第十二章
霧の町に招かれ、帰りたいと願う朔。
町の人と話す中で、元の世界に帰るための条件が、次第に見えてくる。
町外れの、小さな木造家屋。
灯りが、障子越しに揺れている。
朔は、迷わず戸を叩いた。
「栞さん!」
中から足音がする。
戸が開く。
「朔?」
驚いた顔。
「どうしたの?」
息が荒い。
言葉がまとまらない。
それでも。
朔は言った。
「帰ろう」
栞の表情が止まる。
霧が、二人の間を流れる。
「……急に、どうしたの」
栞は戸口に立ったまま聞く。
朔は、真っ直ぐ見る。
逃げずに。
「俺、今まで」
息を整える。
「嫌われないことばかり考えてた」
言葉が震える。
「でも、それって」
「ちゃんと好きになることから逃げてた」
栞の目が、わずかに揺れる。
「俺」
朔は続ける。
「栞に、帰ってほしい」
「俺とじゃなくてもいい」
言った瞬間、胸が裂ける。
それでも止まらない。
「でも」
声が強くなる。
「選ぶなら、ちゃんと選んでほしい」
霧が、静かに渦を巻く。
「元彼でも」
「俺でも」
「帰らないって選択でも」
拳を握る。
「逃げないで決めてほしい」
長い沈黙。
栞は、俯いた。
肩が小さく震える。
「……ずるいよ」
かすれた声。
「そんな言い方されたら」
涙が落ちる。
「私、まだ」
栞は言う。
「向こうを忘れきれてない」
朔は頷く。
「分かってる」
「でも」
栞は顔を上げる。
「朔といると」
声が崩れる。
「帰りたい気持ちが強くなる」
その言葉は。
希望であり。
残酷だった。
「怖いの」
栞は続ける。
「帰ったら」
「全部思い出して」
「朔のこと、ただの思い出になるかもしれない」
朔の喉が詰まる。
それでも。
朔は、言う。
「それでもいい」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
「忘れられてもいい」
霧が、ふっと揺れる。
「でも」
朔は続ける。
「栞が、自分で選んだなら」
「それでいい」
栞が泣きながら笑う。
「ほんと……変わったね」
「まだ途中だけどな」
朔は苦笑する。
そのとき。
霧が、強く流れ込んだ。
戸口の白が濃くなる。
栞の足元が、わずかに霞む。
朔の心臓が跳ねる。
「栞さん」
名前を呼ぶ。
栞は、霧の中で立っている。
その姿が、ほんの少し透けて見えた。
「……朔」
栞は言う。
「もう少しだけ」
「考えさせて」
朔は頷く。
「待つ」
即答だった。
栞は微笑む。
だがその笑みの奥に。
消えかけた灯りのような、不安が揺れていた。
戸が閉まる。
朔は、霧の中に立ち尽くす。
拳を開く。
震えている。
それでも。
胸の奥に、確かな感触があった。
逃げなかった。
初めて。
朔は自分の部屋に帰りながら、栞に自分の気持ちを伝えたことに興奮していた。
出来た。
自分の気持ちを相手に伝えた。
朔の中に、優しいだけとは違う、新しい男が生まれた気がしていた。
その背後で。
霧が、静かに蠢く。
わずかに色を変える。
まるで。
「決断の期限」が近づいていることを、告げるように。
遠くで、鐘の音が鳴る。
この町に来てから、聞いたことのない音だった。
朔は顔を上げる。
町の通りが、ゆっくりと輪郭を持ち始めている。
建物の線がはっきりし、道の奥行きが深くなる。
まるで――
世界が「選ばれる側」から「選ぶ側」へと、立場を変えたように。
「……来たな」
誰かの声がした。
振り返ると、通りの端に人影が立っている。
30代後半くらいの男性が、薄れる霧を見つめている。
その目に少しだけ、
希望
可能性
未来
が、写っている。
「何が……」
朔が問うより先に、男性は言った。
「霧が、動き出した」
確かに霧の流れがいつもと違う。
「何が起こるんです?」
朔は、栞が居ない状況で、今、何が起きているのか理解出来なかった。
「誰かが、決めたんだ…誰か、帰れるんだ…」
朔の喉が鳴る。
「決めた……?帰れる……?」
男性は頷く。
「ああ…。元の世界で…求められ、この町で…何か…よく分からないが…決められたら…帰れるらしい…」
一つひとつ区切るように、言葉を落とす。
朔は拳を見つめる。
わずかに震えている。
だが――
今朝までの迷いはない。
「……俺は」
声が、思ったより低く出た。
「……帰りたい…」
その瞬間、霧が大きくうねった。
町の奥、数十メートル先に、これまで見えなかった通りに、淡い光の筋が灯る。
一本だけ。
細く、長く、続いている。
朔は、その光から目が離せない。
「……お前……だったのか……」
男性が朔を驚きの目で見つめる。
朔の目には、光の筋しか写っていない。
胸の奥が、熱を帯びる。
帰れる……
帰れる……
帰れる!!
背後で、霧が静かに渦を巻く。
まるで世界そのものが、期限を刻み始めたように。
彼の選択を、待つように。
朔は、一歩、踏み出した。
靴底が、石畳を確かに踏む。
その瞬間、遠くで――
誰かが、彼の名を呼んだ気がした。
風に溶けるほど小さく。
それでも、胸に残る声。
朔は立ち止まらない。
振り返らない。
ただ、前を見る。
「……朔……」
今度は、さっきより、はっきり聞こえた。
……栞さん……
朔は我に帰る。
……栞さんが居ないじゃないか……
何をしてるんだ僕は…。
一人で帰ったって仕方ないだろ。
栞さんが居ないと。
栞さんが一緒じゃないと。
朔は立ち止まる。
そうだ…僕は決めたんだ。
栞さんと一緒に帰る。って。
霧の中の淡い光が小さくなり消えていく。
それに伴い、光の筋も消えていった。
朔は振り返り、その名前を呼んだ。
「栞さーん!」
「朔!」
霧は濃さを増していった。




