第二十三章
紗英の部屋は、町の端にあった。
最低限の家具。
生活の匂い。
扉が閉まる。
「お茶、いる?」
「大丈夫です」
紗英は向かいに座る。
視線がまっすぐすぎる。
「単刀直入に言うね」
「……はい」
「私は、あなたが欲しい」
空気が止まる。
「栞より、私のほうがはっきりしてる」
「……」
「迷わないよ。私は」
朔はゆっくり息を吐く。
逃げない。
目を逸らさない。
「……すみません」
紗英の眉がわずかに動く。
「俺は、栞と帰りたい」
部屋が静まる。
「彼女が迷ってても?」
「それでも」
「帰れないかもしれないよ?」
「それでもです」
声は揺れていない。
「一人で帰るなら、意味がない」
紗英はしばらく朔を見つめた。
やがて、笑う。
「本気なんだ」
「はい」
「バカみたい」
「よく言われます」
その返しに、紗英は吹き出す。
「……そっか」
しばらく沈黙。
「じゃあ、帰りなよ」
朔は立ち上がる。
扉に手をかける。
「ありがとうございました」
「何が?」
「選ばせてくれて」
紗英は目を細める。
「後悔しないでね」
「しません」
即答だった。
扉が閉まる。
外は、霧が濃くなっていた。
朔は歩く。
満足している。
自分で選んだ。
流されなかった。
その事実が、胸に静かに灯る。
霧の向こうに、栞がいる。
今度は、自分から向かう。
逃げずに。
夕方
手伝いの配達を終え、部屋に帰る途中。
広場の端で、栞が立っていた。
朔を見つけると、小さく手を振る。
「……聞いた?」
近づいてきて、そう言った。
朔は頷く。
「帰れたらしいね」
「うん……」
短い沈黙が落ちる。
栞は、朔の手を見た。
指先が、わずかに震えている。
「……どうして」
その問いは、柔らかかった。
責める響きはない。
朔は、少し考える。
「分からない」
正直に言う。
「でも……あの人の方が、帰る理由がはっきりしてた」
栞は視線を落とす。
胸の奥が、きしむ。
「…朔は…」
歩きながら、視線は前を向いたまま。
「帰りたくないの?」
問いは、静かだった。
責める響きも、試す色もない。
ただ、確かめるような声だった。
朔は、すぐには答えなかった。
少しだけ歩みを緩める。
霧の向こうを見つめる。
「……帰りたいよ」
それは、迷いのない声だった。
そのあと、言葉が続かない。
気持ちは決まっていた。
しかし、言葉にして相手に伝えるには、別の決心が必要だった。
風が、二人の間を抜ける。
朔は小さく息を吸い、言葉を探す。
「俺は……」
そこで、一度止まる。
喉の奥で、何かが引っかかる。
「……君と帰れたらって、思ってる」
言ったあと、朔は少しだけ目を伏せた。
続ける言葉が見つからない。
誤魔化すように、小さく笑う。
「……うまく言えないけど」
それだけだった。
沈黙が落ちる。
栞は、歩みを止めなかった。
けれど、指先がわずかに震えていた。
胸の奥で、何かが強く揺れる。
嬉しい、と思った。
確かに、そう思った。
あたしも、聞かなきゃ…
紗英との関係を……
同時に――
遠い記憶が、かすかに浮かぶ。
雨の夜。
言い合いになった声。
背を向けたまま、閉じた扉。
「……また連絡する」
そう言ったまま、途切れた元彼の声。
その記憶が、胸の奥に小さな影を落とす。
栞は、それを押し込める。
朔には、言えない。
言葉を探す。
何か返さなければと思う。
けれど。
どの言葉も、嘘になる気がした。
「……」
結局、声は出なかった。
ただ、ほんの少しだけ微笑む。
「……そっか」
それだけを、やっと絞り出す。
朔は、その意味を深く考えなかった。
出来なかった、と言った方が近い。
ただ、少し安心したように頷く。
二人はまた歩き出す。
霧が、静かに流れる。
並んでいるはずの距離は変わらない。
それでも――
触れそうで触れない、わずかな隙間が生まれていた。
誰も、それを指摘しない。
そのズレは、まだ小さい。
まだ、形にならない。
けれど確かに――
ふたりの心の奥で、静かに残り続けていた。




