第二十八章
数日後。
霧は朝から重く垂れ込めていた。
雑貨屋の裏手で、栞は食器の入った箱を抱えていた。
本来なら、誰かに運んでもらえる程度の荷だった。
それでも今日は、自分で持ち帰ろうとしていた。
箱を持ち上げる。
思ったより重い。
「……大丈夫」
小さく呟き、歩き出す。
通りは、湿った石畳が滑りやすくなっていた。
慎重に足を運ぶ。
角を曲がった瞬間――
足が、わずかに滑る。
「っ……」
体勢を崩す。
箱が腕から離れ、石畳に落ちる。
乾いた音が響き、食器が割れる。
栞はその場に膝をついた。
破片が散らばる。
「……ごめん」
誰に言うでもなく、呟く。
手を伸ばし、破片を拾おうとする。
指先に、小さな痛みが走る。
血が、滲む。
その瞬間。
――朔なら。
頭に浮かんだ考えに、自分で驚く。
助けを呼べばいい。
そうすれば、きっと来てくれる。
そう思った。
けれど。
栞は、手を止める。
「……いい」
小さく首を振る。
忙しい。
きっと、また仕事をしている。
それに――
頼ったら。
何かが、変わってしまう気がした。
栞は、ひとりで破片を集め始める。
指先が震える。
血が、少しずつ増える。
それでも、拾い続ける。
胸の奥に、じわりと痛みが広がる。
寂しさに似ている。
けれど、それを認めたくなかった。
その頃。
町の中央広場では、人が集まり始めていた。
ざわめきが、霧の中で揺れている。
「……開いたらしい」
誰かが呟く。
朔は、荷を運ぶ途中で足を止める。
広場の奥。
霧が、不自然に薄くなっている場所があった。
白い光が、ゆっくり滲んでいる。
帰還の兆しだった。
人々の表情が、揺れる。
希望。
恐れ。
諦め。
様々な感情が、そこに集まっていた。
朔は、しばらくその光を見つめる。
胸の奥が、わずかにざわつく。
帰れるかもしれない。
その可能性は、今も消えていない。
けれど。
視線を、ほんの少しだけ周囲に向ける。
誰かを探したわけじゃない。
それでも――
自然に探してしまう。
姿は、見えない。
「……」
朔は、ゆっくり息を吐く。
光の前には、別の男が立っていた。
若い男だった。
何度か見かけた顔。
隣には、小さな子どもがいる。
「行け」
周囲の誰かが言う。
男は、子どもの肩を押す。
子どもは、涙を浮かべながら首を振る。
「一緒に……」
子どもが、男のズボンを引っ張りながら言う。
男は、目を閉じる。
そして。
子どもを抱き上げ、光へ踏み出す。
白い霧が、二人を包む。
静寂が落ちる。
やがて光は、ゆっくり閉じていった。
残された空間には、淡い霧だけが漂う。
朔は、その場に立ったまま動けなかった。
胸の奥に、重い何かが沈む。
帰れる。
でも――
必ずしも、誰かと一緒に帰れるわけじゃない。
その現実が、静かに突き刺さる。
「……」
拳を、無意識に握る。
その時だった。
背後から声が飛ぶ。
「朔さん! どこ行ってたの!」
振り返る。
診療所の女性が、息を切らして走ってきた。
「怪我人が出たんです。手を貸して!」
「……分かりました」
朔は即座に頷く。
広場を振り返ることなく、走り出す。
雑貨屋の裏通り。
栞は、ようやく最後の破片を拾い終えていた。
自分で応急処置をしたのだろう。
指先には、小さく包帯が巻かれている。
箱の中には、割れた食器の残骸だけが残っている。
立ち上がる。
その時。
通りの向こうを、朔が走り抜けていくのが見えた。
誰かに呼ばれ、診療所へ向かっている。
栞は、声をかけようとして――
やめる。
朔の背中は、迷いなく前を向いていた。
その姿が、頼もしく見える。
同時に。
遠く感じた。
栞は、箱を抱え直す。
「……忙しいんだもんね」
微笑む。
誰に向けた笑顔でもなかった。
朔は、そのまま通りを曲がり、見えなくなる。
栞は、ゆっくり歩き出す。
霧が、二人のいた場所を静かに埋めていく。




