表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
霧の町  作者: 相田 依人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/31

第二十一章

 さくは、一瞬だけ紗英さえを受け止め、優しく離れる。


「帰るよ」


 さくは西通りの橋を戻り始める。


 紗英さえは黙って、さくの後を歩き始めた。

 

 その頃。


 しおりは、古い洋品店の奥で、布を畳んでいた。


 店主の老婆が仕入れてきた布は、どれも少し色褪せている。


 けれど触れると、柔らかく、温かい。


「手つき、上手くなったね」


「……慣れただけです」


 しおりは笑いながら答える。


「最初は、指を刺してばかりだったのに」


「言わないでください」


 二人で、小さく笑う。


 笑い声は、店の奥で静かに消えていく。


 布を棚に並べ終えたとき、栞はふと、窓の外を見た。


 霧の向こうに、人影が動いている。


 見慣れた歩き方――


 朔だ、とすぐに分かった。


 でも…


 もう一人も、すぐに分かった。


 紗英さえだと。


 橋の方から帰ってきたようで、背中が、白く滲んで見える。


「……さくくんかい?」


 老婆が、しおり視線の先を追うように言った。


 栞は、少しだけ間を置いて頷く。


「……はい……」


 それ以上は言わない。


 手を動かし、布の端を整える。


 指先は、きちんと仕事を続けている。


 けれど、胸の奥に、大きな不安が生まれていることに気づいていた。


 紗英さえと会った時、彼女は言った。


「もし、あんたがさくくんと……」


 その時は聞きたくなくて、逃げ出した。


 人の持っているものを欲しがる紗英さえ


 紗英さえは、さくを欲しがっている。


 さくを好きになってる?


 布を掴む指先が震えていることに、しおりは、しばらく気がつかなかった。

 

 夕方。


 仕事を終えたしおりが外に出ると、町は柔らかな橙色だいだいいろに染まっていた。


 霧が光を含み、淡く揺れている。


 帰り道の途中、さくの姿を見つけた。


 木箱を抱え、誰かの家の前で立ち止まっている。


 扉をノックし、何か説明しているようだった。


 その表情は真剣で、言葉を選びながらも、どこか落ち着いている。


――変わったな。


 いつもなら、そう思うだろう。


 でも…今は…


 聞きたい。


 どうして紗英さえと一緒だったのか。


 何があったのか。

 

 紗英さえを、どう思うか。


 けど…。


 聞けるだろうか……。


 聞けば、さくは答えてくれるだろう。


 でも…。


 聞く権利があるのだろうか。


 さくは、あたしの……。


 ほんの少しだけ、冷たいものが落ちる。


 さくが家から出てきたとき、しおりは声をかけた。


「お疲れ様」


 さくは驚いたように振り返り、すぐに表情を緩めた。


しおり。終わったの?」


「うん。今帰るところ」


「俺も、もう少しで片付く」


 そう言って木箱を持ち直す。


 無意識に、手の甲で汗を拭う。


 しおりは、その仕草を見ていた。


「最近、大変そうだね。一人で大丈夫?」


「そうでもないよ。大丈夫」


 さくは、少し考えてから続ける。


「出来ることが増えてきただけ」


 その言葉は、どこか誇らしげだった。


 しおりは頷く。


「……いいことだと思う」


 そう言いながら、微笑む。


 不安を隠して。


 けれど。


 その言葉の奥で、別の声が小さく揺れる。


――さくが、遠くに行く気がする。


 一人で歩けるようになったから?


 さく紗英さえと知り合ったから?


 ただ、そんな予感だけが、胸の奥に残る。


「今日は、遅くなる?」


「いや、多分すぐ終わる。……一緒に帰る?」


 その問いに、しおりは一瞬だけ息を止めた。


 嬉しさが、先に浮かぶ。


 それを、ゆっくり飲み込む。


「うん。待ってる」


「ごめん、ちょっとだけ」


「大丈夫」


 しおりは近くの柵に寄りかかり、さくの背中を見送った。


 さくは再び家の中に入り、扉が閉まる。


 静寂が戻る。


 霧が、足元をゆっくり流れていく。


 しおりは、自分の指先を見つめた。


 何かを握ろうとして、握れないような感覚が残っている。


 言葉にすれば、形になってしまう。


 形になれば、もう引き返せなくなる。


 けど…決めないと、また失うかもしれない…


 それが怖かった。


 風が吹き、霧が揺れる。


 遠くで、誰かが名前を呼んでいる。


 知らない声。


 知らない名前。


 しおりは目を閉じ、深く息を吸った。


 胸の奥にある不安は、消えない。


 確かにそこにある。


 やがて、家の扉が開く音がした。


 しおりは顔を上げる。


 さくが、少し急ぎ足でこちらに向かってくる。


 その姿を見た瞬間――


 胸の奥の揺れは、そっと静まった。


 けれど。


 消えたわけではない。


 それは、まだ――


 ふたりの間に、言葉にならないまま残り続けていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ