第二十七章
その数日後。
霧は、朝から重かった。
通りを歩く人影も、どこか輪郭が曖昧に見える。
栞は、町の中央にある掲示板の前に立っていた。
木枠に貼られた紙を、じっと見つめている。
そこには、町の仕事の手伝いを募る紙が並んでいた。
診療所補助。
灯りの修繕。
物資の仕分け。
荷運び。
お年寄りの手伝い
その紙の参加欄に――
見覚えのある名前が何度も書かれていた。
「水瀬 朔」
同じ字が、違う紙に繰り返し並んでいる。
栞は、しばらくその文字を見つめていた。
「……忙しいんだ」
小さく呟く。
責める気持ちはなかった。
むしろ、どこか誇らしさに近い感情があった。
町に来たばかりの頃の朔を思い出す。
何をすればいいのか分からず、少し戸惑った顔。
それが、今は――
誰かに頼られている。
それは、きっと良いことだ。
栞は掲示板から視線を外す。
それでも、胸の奥がわずかにざわつく。
会っていないわけじゃない。
挨拶くらいは交わしている。
けれど……。
ゆっくり話したのは、いつが最後だったか――
思い出そうとして、すぐに浮かばなかった。
紗英とのことも、まだ聞けてなかった。
聞かなきゃ…
そう思う。
けど、聞く権利があるの?
もし、聞きたくない答えが返ってきたら?
ううん。
朔は、
「君と帰れたらって、思ってる」
そう言ってくれた。
栞は踵を返し、通りを歩き出す。
霧が、足元を薄く流れている。
午後。
栞は、灯り屋の裏手にいた。
修理が終わったランプを受け取るために来たのだが、
店の中から聞こえてきた声に、足を止める。
「助かるよ、本当に」
店主の声だった。
「いや、俺も慣れてきただけです」
続いた声に、栞はわずかに息を止める。
朔だった。
扉の隙間から、姿が見える。
工具を片付けながら、店主と話している。
その横顔は、どこか落ち着いて見えた。
栞は、声をかけようとして――
止める。
中では、別の客が話しかけていた。
「最近、よく見かけるな」
「そうですか?」
「頼りにされてる証拠だ」
朔は、少し照れたように笑う。
その表情を見た瞬間、栞の胸がきゅっと締まる。
嬉しい、と思う。
同時に――
自分の知らない時間が、そこにある気がした。
栞は、静かに一歩下がる。
扉に背を向ける。
そのまま、何も言わずに店を離れた。
霧が、少しだけ濃くなる。
歩きながら、手を軽く握る。
「……忙しいだけ」
自分に言い聞かせるように呟く。
分かっている。
分かっているはずなのに。
胸の奥に、小さな不安が残る。
もし――
このまま。
朔が、町に深く馴染んでいったら。
自分は。
その中に、いられるのだろうか。
その考えに触れた瞬間、栞は首を振る。
「……考えすぎ」
そう呟いて、歩き続ける。
霧が、静かに揺れていた。
夕暮れ。
通りの灯りが、一つずつ点り始める。
角を曲がった先で、栞は足を止めた。
向こうから歩いてくる影に、見覚えがあった。
朔だった。
朔も気づき、少し驚いたように立ち止まる。
「……あ」
「……あ」
同時に声が出て、二人は小さく笑う。
「久しぶり……かな……」
朔が言う。
「うん……最近、忙しそうだね」
栞は、なるべく自然に言った。
「まぁ、ちょっとだけ」
朔は頭を掻く。
沈黙が、ほんの少し落ちる。
霧が、二人の間をゆっくり流れる。
「体、大丈夫?」
栞が尋ねる。
「大丈夫。慣れてきた」
「そっか……」
また、短い沈黙。
以前なら、もっと自然に言葉が続いていた。
そんな気がして、栞は視線を足元に落とす。
朔が口を開く。
「そっちは? 最近どう?」
「……普通かな」
答えながら、少しだけ迷う。
本当は、普通じゃない。
でも、それを言葉に出来ない。
「そっか」
朔は頷く。
それ以上、踏み込まない。
それが、朔らしいとも思う。
けれど。
ほんの少しだけ、物足りなさが胸をかすめる。
「……無理、してない?」
栞が、ぽつりと聞く。
朔は一瞬だけ考え――
小さく笑う。
「してない、と思う」
その答えに、栞は頷く。
「なら、いい」
それだけ言う。
また沈黙。
通りの灯りが、二人の影を長く伸ばす。
「……じゃあ、俺そろそろ」
朔が言う。
「うん」
栞は笑う。
「またね」
「また」
すれ違う。
肩が、ほんのわずかに近づいて――
離れる。
数歩進んだあと。
栞は、振り返りそうになる。
けれど、そのまま歩き続ける。
朔もまた、振り返らない。
霧が、二人の間に静かに流れ込む。
距離は、ほんのわずかにしか変わっていない。
それでも確かに――
以前とは、少しだけ違っていた。
そのズレに。
まだ、どちらも名前をつけられずにいた。




