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霧の町  作者: 相田 依人


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第三章

 彼女にフラれ、アパートに帰る途中に霧に包まれた、大学生の水瀬みなせ さく

 今までにない霧の濃さに動揺してしまうが、さくは灯りを見つける。

 灯りを頼りに歩いて行くと、見たことのない、古びた町に辿り着いた。

 そこで出会ったしおりと名乗る女性。

 さくしおりに導かれ、霧の町に足を踏み込む。

町の灯りは、どれも柔らかかった。


 電球の色が少しだけ古く、橙色だいだいいろに近い。


 その光が石畳に滲み、霧に溶け、景色全体を淡く染めている。


 まるで古い写真の中を歩いているようだった。


 さくしおりの背中を追いながら、周囲を見渡した。


 道の両脇には、小さな店が並んでいる。


 乾物屋のような店。

 

 古道具を並べた店。

 

 木の札を吊るした食堂のような建物も見える。


 どの店にも、生活の気配はある。

 

 だが、不思議なほど人通りが少ない。


「……ここ、どこなんですか?」


 ようやく出た言葉だった。


 しおりは少しだけ歩調を緩める。


「名前はないよ。みんな“ここ”って呼んでる」


「そうじゃなくて…僕のアパートの近くに…こんな…」


 さくは、辺りを改めて見回し、


「こんな…場所は無かったはずなんだ…」


 しおりは、少しの沈黙の後、


「霧の中よ…多分ね。はっきりしたことは、誰にもわからないわ。みんな…あなたと同じ、迷い込んだ人達だから…」


 振り返らずに答える。


 その言い方が、妙に自然だった。


 霧の中…?


 迷い込んだ…?


 さくは黙って歩きながら、先程包まれた、今までにないほど濃い霧のことを考えていた。


 霧は町の外縁に張り付くように漂って、空は霧が薄くなっている。


 星がかすんで見えるせいか完全に閉じ込められている、という印象ではない。


 ただ、出口が見えないだけだった。


「……帰れるんですよね?」


 思わずそう聞いていた。


 しおりは少しだけ間を置いた。


「帰れた人はいるって聞く」


 曖昧な答えだった。


「聞く?」


「うん。私は見たことない」


 声に悲壮感はない。


 ただ、事実を並べただけの響きだった。


 さくは胸の奥がわずかに冷えるのを感じた。


「……でも、帰れない場所じゃないんですよね?」


「そうだと思う…」


 しおりはそう言って、やっと振り返った。


 その表情は、穏やかだった。


 だが、その奥にある感情までは読み取れない。


「迷い込んだ人は、最初みんなそう思うから」


 再び歩き出す。


 さくはその言葉の意味を考えかけて、やめた。


 考えても答えは出ない気がした。


 しおりが立ち止まったのは、小さな店の前だった。


 木製の看板には、かすれた文字が刻まれている。


 何の店なのかは判別できない。


「ここ、よく使うの」


 戸を開けると、小さな鈴が鳴った。


 店内は狭く、棚に雑多な品が並んでいる。


 乾燥した果実。


 布。


 古びた食器。


 紙に包まれた何か。


 奥から、年配の男が顔を出した。


「おや、しおりちゃん」


 声は穏やかで、少しかすれている。


「こんにちは、榊田さかきださん」


「新しい人かい?」


 しおりは軽く頷いた。


「うん。さっき来たばかり」


水瀬みなせ さくです」


 さく榊田さかきだという年配の男に挨拶あいさつをした。


 榊田さかきださくを見て、ゆっくり笑った。


「まあ、座りな。さくくん。」


 さくは戸惑いながらも、差し出された木椅子に腰を下ろした。


 榊田さかきだは湯気の立つ茶を二人の前に置いた。


さくくん、簡単にここの説明をしとくよ。ここじゃ、金は使わない」


 さくは顔を上げる。


「え?それじゃあ、どうやって…」


「できることをする。それだけだ」


 簡単に言う。


「そんな…それじゃあ、店のものを勝手に持って行ってもいいんですか?」


「勝手に持って行くことはイカンよ。お店の人に許可を得て持って行くんだ。」


 さくは、榊田さかきだの話を疑ってしまう。


「君ができることをしていたなら、店の人は何も言わない。笑顔で商品を渡してくれる。けどね、君ができることをしないで、何もしないで商品を持って行くことは許可しない。それは、窃盗になるからね。忘れるんじゃないよ」


 さくは茶を手に取った。


 僕にできることって…


 さくは考えてしまう。


 お茶を口に近づけると、ほのかに甘い匂いがする。


 口に含むと、思ったより温かく、やけに身体に染みた。


「ここにいる人は、みんな迷い込んだ人なんですか」


 さくが尋ねると、榊田さかきだは少し悲しげな表現になった。


「そうだね」


「ずっとここに居ないと、いけないんですか?」


「さあな」


 榊田さかきだは曖昧に笑う。


「帰れる人もいるらしい」


 しおりが黙ったまま茶を飲んでいるのが、さくの視界の端に映った。


 店を出ると、霧が少しだけ動いていた。


 町の空気は変わらず静かだが、時間の感覚が曖昧だった。


「今晩、寝る場所あるから」


 しおりが言った。


「ホテルがあるの?」


 しおりは笑いながら、首を振り、


「空部屋よ。空いてる部屋はいくらでもあるの」


 それが当然のことのように言う。


 路地を曲がり、さらに奥へ進む。


 やがて、古い木造の建物の前で止まった。


「ここ」


 引き戸を開けると、畳の匂いがした。


 中は質素だったが、整えられている。


 低い机と、布団。


 小さな棚。


 灯りが一つ。


 誰かが暮らしていた形跡が、うっすら残っている。


「……ありがとう」


 さくが言うと、しおりは小さく首を振った。


「最初はみんな、ここを使うから」


 その言葉は、どこか決まり文句のようだった。


 さくは部屋を見回した。


 現実感が薄い。


 だが、畳に触れる足裏の感触は確かだった。


「……しおりさんは…」


 さくは言葉を探した。


「いつからここにいるんですか?」


 しおりは少しだけ目を伏せた。


「さあ」


 微笑む。


「もう、よく覚えてないの」


 その答えは軽いのに、妙に重かった。


 しばらく沈黙が流れた。


 外では、誰かが戸を閉める音がした。


 遠くで、風鈴が鳴る。


 町は確かに生きている。


さくくん」


 しおりが名前を呼んだ。


「最初は、みんな帰れると思う」


 穏やかな声だった。


「それでいいと思う」


 さくは黙って頷いた。


「ただ」


 しおりは少しだけ言葉を探す。


「ここにいると、自分のこと、よく考えるようになるわ」


 その言い方が、妙に胸に残った。


 さくは視線を落とした。


 夜の公園。


 別れの言葉。


 握れなかった何か。


 思い出が、まだ鮮明に残っている。


「……僕は帰るよ……」


 自然とそう言っていた。


 しおりは驚かなかった。


「うん」


 ただ頷く。


「帰りたいって思えるの、大事だから」


 灯りが揺れる。


 その光の中で、しおりの表情はどこか遠かった。


「じゃあ、私も帰るね…」


 そう言って、しおりは戸口へ向かった。


「明日、町を案内する」


 戸が開く。


 霧の白さが、外に広がっていた。


 しおりは振り返らずに言った。


「おやすみ、さくくん」


「おやすみ、しおりさん……」


 戸が静かに閉じる。


 さくは一人になった。


 部屋の灯りは柔らかく、影が淡い。


 畳に座ると、身体が急に重くなった。


 帰れる。


 そのはずだ。


 そう思いながら、さくは布団に横になった。


 天井を見つめる。


 木の梁が、ぼんやりと滲んで見える。


 遠くで、霧が揺れる気配がした。


 その音は、まるで呼吸のようだった。


 さくは目を閉じる。


 現実の記憶が、まだ確かに残っている。


 だが――


 その境界が、ゆっくりと曖昧になり始めていることに、さくは、まだ気づいていなかった。

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