第一章
夜の公園。
ベンチに並んで座る二人の間に、晩夏の空気が静かに流れていた。
街灯の光が、砂利道に淡く滲んでいる。
遠くでブランコが軋む音がして、誰もいないはずの遊具が、風に揺れていた。
「今日ね、ちゃんと話したいことがあって…」
彼女はそう言って、そっと僕の手を握った。
その温もりは、いつもより少しだけ冷たく感じた。
それでも、僕は安心したように握り返そうとして――ほんの少しだけ、指先が迷う。
「あなたの優しさ、すごく好きだったよ」
彼女は俯いたまま続ける。
「落ち込んだときも、泣きそうなときも、全部受け止めてくれた」
「……どういう……こと?」
言葉は自然に口から出た。
けれど、どこか他人事のように聞こえた。
彼女は小さく息をつき、苦笑する。
「……優しすぎて、物足りなくなっちゃったの」
胸の奥で、何かが静かに沈む。
「怒ってほしいとかじゃないの。ただ……あなたの“欲しい”って気持ちが、全然伝わってこなかった」
公園の木々が、さわりと揺れる。
僕は返す言葉を探した。
けれど、頭の中は妙に白くて、何も浮かばない。
「私、あなたの特別でいたかった」
彼女の声が、少しだけ震える。
「でも、あなたの優しさって……誰にでも向けられる気がして」
握られた手に、わずかに力が込められる。
「私だけに向けられた熱が欲しかったの」
沈黙が落ちる。
遠くの街灯に、小さな虫がぶつかっていた。
カツ、カツ、と乾いた音だけが、やけに響く。
「……ごめん」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
彼女は首を横に振る。
「謝らないで。あなたは悪くないから」
そう言いながら、彼女はゆっくりと手を離した。
その瞬間、晩夏の空気が、一気に冷えた気がした。
「ねえ」
彼女が立ち上がる。
「あなたと過ごした時間、ちゃんと幸せだったよ」
その言葉が、余計に胸を締め付けた。
僕は何か言おうとして――やめた。
引き止める理由も、言葉も、見つからなかった。
彼女は少しだけ笑って、立ち上がり背を向けた。
街灯の下で、その影が細く伸びる。
そして、そのまま夜の道に溶けていった。
帰り道。
僕は自分の手を見つめながら歩いていた。
まだ、彼女の温もりが残っている気がした。
どうすれば、この“熱”を伝えられたんだろう。
怒ればよかったのか。
わがままを言えばよかったのか。
それとも、ただ抱きしめればよかったのか。
考えれば考えるほど、正解は遠ざかる。
優しさしか取り柄がないと思っていた自分が、急に空っぽに思えた。
商店街は、ほとんどの店が閉まりかけていた。
シャッターの下りる音が、夜の静けさに混じる。
ふと、古本屋の前で足が止まる。
閉店間際の灯りが、ガラス越しに揺れていた。
理由はわからない。
ただ、胸の奥に何かが引っかかった。
しばらく立ち尽くしてから、僕は首を振り、歩き出す。
空を見上げると、晩夏の夜はまだ湿っていた。
けれど、風の匂いだけが、ほんの少し秋に近づいている。
街灯の光が、ぼんやりと滲んで見える。
――まるで、薄い霧がかかっているみたいだった。
僕は気にも留めず、帰路を急いだ。
この夜が、
自分の世界が変わる前触れだなんて。
そのときの僕は、まだ知らなかった。




