた紙の匂いが広がった。
棚には古い本がぎっしり並んでいる。
背表紙は擦れ、文字が消えかけているものも多い。
奥で、白髪の女性が椅子に座っていた。
「おはよう、春江さん」
「おはよう、栞さん」
穏やかな声だった。
「新しい方?」
朔は軽く頭を下げた。
「……水瀬 朔です」
春江は微笑む。
「私は春江。ここで本を整理してるの」
朔は棚を見渡した。
見覚えのある装丁の本が混じっている。
だが、どれも出版年が古い。
「春江さんは、どれくらいここに?」
気づけば、そう聞いていた。
春江はしばらく考え、穏やかに答える。
「覚えてないの。ごめんなさいね」
その言葉は、あまりに自然だった。
「でもね、昔は教師をしていた気がするの」
そう言って、背表紙を優しく撫でる。
「だから、本が好きでね」
朔は胸の奥に、奇妙な違和感を覚えた。
「教師をしていた気がするの」
覚えていない?
自分がしていた仕事を?
まさか……元の世界の記憶が……
記憶が曖昧なのに、生活だけが残っている。
それが、この町の姿なのだと気づき始める。
店を出たあと、朔は黙ったまま歩いた。
路地を曲がると、小さな広場に出る。
中央には、古びた井戸があった。
数人の人が、水を汲んでいる。
「ここにいる人って……」
朔は言葉を探す。
「元の世界のこと、覚えてるんだよね?」
栞は井戸を見つめたまま答えた。
「人によるわ」
「忘れるの?」
「少しずつね」
その声は静かだった。
「思い出そうとすると、霧がかかるみたいにぼやける」
朔の胸が、強く脈打つ。
「……栞さんは?」
問いは、無意識に溢れていた。
栞は少しだけ目を伏せる。
「覚えてるよ」
短く言ったあと、少しだけ笑う。
「大事なことは」
それ以上は語らなかった。
広場の隅で、一人の男が座っていた。
まだ若い。
朔と同じくらいの年齢に見える。
だが、その目はどこか遠くを見ていた。
「彼は?」
朔が小声で聞く。
「来てから、ずっとあそこにいる」
栞は答える。
「帰る気がないの?」
「……帰る場所がない人もいる」
朔は何も言えなかった。
しばらくして、栞が歩き出す。
「朔くん」
「ん?」
「ここで働いてみない?働くと、少し落ち着くよ」
栞はそう言って、乾物屋を指さした。
「人手が足りないって言ってたから」
朔は店を見つめた。
店先には、干された果物や薬草のようなものが並んでいる。
生活の匂いがした。
「……やってみる」
自然とそう言っていた。
栞は驚いたように目を瞬かせ、すぐに笑った。
「うん」
その笑顔が、少しだけ柔らかく見えた。
店主に挨拶をし、簡単な仕事を教わる。
袋に詰める。
棚を整える。
紐を結ぶ。
どれも単純だった。
だが、手を動かしていると、不思議と気持ちが静まる。
誰かが「ありがとう」と言って、品を受け取っていく。
その繰り返し。
気づけば、朔は笑っていた。
店を出る頃、霧は少しだけ濃くなっていた。
町の輪郭が、ぼんやりと揺れている。
「疲れた?」
栞が聞く。
「いや……」
朔は空を見上げた。
色のない空が、静かに広がっている。
「なんか……普通だった」
そう言うと、栞は少しだけ目を細めた。
「ここ、そういう場所だから」
その言葉に、朔は胸の奥がわずかにざわつくのを感じた。
普通。
その感覚が、少しずつ心地よくなっている。
それが、なぜか怖かった。
しばらく歩きながら、朔は気になっていたことを聞いた。
「栞さんの仕事は……」
「あたしは…決まった仕事はないの。」
栞は答える。
「フリーターみたいな…」
朔の言葉に、栞は少し笑い、
「そうね。……専門の知識や技術を持っている人は、その技術を使った仕事をしている人が多いわね」
歩きながら話を続ける。
「けど…あたしみたいな、特別な知識が無い人は、決まった仕事じゃなく、色んな人の手伝いをする人もいるの。」
「じゃあ…俺も、そっちだな。知識も技術も無いし……」
朔の言葉に栞は頷いて
「とりあえずは、それでいいと思うよ」
「うん…」
「ここは、お店みたいな手伝いだけじゃなく、街灯修理の手伝いや、お年寄りの生活の手伝いなんかも需要が多いから」
「そうか…わかったよ、栞さん。」
朔は両手を挙げて伸びをしながら、
「とりあえずは、乾物屋の手伝いを頑張るよ」
栞は朔を見ないまま、笑顔になる。
二人は並んで歩く。
霧が、静かに町を包み込む。
遠くで風鈴が鳴る。
誰かが戸を閉める音。
生活の音が、ゆっくりと夜に溶けていく。
朔は歩きながら思う。
帰れる。
そのはずだ。
そう思いながら――
それまでは、ここで生活していかないと。
霧の町の匂いが、ほんの少しだけ、懐かしく感じ始めていることに気づきかけていた。




