第十六章
数日後。
町の外れにある家から、助けを求める声が届いた。
灯りを支える柱が傾いて、屋根の一部が崩れているらしい。
霧の町では珍しいことではないが、放っておけば建物ごと倒れる可能性があった。
「朔、来てくれないか」
広場で声をかけられた時、朔は少しだけ驚いた。
街灯の修理を手伝った中年の男性、名前は…和久津…だったか。
「俺で役に立つなら」
そう答えた声は、思ったより自然だった。
家は、町の境に近い場所にあった。
霧がやや濃く、輪郭がぼやけている。
木造の平屋で、軒先の柱が斜めに沈み込んでいた。
「支えを入れ直さないと危ないな」
年配の男が言う。
「重しを運んで、柱を立て直す。朔、手伝えるか」
和久津が朔に問いかける。
「やってみます」
朔は即答した。
少し離れた場所で、栞がその様子を見ている。
「栞さんも、手を貸してもらえると助かるんだけど…」
別の女性が声をかけた。
「はい」
栞は頷く。
ただ、その瞬間。
朔の視線はすでに柱へ向いていた。
作業は思ったより重労働だった。
湿った木材は重く、足場も不安定だ。
朔は何度も手を滑らせながら、それでも踏みとどまる。
「もう少し右!」
「ここで止めろ!」
指示が飛ぶ。
朔は歯を食いしばりながら柱を支える。
「栞、重しこっち!」
誰かが叫ぶ。
「はい!」
栞は袋を抱え、駆け寄る。
けれど、その動きは、作業の中心ではなかった。
荷を運び、道具を渡し、散った木片を片付ける。
必要な仕事だ。
誰かがやらなければならない。
それでも。
朔の背中が、少し遠く感じられた。
柱が持ち上がった瞬間、周囲から小さな歓声が上がる。
「よし、そのまま固定!」
朔の腕が震えている。
汗が顎から落ちる。
「大丈夫か」
「……なんとか」
息を整えながら、朔は笑った。
その顔は、疲れているのに――どこか誇らしげだった。
栞は、その表情を見て。
胸の奥が、静かに締まるのを感じた。
作業が終わった頃には、灯りが淡く揺れていた。
「助かったよ」
家の主が深く頭を下げる。
「朔がいなかったら、危なかった」
和久津が朔の肩を叩きながら笑顔を浮かべる。
「いや……俺だけじゃ」
朔は、慌てて首を振る。
「みんなでやったことです」
「それでもだ」
年配の男が笑う。
「お前、ちゃんと踏ん張ったな」
朔は、少しだけ言葉を失う。
それから。
照れたように笑った。
「……ありがとうございます」
そのやり取りを、栞は少し離れた場所で見ていた。
誰も、栞を無視しているわけじゃない。
感謝の言葉も向けられる。
「栞さんも助かったよ」
「いえ……」
栞は笑顔を返す。
けれど。
その笑顔は、自分でも分かるほど――軽かった。
帰り道。
霧は薄く、灯りが遠くまで見えていた。
「今日は、助かった」
朔が言う。
「栞が運んでくれたから、作業が回った」
「そんなことないよ」
栞は首を振る。
「朔が頑張ってた」
朔は、少し黙る。
「……なんかさ」
「うん?」
「前より、怖くなくなった気がする」
朔は霧の向こうを見ながら言った。
「誰かに頼られるの」
栞は、その横顔を見つめる。
「良かったね」
「うん」
朔は頷く。
「まだ慣れないけど」
その言葉は、真っ直ぐだった。
しばらく歩く。
足音だけが続く。
栞は、言葉を探す。
――私も。
そう言いかけて。
やめる。
何を、続けるつもりだったのか。
自分でも分からなかった。
「朔」
「ん?」
「……疲れてない?」
「ちょっとな」
朔は笑う。
「でも、嫌じゃない」
「そっか」
それ以上、言葉は続かなかった。
広場に戻ると、何人かが朔を呼び止めた。
「朔、ちょっと手伝ってくれるか」
「灯りの配線を見てほしいんだ」
朔は一瞬だけ栞を見る。
ほんの一瞬だった。
「……大丈夫か?」
「うん」
栞は頷く。
「行ってきて」
朔は、小さく「悪い」と言って、声の方へ歩いていく。
霧の灯りの中で、その背中はすぐに人影に溶けた。
「悪いね、栞ちゃん。邪魔しちゃって」
作業をしている男性から、そんな言葉が飛ぶ。
栞は、その場に立ったまま、笑顔を作った。
しばらく動かなかった。
胸の奥に、静かな波が広がる。
朔は変わっている。
ちゃんと、前に進んでいる。
それは――嬉しい。
本当に、嬉しい。
それなのに。
もし。
朔が、この町で必要とされる存在になったら。
もし。
朔が、自分がいなくても歩けるようになったら。
栞は、指先をぎゅっと握る。
霧が、足元をゆっくり流れていく。
灯りが揺れる。
その揺れの中で。
自分の立っている場所が、少しだけ曖昧になった気がした。
「……帰れるのかな」
誰にも聞こえない声が、零れる。
すぐに、栞は首を振る。
その言葉を、自分で打ち消すように。
そして、朔が作業している方向を――もう一度だけ見た。




