第二章
彼女に
「優し過ぎて、物足りない」
とフラれてしまった大学生、水瀬 朔。
自分の至らなさを考えながらアパートに帰る途中、朔は霧に包まれる…
晩夏の夜は、まだ湿り気を帯びていた。
アスファルトの上に残る昼の熱が、靴底越しにわずかに伝わってくる。
遠くで虫が鳴いていた。
自販機の光が、やけに白く見える。
歩きながら、朔は何度も彼女の言葉を思い返していた。
――優しすぎて、物足りない。
さっき言われた言葉が胸の奥に、小さな棘のように残っている。
怒ればよかったのだろうか。
引き止めればよかったのだろうか。
「行かないでほしい」と、言えばよかったのだろうか。
けれど――
そのどれも、朔の中には浮かばなかった。
彼女が笑っているなら、それでいいと思っていた。
彼女が望むなら、それに合わせたいと思っていた。
それが、自分の愛し方だと信じていた。
足を止める。
信号のない横断歩道だった。
車の気配はない。
街灯の明かりだけが、白線を淡く照らしている。
朔は渡りながら、小さく息を吐いた。
……違ったんだな。
言葉にはならない独り言が、胸の中でほどけていく。
優しさは、逃げだったのかもしれない。
衝突を避けるための、言い訳だったのかもしれない。
そんな考えが、ゆっくりと浮かび上がる。
認めるのは、少しだけ怖かった。
それでも、目を逸らしたくなかった。
もう同じことを繰り返したくない――。
その思いだけは、はっきりしていた。
住宅街に入ると、人通りはほとんどなくなった。
二階建ての家々が、規則正しく並んでいる。
どこかの家の窓から、テレビの音がかすかに漏れていた。
朔は、ふと立ち止まる。
前方が、ぼんやり白く霞んでいた。
白い霧は、気づいたときには周囲に広がっていた。
最初は、ただの夜霧だと思った。
川沿いでは珍しくない。
視界が少し悪くなる程度のものだと。
だが――。
数歩進んだところで、朔は足を止めた。
街灯の光が、ぼやけている。
輪郭が滲み、灯りが丸く膨らんで見える。
空気が、妙に重かった。
もう一歩踏み出す。
白い靄が、前方を静かに塗り潰していく。
数メートル先の景色が、ゆっくりと消えていった。
振り返る。
来たはずの道が、すでに曖昧だった。
住宅の影も、電柱も、霧の向こうに溶けている。
喉の奥が乾いた。
――こんなに濃くなるものか?
歩幅を少し速める。
だが、進むほど霧は濃くなる。
光が散乱し、距離感が失われていく。
周囲がすべて、白に溶けていく。
足音だけが、頼りなく響く。
ヤバいな……。
初めて、はっきりとした不安が胸に浮かぶ。
道が、わからない。
どちらへ進んでいるのか、自分でも判断できない。
方向感覚が、霧の中で静かに崩れていく。
立ち止まり、耳を澄ます。
音は、ほとんどない。
風もない。虫の声もない。
世界が、白く沈黙していた。
そのとき――。
遠くに、淡い光が見えた。
小さな灯りだった。
霧の向こうで、かすかに揺れている。
朔は目を凝らす。
幻ではない。確かに、そこにある。
人の気配を連想させる、暖色の光。
胸の奥で、わずかな安堵が灯る。
――あそこまで行けば。
考えるより先に、足が動いていた。
霧の中を進む。
白い靄が身体にまとわりつく。
視界は相変わらず頼りない。
それでも、灯りだけは消えなかった。
近づくにつれ、光は少しずつ輪郭を持ちはじめる。
街灯だった。
古びた柱に吊された、柔らかな電球の灯り。
その下に辿り着いた瞬間、朔は息を呑んだ。
足元の感触が変わっていた。
アスファルトではない。
小石を踏む、乾いた音が靴底から伝わる。
朔はゆっくり顔を上げる。
霧が、ほんのわずかに薄れていた。
その向こうに――町があった。
低い屋根。
木造のような外壁。
見慣れた住宅街の形とは、どこか違っている。
看板らしきものが、少し揺れていた。
さらに奥に、明かりがいくつか灯っている。
人の気配が、ある。
胸の奥で、小さく安堵が広がる。
道を間違えただけかもしれない。
けど…
こんな古い町並みがあっただろうか…
そう思いながら、朔は霧の中を進んだ。
歩くたびに、白い流れがゆっくり割れる。
やがて、霧が少しだけ薄くなる。
建物の輪郭が、はっきりしてきた。
木造の家々が、緩やかな坂に沿って並んでいる。
古いが、荒れてはいない。
軒先には、暖色の灯りが吊されていた。
どこか懐かしい町並みだった。
しかし――。
静かすぎた。
虫の声がない。
風の音もない。
人の話し声も、生活音も聞こえない。
朔は立ち止まり、息を整える。
ここは、どこだ?
疑問が、ようやく言葉の形を持つ。
そのときだった。
背後で、かすかな足音がした。
朔が振り返る。
霧の中から、人影がゆっくりと現れた。
女性だった。
年上に見える。
肩までの髪が、淡い光に溶けるように揺れていた。
落ち着いた色のワンピースを着ている。
どこか、この町の空気に馴染んでいる姿だった。
女性は、朔の前で足を止める。
数秒、互いに沈黙が続いた。
やがて彼女は、小さく首を傾げた。
「……今……来たばかりだよね」
穏やかな声だった。
朔は答えに詰まる。
来た?…どういう意味だ…
「あの……ここ、どこですか」
女性は、ほんのわずかに笑った。
どこか困ったような、柔らかい笑みだった。
「みんな、最初はそう聞くの」
少しだけ間を置いて、彼女は続ける。
「驚くよね。でも、大丈夫……」
霧の向こうに視線を向ける。
「ここまで歩いてきたなら…もう戻れないところまで来てると思う」
胸が、静かに締め付けられる。
「戻れない?……あの…、アパートに…帰りたいんだけど…」
朔の問いに、彼女はすぐには答えなかった。
代わりに、ゆっくりと手を差し出した。
「立ち話もなんだし。落ち着いて、話をしましょう。ここに立ってると、余計に不安になるから」
灯りが、彼女の横顔を淡く照らしている。
「私は――栞」
霧が、静かに流れる。
朔は、その名前を胸の中で繰り返す。
しおり。
不思議と、響きが耳に残った。
栞は、もう一度だけ柔らかく微笑む。
「あなたの名前、聞いてもいい?」
朔は、少しだけ迷ったあと、口を開いた。
「……水瀬…です。水瀬朔」
栞は頷く。
「朔くん」
その呼び方が、なぜか自然に感じられた。
「来てしまったなら……ここを知らないままは、不安でしょ」
差し出された手は、急かすようでも、強制するようでもなかった。
ただ静かに、そこにあった。
朔は、ほんの一瞬だけ躊躇う。
だが――
ゆっくりと、その手を取った。
霧の町の灯りが、静かに揺れていた。
その瞬間から、自分の日常が、もう元の形には戻らないことを、朔はまだ知らなかった。




