第二十四章
その夜。
町の灯りが、霧の向こうで淡く滲んでいた。
栞は、一人で坂道を下っていた。
朔とは、途中で別れた。
「じゃあ、また明日」
いつもと同じ言葉。
いつもと同じ笑顔。
それなのに――
背中を向けた瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。
歩きながら、両手を軽く握る。
指先に、まだ微かな震えが残っていた。
家に戻る道は、もう慣れている。
曲がり角も、石段の段差も、目を閉じても歩けそうなくらいだった。
それでも今日は、足取りが少しだけ重かった。
玄関の扉を開ける。
軋む音が、小さく響く。
灯りをつける。
いつもの部屋。
変わらない机。
窓際の椅子。
静かな空気が、迎える。
栞は靴を脱ぎ、ゆっくりと部屋の中央まで歩いた。
そこで立ち止まる。
しばらく、何もしない。
やがて、小さく息を吐く。
「……君と帰れたらって、思ってる」
朔の声が、胸の奥で反響する。
その言葉を思い出した瞬間、喉が締まる。
嬉しかった。
本当に。
胸の奥が、温かくなった。
――それなのに。
栞は、椅子に腰を下ろし、両手で顔を覆う。
まぶたの裏に、別の景色が浮かぶ。
薄暗い街。
手に持ったスマートフォン。
連絡が来ない画面。
「……もういい」
そう言った自分の声。
本当は、良くなかった。
謝りたかった。
電話を、かけたかった。
それでも、意地を張った。
そして――
霧に包まれた。
栞は、手を下ろす。
視線が、窓へ向く。
白い霧が、ゆっくり流れている。
「……まだ」
小さく呟く。
「待ってるのかな……」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
沈黙が部屋を満たす。
しばらくして、栞は立ち上がる。
窓を開ける。
冷たい空気が流れ込む。
霧の匂い。
ここへ来た日のことを思い出す。
あの日も――
同じ匂いがした。
栞は、窓枠に手を置く。
指先に、力が入る。
朔の顔が浮かぶ。
笑った顔。
不器用に言葉を探す顔。
帰還の機会を、他人に譲ったときの横顔。
胸が、少しだけ痛む。
「……ずるいな」
小さく、笑う。
自分でも分からない感情だった。
頼もしいと思う。
安心する。
一緒にいると、落ち着く。
それなのに。
――選べない。
その事実が、胸の奥で重く沈む。
栞は窓を閉める。
部屋の静けさが戻る。
机の上に置いたままのカップに、水を注ぐ。
一口だけ飲む。
喉を通る冷たさが、妙に現実的だった。
「……今は」
自分に言い聞かせるように、呟く。
「このままで、いいよね」
返事はない。
それでも、もう一度だけ小さく頷く。
灯りを消す。
暗闇の中、ベッドに横になる。
目を閉じる。
――君と帰れたら。
その言葉が、ゆっくりと浮かぶ。
胸の奥が、静かに締め付けられる。
けれど。
栞は、その感情に名前をつけなかった。
つけてしまえば――
何かを選ばなければならなくなる気がしたから。
霧の流れる音が、遠くで続いている。
その音に包まれながら、栞は目を閉じた。
答えを出さないまま。
静かに、夜が更けていった。




