第二十二章
それは、数日後の午後だった。
町の中央広場に、人が集まり始めていた。
ざわめきは大きくない。
けれど、いつもの日常とは違う、硬さが空気に混じっている。
朔が駆けつけたとき、既に数人が輪を作っていた。
「どうしたんですか」
声を掛けると、見覚えのある老人が振り返る。
「……霧が、開いた」
その言葉に、朔の胸が小さく鳴った。
広場の端――石畳の先に、白い霧が円を描くように薄れている。
奥は見えない。
けれど、そこだけ、町とは違う光が滲んでいた。
帰還の兆し。
それが何なのか、誰も説明できない。
それでも、この町の住人は知っている。
――あれは、「出口」になることがある。
「誰か、呼ばれてるのか……?」
誰かが呟く。
そのとき、輪の外から、若い女が前に出た。
まだ十代の終わりか、二十歳になったばかりか。
震える手で胸元を押さえている。
「……私、だと思います」
声が掠れていた。
「さっきから、ずっと……引っ張られる感じがして」
周囲が静まる。
老婆が一歩近づき、女の肩に触れた。
「家族は?」
「……います。弟が……まだ小さくて」
女は俯いたまま続ける。
「帰りたいです」
その言葉は、強かった。
恐怖を抱えながら、それでも迷いがない響きだった。
朔は、その横顔を見つめる。
胸の奥で、何かが重く動く。
「……行けるのか?」
誰かが、老人に尋ねる。
老人は、霧を見つめたまま言う。
「分からん。ただ――」
一度、言葉を切る。
「……二人までは、通れたことがある」
ざわめきが広がる。
「条件は?」
「わからん」
短い答えだった。
沈黙が落ちる。
視線が、自然に朔へ集まった。
町の中で、霧に近づき、境界を見た経験がある人間。
何度も霧の流れを調べてきた人間。
それが、朔だ。
喉が、わずかに乾く。
霧の奥を見つめる。
白い光が、静かに揺れている。
帰れるかもしれない。
その可能性が、胸を叩く。
栞の顔が浮かぶ。
家族の顔も浮かぶ。
現実の空気。
夜の街灯。
夏の匂い。
一歩、踏み出しかける。
――その瞬間。
女の肩が、小さく震えた。
朔は視線を落とす。
女は、必死に唇を噛んでいた。
泣きそうなのを、こらえている。
「……弟、まだ……小学生なんです」
誰に向けるでもなく、呟く。
「私が……いないと……」
言葉が続かない。
朔は、息を止めた。
胸の奥で、何かが静かに崩れる。
そして――
前に出る。
「……一人で行ってください」
静かな声だった。
女が顔を上げる。
「え……?」
「二人通れる可能性があるだけで、確実じゃないなら」
朔は霧を見たまま続ける。
「確実に帰りたい人が、行くべきです」
周囲が息を呑む。
「お前は……」
老人が低く言う。
朔は、わずかに首を振る。
「俺は……まだ、やることがあるから」
それは、半分は本音で。
半分は――嘘だった。
霧が、ゆっくりと揺れる。
女は、しばらく動かなかった。
やがて、深く頭を下げる。
「……ありがとうございます」
声は、涙で滲んでいた。
朔は、何も答えない。
ただ、霧の前に立ち、道を空ける。
女は一歩、踏み出す。
足が震える。
それでも、止まらない。
白い光が、彼女を包む。
一瞬、輪郭が揺れる。
そして――
消えた。
霧が、静かに閉じる。
光も、消える。
広場に、長い沈黙が残った。
その場を離れたとき、朔の手は冷えていた。
歩きながら、拳を握る。
力が入らない。
――帰れたかもしれない。
その考えが、遅れて胸を刺す。
「朔くん!」
後から声をかけられ、振り向く。
紗英が走って来る。
息を切らしながら、
「朔くん、道が開いたのに帰らなかったんだって?」
「うん…。俺が開いた道じゃなかったしね」
紗英は朔の腕を掴み
「どうして…。もったいないじゃない…。」
朔は黙っている。
帰りたい…とは思っている。
けど…。
「ここで……、やらなきゃいけないことがあるし……」
「何言ってんの!ここでの仕事なんて、どうでもいいことでしょ」
朔は黙る。
「ねぇ…、ちょっと話さない?」
本当は断りたかった。
けど、断る理由もなかった。
「いいですよ」
朔は並んで歩く。
紗英は距離が近い。
「ねえ、朔くん」
「はい」
「ここ、嫌じゃない?」
唐突だった。
「……嫌じゃないです」
「強がらなくていいよ。ネットもないし、未来も見えないし。帰れる保証もない」
朔は黙る。
「もしさ」
紗英が立ち止まる。
「帰れるなら、誰と帰りたい?」
胸の奥が、はっきりと反応する。
朔は迷わなかった。
「……一人じゃないです」
「へえ?」
「一人で帰るつもりはありません」
紗英は微笑む。
「じゃあ、私と帰る?」
その言葉に、朔はようやく意味を察する。
「……どういうことですか」
紗英は一歩近づく。
「私はね、欲しいものは取りに行くの」
腕に触れられる。
「あなた、今、選べる立場でしょ?」
静かな声だった。
「栞は、まだ迷ってる。違う?」
朔の表情が変わる。
「……やめてください」
「何を?」
「そういう言い方」
紗英は笑う。
「じゃあ、うち来る?ちゃんと話そ」
朔は一瞬、迷う。
拒絶する理由はある。
だが、逃げるだけでは選んだことにならない。
「話すだけなら」
「もちろん」
二人は、霧の中に消えて行く。
消えて行く二人に気付く住人はいなかった。




