第二十一章
朔は、一瞬だけ紗英を受け止め、優しく離れる。
「帰るよ」
朔は西通りの橋を戻り始める。
紗英は黙って、朔の後を歩き始めた。
その頃。
栞は、古い洋品店の奥で、布を畳んでいた。
店主の老婆が仕入れてきた布は、どれも少し色褪せている。
けれど触れると、柔らかく、温かい。
「手つき、上手くなったね」
「……慣れただけです」
栞は笑いながら答える。
「最初は、指を刺してばかりだったのに」
「言わないでください」
二人で、小さく笑う。
笑い声は、店の奥で静かに消えていく。
布を棚に並べ終えたとき、栞はふと、窓の外を見た。
霧の向こうに、人影が動いている。
見慣れた歩き方――
朔だ、とすぐに分かった。
でも…
もう一人も、すぐに分かった。
紗英だと。
橋の方から帰ってきたようで、背中が、白く滲んで見える。
「……朔くんかい?」
老婆が、栞視線の先を追うように言った。
栞は、少しだけ間を置いて頷く。
「……はい……」
それ以上は言わない。
手を動かし、布の端を整える。
指先は、きちんと仕事を続けている。
けれど、胸の奥に、大きな不安が生まれていることに気づいていた。
紗英と会った時、彼女は言った。
「もし、あんたが朔くんと……」
その時は聞きたくなくて、逃げ出した。
人の持っているものを欲しがる紗英。
紗英は、朔を欲しがっている。
朔を好きになってる?
布を掴む指先が震えていることに、栞は、しばらく気がつかなかった。
夕方。
仕事を終えた栞が外に出ると、町は柔らかな橙色に染まっていた。
霧が光を含み、淡く揺れている。
帰り道の途中、朔の姿を見つけた。
木箱を抱え、誰かの家の前で立ち止まっている。
扉をノックし、何か説明しているようだった。
その表情は真剣で、言葉を選びながらも、どこか落ち着いている。
――変わったな。
いつもなら、そう思うだろう。
でも…今は…
聞きたい。
どうして紗英と一緒だったのか。
何があったのか。
紗英を、どう思うか。
けど…。
聞けるだろうか……。
聞けば、朔は答えてくれるだろう。
でも…。
聞く権利があるのだろうか。
朔は、あたしの……。
ほんの少しだけ、冷たいものが落ちる。
朔が家から出てきたとき、栞は声をかけた。
「お疲れ様」
朔は驚いたように振り返り、すぐに表情を緩めた。
「栞。終わったの?」
「うん。今帰るところ」
「俺も、もう少しで片付く」
そう言って木箱を持ち直す。
無意識に、手の甲で汗を拭う。
栞は、その仕草を見ていた。
「最近、大変そうだね。一人で大丈夫?」
「そうでもないよ。大丈夫」
朔は、少し考えてから続ける。
「出来ることが増えてきただけ」
その言葉は、どこか誇らしげだった。
栞は頷く。
「……いいことだと思う」
そう言いながら、微笑む。
不安を隠して。
けれど。
その言葉の奥で、別の声が小さく揺れる。
――朔が、遠くに行く気がする。
一人で歩けるようになったから?
朔が紗英と知り合ったから?
ただ、そんな予感だけが、胸の奥に残る。
「今日は、遅くなる?」
「いや、多分すぐ終わる。……一緒に帰る?」
その問いに、栞は一瞬だけ息を止めた。
嬉しさが、先に浮かぶ。
それを、ゆっくり飲み込む。
「うん。待ってる」
「ごめん、ちょっとだけ」
「大丈夫」
栞は近くの柵に寄りかかり、朔の背中を見送った。
朔は再び家の中に入り、扉が閉まる。
静寂が戻る。
霧が、足元をゆっくり流れていく。
栞は、自分の指先を見つめた。
何かを握ろうとして、握れないような感覚が残っている。
言葉にすれば、形になってしまう。
形になれば、もう引き返せなくなる。
けど…決めないと、また失うかもしれない…
それが怖かった。
風が吹き、霧が揺れる。
遠くで、誰かが名前を呼んでいる。
知らない声。
知らない名前。
栞は目を閉じ、深く息を吸った。
胸の奥にある不安は、消えない。
確かにそこにある。
やがて、家の扉が開く音がした。
栞は顔を上げる。
朔が、少し急ぎ足でこちらに向かってくる。
その姿を見た瞬間――
胸の奥の揺れは、そっと静まった。
けれど。
消えたわけではない。
それは、まだ――
ふたりの間に、言葉にならないまま残り続けていた。




