第十五章
きっかけは、些細なことだった。
古びた商店の棚が崩れかけているのを見つけ、朔が手伝ったこと。
灯りの調子が悪い家に呼ばれ、脚立に上って直したこと。
誰かが運びきれない荷を、一緒に持ったこと。
それだけだった。
けれど。
「朔、ちょっと手を貸してくれないか」
「朔くん、ちょっとお願いしてもいいかね」
名前で呼ばれ声をかけられる回数が、気づけば増えていた。
断る理由はない。
むしろ、頼られることは――どこか、嬉しかった。
朔は、不器用ながらも動いた。
どうすればいいのか分からなくても、とにかく手を伸ばした。
間違えたら、その時に考えればいいと思うようになっていた。
それは、以前の自分にはなかった変化だった。
「最近、忙しそうだね」
ある夕方。
栞が、そう言った。
二人は、いつもの広場の縁に並んで座っていた。
霧に滲んだ灯りが、ゆっくり揺れている。
「ああ……ちょっとね」
朔は、軽く笑った。
「頼まれると、断れなくてさ」
「朔らしい」
栞は、柔らかく笑う。
その笑顔は、いつもと同じだった。
「でも、前より楽しそう」
「そう見える?」
「うん」
栞は頷く。
「前は……どこか、迷ってる感じだったから」
朔は、少しだけ照れたように視線を逸らす。
「……まあ、まだ迷ってるけど」
「知ってる」
栞は、穏やかに言う。
「でも、前に進んでる」
短い沈黙が落ちた。
霧が、足元をゆっくり流れる。
朔が町の人に呼ばれ、席を立つことは珍しくなくなった。
「ごめん、すぐ戻る」
「うん。行ってきて」
栞は、そう言って見送る。
その背中が、霧に溶けていく。
栞は、しばらくその方向を見ていた。
やがて。
小さく息を吐く。
膝の上で、指先を組む。
――仕方ない。
そう思う。
朔は、変わろうとしている。
逃げずに、人と関わろうとしている。
それは、きっと――良いことだ。
分かっている。
ちゃんと、分かっている。
それでも。
胸の奥に、細い不安が伸びていく。
もし――
朔が、この町に馴染んでしまったら。
もし――
朔が、自分を必要としなくなったら。
その考えを、栞はすぐに押し込める。
首を振る。
――違う。
そんなこと、考える必要はない。
朔は優しい。
ちゃんと戻ってくる。
分かっている。
それでも。
視線が、無意識に霧の向こうを探してしまう。
その夜。
いつもの待ち合わせ場所で栞が待っていると、朔は少し遅れて戻ってきた。
「悪い。思ったより時間かかってさ」
「ううん」
栞は、首を振る。
「大丈夫」
「待たせたよね」
「平気」
短い言葉。
けれど、その声は穏やかだった。
朔は、少しだけ安心したように息を吐く。
「……なんか、変な感じだな」
「何が?」
「こうやってさ」
朔は、灯りを見つめながら言う。
「誰かの役に立ってるって思えるの」
栞は、その横顔を見る。
「いいことじゃない」
「うん。……怖いんだけだね」
「怖い?」
「期待されるのって」
朔は苦笑する。
「前は、嫌われないようにしてたけど……今は、ちゃんと応えられるかの方が怖い」
栞は、少しだけ目を細める。
「朔は、大丈夫だよ」
その言葉は、自然に出た。
朔は、驚いたように栞を見る。
「根拠ないけど」
栞は笑う。
「でも、分かる」
朔は、しばらく何も言わなかった。
やがて。
「……ありがとう」
そう呟いた。
二人の間に、静かな時間が流れる。
以前より、言葉は少し減ったかもしれない。
けれど、沈黙は重くなかった。
それでも。
栞の胸の奥には、言葉にならない感情が、少しずつ積もっていく。
朔が遠くに行くわけじゃない。
隣にいる。
それなのに。
距離が、ゆっくり変わっていく気がしていた。
栞は、その感覚を――
まだ、名前にしない。
ただ。
朔が笑うたびに。
誰かに呼ばれて立ち上がるたびに。
胸の奥が、わずかに揺れた。




