第十四章
翌朝。
霧は、昨日と変わらず町を覆っていた。
朝なのか昼なのか判然としない淡い光が、建物の輪郭だけをぼんやりと浮かび上がらせている。
朔は宿の前に立ち、息を吐いた。
白い靄の中に、自分の呼気が溶けていく。
この町では、時間の進み方が掴めない。
それでも腹は減るし、眠気も来る。
身体だけが、律儀に現実の名残を守っているようだった。
「……」
やることが、思い浮かばない。
帰る方法を探すべきなのだろう。
だが、どこから手をつければいいのか分からない。
立ち尽くしていると、通りの奥から軋む音が近づいてきた。
振り向くと、台車を押す老人の姿が見える。
木箱がいくつも積まれていた。
「暇そうだな、兄ちゃん」
朔は一瞬、言葉に詰まる。
「……そう、見えますか」
「見える」
老人は歩みを止めずに言った。
「運ぶのを手伝えるか」
朔は迷わず頷いた。
理由は、自分でもよく分からなかった。
ただ、立ち止まったままでいることに、妙な居心地の悪さを感じていた。
台車の後ろに回り、押す。
木箱は見た目より重かった。
霧の中を進みながら、朔は口を開く。
「この町でも……こういう仕事、あるんですね」
「ある」
老人は短く答える。
「待っているだけだと、人は壊れる」
その声には、特別な感情は乗っていなかった。
ただ、事実を述べているだけの響きだった。
「動けるやつは、動く。それだけだ」
朔は何も返さず、台車を押し続けた。
倉庫の中には、同じような木箱が整然と積まれていた。
湿った木の匂いが漂っている。
「……これ、中身は?」
「食料だったり、道具だったりだ」
老人は箱を軽く叩いた。
「誰が用意しているかは、知らん」
朔は頷いた。
この町では、分からないことを無理に掘り下げない空気がある。
「便利ですね」
思わず漏れた言葉に、老人は小さく息を吐いた。
「便利すぎると、人は選ばなくなる」
その意味を問い返す前に、老人は外へ歩き出していた。
倉庫を出たところで、別の男が声をかけてきた。
「お、新顔か」
腕まくりをした中年だった。
名前は和久津と言った。
手には工具が握られている。
「今、街灯を直してるんだ。少し手を貸してくれないか」
朔は街路の端を見た。
柱が傾き、灯りが弱く瞬いている。
「……電気、来てるんですか」
中年は苦笑した。
「来てるような、来てないような、だな」
そう言って肩をすくめる。
「点くから、まあいい」
この町らしい理屈だった。
朔は黙って頷いた。
街灯の修理は、単純な作業の積み重ねだった。
配線を確かめ、柱を支え、緩んだ金具を締め直す。
霧の湿り気で手が滑る。
それでも、作業に集中していると、不思議と余計な考えが遠のいていった。
「助かった」
中年が工具をしまいながら言う。
「こういう作業を手伝ってくれるやつ、少なくてさ」
「みんな忙しいんですか」
中年は少し考え、首を振った。
「違うな」
灯りを見上げながら続ける。
「帰るつもりでいると、ここを直そうとしなくなる」
朔の手が止まった。
「……帰れると信じてるから?」
「信じてる、というより」
中年は曖昧に笑った。
「帰るかもしれない未来のために、今を止めてる」
その言葉は、胸の奥に静かに落ちた。
「帰れないとわかっているのに……可能性は捨て切れないのさ」
波風を立てないように。
相手に合わせるように。
そうして、何も選ばなかった。
ふと、あの夜の公園が脳裏をよぎる。
朔は視線を落とし、再び工具を握った。
作業が終わる頃、霧の向こうから栞が現れた。
「何してるの?」
「街灯を直してたんだ…」
栞は灯りを見上げる。
淡い光が、霧の中に柔らかく広がっていた。
「珍しいね」
「そうかな」
「うん」
栞は、わずかに首を傾げる。
「朔、自分から何かやるタイプじゃなかった気がする」
胸の奥が、少しだけ痛む。
けれど朔は、目を逸らさなかった。
「うん……だから……変わろうとしてる」
その言葉は、思っていたより静かに出た。
栞は、少しだけ目を見開いた。
だが、すぐに街灯へ視線を戻す。
二人で、しばらく黙って光を見上げた。
帰り道。
霧の中を並んで歩く。
「ねえ」
栞が、不意に口を開いた。
「今日の朔、ちょっと頼もしかった」
「……それ、褒めてる?」
「一応」
照れたように笑う気配が伝わる。
朔も、わずかに口元を緩めた。
「じゃあ、明日も何か探してみる」
「仕事?」
「うん。俺に出来ること」
しばらく沈黙が続く。
やがて栞が、静かに言った。
「……それなら」
「?」
「私も手伝う」
朔は驚き、栞を見る。
霧が濃く、表情ははっきりしない。
それでも、声の柔らかさだけは伝わってきた。
二人は、また歩き出す。
町は相変わらず色褪せたまま。
何かが劇的に変わる気配はない。
それでも朔は思った。
待つだけの場所でも、
歩くことはできる。
その感覚はまだ、答えとは呼べない。
けれど確かに、胸の奥で小さく灯っていた。
朔は、その火を消さないようにするだけで精一杯だった。
霧の町での暮らしは、相変わらず穏やかで――そして、少しずつ変わり始めていた。




