第二十五章
その夜。
町の外れにある小さな倉庫の前で、朔は一人、木箱を積み直していた。
霧に湿った板が、わずかに重い。
持ち上げるたび、腕に鈍い疲労が残る。
昼間、頼まれた仕事だった。
誰かがやらなければならない、細かな作業。
朔は、黙々と手を動かす。
積み終えて、ようやく手を止める。
肩を回すと、骨が小さく鳴った。
「……はぁ」
短く息を吐く。
空を見上げる。
霧は、夜になると少しだけ薄くなる。
滲んだ灯りが、遠くで揺れている。
静かな時間だった。
ふと――
昼間の会話が、頭をよぎる。
「……君と帰れたらって、思ってる」
自分で言った言葉なのに、どこか他人事のように感じる。
朔は苦笑する。
「……何言ってんだろ、俺」
頭を掻く。
ちゃんと伝わったのか、分からない。
そもそも、何を伝えたかったのかさえ、言葉に出来ていない気がする。
それでも。
胸の奥に、妙な静けさがあった。
以前の自分なら、ああいうことは言わなかった。
言えなかった。
相手に合わせて。
嫌われないようにして。
波風を立てないようにして。
それが正しいと思っていた。
朔は、倉庫の壁にもたれかかる。
視線が、白く流れる霧に向く。
帰れるかもしれなかった瞬間を、思い出す。
あの時。
光が開きかけた、あの場所。
譲った。
迷いがなかったと言えば、嘘になる。
帰れたかもしれない。
家族もいる。
日常もある。
その可能性は、確かに胸のどこかで揺れていた。
朔は、拳を軽く握る。
「……でも」
小さく呟く。
あの時、立ち止まった自分を思い出す。
背後に感じた、あの人の気配。
弱くなりそうな横顔。
あのまま光に踏み出していたら――
きっと、ずっと引きずった。
帰れていたとしても。
胸の奥に、何かが残ったままになった気がする。
朔は、ゆっくりと息を吐く。
「……後悔、ゼロじゃないけど」
言葉にしてみると、不思議と素直に出た。
それでも。
心の奥に残っているのは、重さじゃなかった。
静かな納得に近い。
「……あれで、よかったんだよな……」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
霧が、ゆっくり流れる。
朔は、足元の石を軽く蹴る。
転がる音が、すぐに霧に吸われる。
帰りたいと思う。
それは本当だ。
ここが嫌いなわけじゃない。
けれど、帰りたい場所はある。
それでも――
一人で帰ることを想像すると、胸の奥が少しだけ冷える。
理由は、うまく説明できない。
ただ。
「……あの人が、いるかどうか」
ぽつりと漏れる。
言ったあと、朔は少しだけ眉を寄せる。
自分でも、その言葉の重さを測りきれない。
好きなのか。
そう聞かれたら、分からない。
でも。
失いたくない。
それだけは、はっきりしていた。
朔は、倉庫の戸を閉める。
木の軋む音が、静かな夜に溶ける。
歩き出す。
霧の中の道は、もう覚えている。
歩きながら、ふと考える。
もし、帰る機会がまた来たら。
その時、自分はどうするのか。
答えは、まだない。
けれど。
「……逃げないで決めたい」
自然に、そう思った。
誰のためでもなく。
誰かに合わせるでもなく。
自分のために。
選びたい。
その感覚が、胸の奥で小さく灯る。
まだ答えとは呼べない。
それでも確かに――そこにある。
朔は歩き続ける。
霧が、静かに道を包む。
その足取りは、以前よりほんの少しだけ、迷いが減っていた。




