第十三章
霧は、すぐには晴れなかった。
閉じたはずの境目の前で、朔はしばらく動けずにいた。
足元を覆う白は、もう道を示していない。
——自分は、選んだ。
けど…、自分が選んだ状況ではなかった。
後悔は無い……わけじゃない……
後悔は、声にならず胸の内に沈む。
選ぶ、という言葉が、さらに重くなった気がした。
——自分と栞は、帰れるのか。
いや……帰る。
その言葉を思い浮かべるたび、あの男の後悔を含んだ笑みが脳裏をよぎる。
「来てくれると分かっていたのに、もし来なかったら、を考えていた」
朔は、ゆっくりと拳を握った。
考えることから逃げなかった。
それだけで、胸の奥がひどく疲れる。
やがて、霧の流れが変わる。
完全に閉じた霧は、町の方角へと、静かに道を作っていた。
——戻るしかない。
今は、それしか選べない。
朔は踵を返し、霧の町へ向かって歩き出した。
どれくらい歩いただろう。
霧の向こうに、人影が滲む。
「……朔?」
聞き慣れた声だった。
けれど、どこか不安定で、今にも消えてしまいそうな。
「栞さん……」
彼女は立ち止まったまま、こちらを見ていた。
近づくにつれ、その表情がはっきりする。
笑おうとして、失敗した顔。
「……境界は?……閉じた?」
その問いに、朔は一瞬、言葉を失う。
もし、栞が声をかけなかったら……
もし、もう少し栞が遅れていたら……
誤魔化しも、言い訳も、すぐには出てこなかった。
それでも、それらを飲み込んで、
「うん」
短く答える。
そして、少し間を置いて続けた。
「でも…また次があるさ…」
朔には、次の機会があるかどうか分からなかったが、栞を思うと、その言葉しか出てこなかった。
「二度も道が開くなんて話は、聞いたことがないな」
男の言葉が脳裏に蘇る。
栞が目を伏せる。
「私のせい…だよね……」
肩が、わずかに震えた。
「……私たち、本当に帰れるのかな」
弱音だった。
今まで、なるべく口にしなかった言葉。
朔は、自分の中で何かが揺れるのを感じる。
同じ不安。
同じ問い。
——自分も、怖い。
それでも。
「帰れると思う」
嘘だったかもしれない。
確信は、まだない。
けれど、朔は目を逸らさなかった。
「少なくとも、考えることは出来る。選ぶことも」
栞が、ゆっくり顔を上げる。
「……選ぶ?」
「うん」
朔は、ぎこちなく笑った。
「俺、今までさ。選ばないことで、楽してたと思う」
言葉にするたび、胸が痛む。
その痛みは、朔のこれまでの考え方を、変えるための痛みだった。
だから、止めなかった。
「でも……それじゃ、何も変わらない」
栞は黙って聞いている。
霧の中で、その沈黙がやけに長く感じられた。
「だからさ」
朔は、少しだけ声を張る。
「今は帰れなくてもいい。時間かかってもいい」
栞の瞳が揺れる。
「一緒に、考えよう」
その言葉は、誰よりも自分に向けたものだった。
栞はしばらく何も言わず、やがて小さく息を吐いた。
「……ずるいね」
「え?」
「そういうこと言われると、希望、持っちゃうじゃん」
かすかな笑み。
でも、まだ脆い。
朔は頷いた。
「それでいいんじゃないかな……今は……」
胸の奥が、微かに温かい。
答えは、まだ遠い。
それでも。
二人は並んで歩き出す。
霧の町へ戻る道を。
白い闇の中で、確かに——
同じ方向を見ながら。




