第二十章
霧の町では、季節がゆっくりと移ろう。
色は少しだけくすみ、風はやわらかく、時間は流れているのに、どこか足踏みをしているようだった。
朔は、手伝いに行く前に、町の中央にある掲示板の前に立ち寄っていた。
木の板に貼られた紙を一枚ずつ確認しながら、腕を組む。
「……西通りの橋、また霧が溜まりやすくなってるのか」
横から、店主の女が頷いた。
「今朝も、迷いかけた人が出たって聞いたよ」
「分かりました。午後、見に行きます」
朔は、西通りの橋に関する紙に、自分の名前を書き、様子を見に行くことにする。
その動作は、もうすっかり慣れたものだった。
「最近、よく動いてくれて助かるよ」
「いえ……俺に出来ること、これくらいですから」
照れたように笑うと、女は小さく肩をすくめた。
「そうやって引き受けるとこが、あんたらしいね」
朔は、少しだけ苦笑して掲示板を離れた。
昼過ぎ。
西通りへ向かう途中、霧は低く流れていた。
朔は、午前の手伝いを終えた足で、橋の様子を見に向かっていた。
湿った石畳を歩く。
後からも、石畳を歩く音がする。
手伝いの修理屋を出てから、ずっと付いてくる。
何度か振り返ってみたが、霧が濃くわからなかった。
しかし、いつまでも後を付けられるのも、気になって仕方ない。
朔は立ち止まり、先に行かせることにした。
石畳を歩く音がし、霧の中に次第に姿が浮かびあがる。
最初に気がついたのは、赤いハンドバッグだった。
あれ?
……あのハンドバッグ……どこかで……
現れたのは、ランタンを修理に持ってきた女性だった。
「こんにちは、朔くん」
女性は、後を付いてきたことを悪びれもしないで、挨拶してきた。
「こんにちは。えっと……ランタンを修理に持ってきた……」
「覚えててくれたの!?私、紗英と言います」
赤いハンドバッグを見て思い出したんです。とは言えず、
「ええ……」
とだけ答える。
「俺に用事ですか?紗英さん…」
「散歩してたら、朔くんを見たから、どこに行くんだろう……って、気になってね」
「この先の、西通りの橋の様子を見に行くんです。霧が溜まりやすいみたいなんで」
「私も付いて行ってみようかな」
何なんだ、この人は?
西通りの橋に行っても、面白くないだろ?
そう思ったが、断わるのも失礼に思い、
「構いませんけど、迷いかけた人が出るくらいなんで、気をつけてくださいね」
「ありがとう。けど…朔くんがいるから、大丈夫よ」
「俺がいても、何も出来ませんよ」
朔がそう言うと、紗英は朔の横に並び、
「最近、朔くんは頼りになるって、みんな言ってるわ」
「そんなこと……ないですから」
朔は歩き始めた。
二人で歩き出し、朔は違和感を感じる。
なんだろう
紗英が左側にいる。
いつも、栞がいる場所だ。
同じような年齢で、同じような身長。
それほど気にする必要はない。
なのに、違和感が凄い。
栞が横にいても、何も違和感なんて無いのに……
道端の店先で、誰かが椅子を直している。
子どもが小さな凧のようなものを追いかけていた。
――町の暮らしは、確かに続いている。
それを見ながら、朔は歩幅を少し速める。
やることが増えた。
頼まれることも増えた。
断れない自分に気づきながら、それでも足は止まらない。
「栞が羨ましいわ。いつも、朔くんの隣にいられて」
「え!?栞さんの知り合いですか」
朔は紗英の顔を見ながらたずねる。
「ただの友達よ」
短い返事
「ねぇ…朔くんと栞はどういう関係なの」
朔が立ち止まり、紗英の顔を見る。
紗英も立ち止まり、朔の顔を見る。
もう一度、聞かれる。
「栞とは、どういう関係なの」
朔は考えてしまう。
栞との関係……
自分の気持ちはわかっている。
けど……
栞の気持ちが分からない。
「知り合いです……、この町を教えてくれる……」
「知り合い……。それだけ?」
「……はい」
朔は歩く速度を速めた。
腹が立っていた。
栞との関係をづけづけと聞いてきた紗英に対してか。
栞との関係を
聞かれても、自分の想いと違う答えしか言えない自分に対してか。
朔には、答えを出せなかった。
橋のたもとに着くと、霧が水面のように淀んでいた。
白い層が、地面すれすれに溜まっている。
「凄い濃くなってる……」
紗英が霧の濃さに驚く。
「うん…。ここまで濃くなっているとは……」
朔は近くに置いてあった木製の標識を持ち上げ、橋の数十メートル手前に立てた。
「――ここから先、霧が濃い。通るなら声を掛け合って」
小さく声に出して確認する。
誰に聞かせるわけでもない。
独り言のような声。
それでも、口にすることで、決めたことが形になる気がした。
「ねぇ、朔くん。……試してみない」
「試す?何をですか」
「これよ」
紗英は標識を指差し、濃い霧の中、西通りの橋を渡り始めた。
「紗英さん!」
紗英の姿が霧に飲まれて、見えなくなる。
「紗英さん、危ないから戻って!」
朔が、西通りの橋の入り口から叫ぶ。
「大丈夫よ。……声を掛け合ってるでしょ……。朔くんも、こっちにおいでよ」
紗英が答える。
「川に落ちたらどうするんだ!早く戻って!」
朔は白い壁に向かって叫ぶ。
「あはは、朔くんは、弱虫なんだね。こっちは真っ白で、綺麗なのに…… きゃ!?」
紗英の悲鳴。
クソッ!
だから言ったのに!
朔は橋の欄干を頼りに走り出す。
橋を渡りきって、辺りを見回すが、紗英の姿は見えない。
激しい後悔が、朔を襲う。
やはり、連れて来るべきではなかった。
「紗英さん!」
叫んでも、返事はない。
これだけ霧が濃いと、見つけるのは難しいか……。
一人で探すより、誰か応援を呼んできた方がいいか……。
その時、霧の中から紗英が現れた。
「紗英さん……。」
紗英は、答えない。
「どうして返事をしてくれなかったんだ…。」
紗英が近づく。
「悲鳴が聞こえたけど……、大丈夫なの」
ただ、黙って朔に近づき、朔の胸に顔を埋める。
「紗英さん…。ちょっと……」
「来てくれた……。ありがとう、朔くん」
朔の身体に持たれかかる紗英の身体は、小さく震えていた。
風が吹き、霧がわずかに揺れる。




